パウロはトラー 預言書から語っている事実 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ローマ2:17ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、

トラーに頼り、神を誇りとし、 

18その御心を知り、トラーによって教えられて

何をなすべきかをわきまえています。 

<彼らに対し、トラー=神の教え、インストラクションを

知っているのでしょう?と強調し確認しています。>

 

19-20また、トラーの中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、

無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。 

 

<パウロがここで最初に諭しているのは、ユダヤ人=イスラエルの神に属する、世界へ神の教えを運ぶ代表者と名乗っている。

トラー=神の教えにのっとり、神を誇りとし、神の教えにより

何をするのかわきまえているはずと書いてあります。

この人達は自分が人を導く教師だと自負している人達であると

書かれています。

パウロは神の教え=トラーが絶対的であるその根拠を

全く揺るがしてはいません。>

 

21それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。 

22「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。

偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。 

 

23あなたはトラーを誇りとしながら、トラーを破って

神を侮っている。 

<パウロ自身が他者へトラーを否定し捨てた別の教えをもし

しているとするなら、なんでこんな事を言っているのか、

辻褄合わず、矛盾していますよね。

パウロはトラーを知りながら、トラーに書かれた教えを実際に

違反し、生きてない、しかも教師と名乗る立場の人達へ

警告している事実が書いてあります。

トラー=神の教え、インストラクションからずれた生き方をしている教師たちへパウロが警告している事実を、聖書に書かれている通りにはっきりと読み取ってみてください。

 

24「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。 

25あなたが受けた割礼も、トラーを守ればこそ意味があり、

トラーを破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。 

 

<パウロは割礼を廃止、否定していると言う教えは聖書の事実では無い不真実な教えです。神の契約、神の子らに与えられた

アヴラハムを通して与えられた無性で義とされた印、

代々に渡り無償で神の義が与えられている事実を表す男性の

生殖器=次世代へ命をつなぐ臓器に付けられた印は

永遠に変わらないもの、継続されて行くものなのです。

 

そしてパウロが話しているのは、印を肉に付けても、

その印の意味=神の義=トラー=神の子らの生き方をしないなら

それは割礼があっても割礼を受けてないのと同じと

言っているのです。

そして、神の預言者、使徒達が神の言葉、教えのどの1文字も

否定するなら、それは”偽預言者” ”偽教師”です。

聖書に登場する預言者、使徒達、神に油注がれた人達は、

誰一人その様な教えはしていないのです。

 

その教えは、西洋人が作った教えと言う事実を知って

聖書はどの部分も削除、付け足し出来ない”神の言葉”=

神ご自身であると神が人に伝える通りに聖書を読まないと

ならないのです。

 

クリスチャンの世界で言えば、イエスさまを信じますと言い、

洗礼受けても、救い主が教えていた教え=トラーを知らない

まま、自由自在に自分の判断基準を生きて、又は人の教えを

生きていたら、それは神の似姿を生きていることにならないの

です。それをパウロが話しているのです。

その場合=表向きの儀式=洗礼も意味は無いと言う事です。

 

洗礼と訳されている言葉は、水に完全に浸された状態です。

水=イエシュアを通り、以前の自分に死に、新しい命に

繋がった。その新しい命にされた人はもれなく神の似姿=トラーを生きると聖書には書いてありこれをパウロがローマの書簡で

同じ意味で話しているのです。

 

クリスチャンはモーセの五書とは別の教えを生きるのであると

言う幻想と、神が別の教えを与えていない、この世に存在しない別の福音を、自分解釈の教えを生きるのではない。

 

同じ神の教え、神の家族として生きる共同体に与えられた

1つ神の1つ同じ福音=教え、生き方を生きると書いてあるのが

聖書の真実なのです。

 

パウロが24節で引用しているのは何なのでしょう?

いくつかの箇所に繋がります。何が神の名を汚す行為だと

聖書には書いてある行為は何なのでしょう?

その一つ。エゼキエル書。

途中から引用すると分からないので、載せます。

聖書は内容を逸脱したり、書いてある内容の一部だけ取り出して

中身に書いてある事とは違う読み方をしては事実は見えない。

 

エゼキエル

20:5 かつ彼らに言え。主なる神はこう言われる、

わたしがイスラエルを選び、ヤコブの家の子孫に誓い、

エジプトの地でわたし自身を彼らに知らせ彼らに誓って、

わたしはあなたがたの神、主であると言った日、

 

 20:6 その日にわたしは彼らに誓って、エジプトの地から彼らを導き出し、わたしが彼らのために探り求めた乳と蜜との流れる地、全地の中で最もすばらしい所へ行かせると言った。

 

20:7 わたしは彼らに言った、あなたがたは、おのおのその目を楽しませる憎むべきものを捨てよ。エジプトの偶像をもって、

その身を汚すな。わたしはあなたがたの神、主であると。

 

20:8 ところが彼らはわたしにそむき、わたしの言うことを

聞こうともしなかった。彼らは、おのおのその目を楽しませた

憎むべきものを捨てず、またエジプトの偶像を捨てなかった。

それで、わたしはエジプトの地のうちで、わたしの憤りを

彼らに注ぎ、わたしの怒りを彼らに漏らそうと思った。

 

20:9 しかしわたしはわたしの名のために行動した。

それはエジプトの地から彼らを導き出して、周囲に住んでいた

異邦人たちに、わたしのことを知らせ、わたしの名が彼らの

目の前に、はずかしめられないためである。

 

 20:10 すなわち、わたしはエジプトの地から彼らを導き出して、荒野に連れて行き、

 

20:11 わたしの定め=トラー=<婚姻契約=モーセの五書=

シャヴオート=ペンテコステは、トラーを受け取った記念の祭り>を彼らに授け、わたしのおきてを彼らに示した。

これは人がこれを行うことによって生きるものである。

<神の性質=似姿=神の名の実態は、神の言葉=教えを生きる

人の中から表われ出る。人は神の言葉を生きて、本来の性質を

まことに真実に生きられる。>

 

20:12 わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの

間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである。

 

20:13 しかしイスラエルの家は荒野でわたしにそむき、

わたしの定めに歩まず、人がそれを行うことによって、

生きることのできるわたしのおきてを捨て、大いにわたしの

安息日=シャバット=第七日目を汚した。

そこでわたしは荒野で、わたしの憤りを彼らの上に注ぎ、

これを滅ぼそうと思ったが、

 

 20:14 わたしはわたしののために行動した。それはわたしが彼らを導き出して見せた異邦人の前に、わたしの名が汚されないためである。

 

20:15 ただし、わたしは荒野で彼らに誓い、わたしが彼らに

与えた乳と蜜との流れる地、全地の最もすばらしい地に、

彼らを導かないと言った。

 

20:16 これは彼らがその心に偶像を慕って、わがおきてを捨てわが定め=トラー=婚姻契約=モーセの五書=父の言葉

に歩まず、わが安息日を汚したからである。

<どんなに頑張って理屈、理由づけをしても世界は神の教え

トラーを捨てよ!と教え、そして神のオリジナルの記念日

シャバット、祭りを捨てて汚しています。それに気が付かないのは自分たちの発想や熱心、情熱で神のためにしていると考えて

やっている事でも、神の創造されたオリジナル記念日を違うものにすり替えたり、イスラエルの神に属さない教えは、実はここに

書かれている通り神には耐えられない汚れであると

警告されています。わたしの安息日=シャバット=第七日目の

永遠の印の記念日を汚したと書いてあるのです。

 

20:17 けれどもわたしは彼らを惜しみ見て、彼らを滅ぼさず、

荒野で彼らを絶やさなかった。

 

20:18 わたしはまた荒野で彼らの子どもたちに言った、

あなたがたの先祖の定めに歩んではならない。

そのおきてを守ってはならない。

その偶像をもって、あなたがたの身を汚してはならない。

<先祖が行なった偶像礼拝=異教神の慣わし、教えの混ぜ物の

教えを生きてはならない>

 

20:19 主なるわたしはあなたがたの神である。

わが定めに歩み、わがおきてを守ってこれを行い、

<わがさだめ、わがおきて=トラーをガードし行い>

 

20:27なぜなら、彼らがわたしの裁きを行わず、

わたしの掟=トラーにかかれた教えを退け、わたしの安息日を

汚し、彼らの父祖の偶像に目をひかれていたからである。 

 

 

 

 

続く