パウロが語っている聖書解説、教えの内容は100%もれなく
全てモーセの五書を指して語っています。
イエシュアの教えも100%モーセの五書=父の言葉のみを
教えて、実際に生きて人々にトラーの生き方のお手本を
見せたのです。
それが”新しい戒め”と書いてあるものです。
新しい教えではないです。人類初、本物の人間が完璧に神の
似姿=トラーを生きたのはイエシュアお一人だからです。
それを新しい戒め=互いに愛し合いましょうとある下りが
それです。
”互いに愛し合う”とはトラーに書かれている教えであり、
新しく出現した教えではない。
でも人としてそれを完全に生きたことがない、その完全なる
手本を弟子たちやイエシュアに触れた人たちは、実際に
見たのでしょう。地上で。
その話をイエシュア もパウロもしているのです。
新しい別種の戒め、教えの内容は無いのです。
実際に生きた手本=イエシュア のされたことを思い出して!と
話しているのです。
イエシュアもパウロも一度たりとも”父の言葉”=神の言葉=
トラー=モーセの五書のどの一点一画も否定する様な教えを
していない!と言うのが聖書の事実なのです。
でもキリスト教の神学の教えでは、イエシュアが来られて呪いの律法=モーセの五書が廃止、破棄、終了したと教えられ聖書の
記述と異なる人の教えを皆本気で信じているのです。
そうなると、シャヴオート=ペンテコステの祭りは、
呪いの律法を受け取った記念日を祝ったと言う事になって
しまうのです。祭りの趣旨が全くずれていて、しかも福音を預言を網羅する神の三大祭りにはならなくなってしまいます。
”はじめの愛”とあるヨハネの言葉は、まさにこのシャヴオートの祭り、シナイ山で人類初神が文字として証拠として記した
婚姻契約=トラーを指して語っているのです。
聖書の記述と人の解説とは辻褄合わない、その矛盾に気が付け
ますか?
ペンテコステは、”婚姻契約書”=神が人との関係を永遠に
保証されている証拠=トラー=神が直接文字で書かれたものを
与えられた記念の日である事を多くのクリスチャンは
認識しないまま、聖霊初降臨祭りと名前を変えているのです。
聖書の記述や名称、名前、内容を変えてしまうから、
神が語る真実が覆い隠されて真実、事実が見えなくなって
しまうのです。
神の言葉は完璧、完全。神の言葉は永遠!変更不可!不要!と
書いてある通りにもし読み取らないならば、人の教え=半分
真実、半分不真実=人の教えと神の教えが混在する変形された
混ぜ物の教えの迷路にはまり、その思考回路から脱出出来なく
なってしまうのです。それがパウロの警告した別の福音、
偽教師、偽預言者の教えの正体なのです。
それがこの長い歴史の中2000年にも渡り起きてしまったのです。ローマ帝国とそして神のトラーを曲げる西洋教父達に
より編み出され続けた教えのせいです。
悲惨な事、み言葉=神のトラーを聞けない飢饉そのものです。
大衆により19世紀以上も語り続けられ、信じられ続けばそれが
聖書の真実だと錯覚して考えてしまう。
進化論を信じるそれと同じからくり。そのトリックに
気がつけば良いのです。聖書ではない教えは何万年経っても
全世界で多くの大衆が信じようともそれは真実とは変化しない!
時がどれほど過ぎようとも猿は人間に進化しないのと同じ。
あまり直接的に言いたくないのですが、これほど聖書の記述、
事実、真意、真理とは違う神の言葉の真実が曲げられた教えが
世界中に浸透蔓延してしまったら、真実を直に話そうとも
全く通じない。それなら直に言わないともう時間が無い。
聖書に何が書いてあり、何が人の教えで真実ではないか
気がついた人たちは神の言葉の真実を発表しているのです。
こんな聖書の内容などいつまで書く事を妨害されない状態が
続くのか、もう分からないからです。
世界は1つの別の教え=神の言葉を曲げた教え、生き方に
管理され統一され始めている事に、どんなに眠った状態でも
さすがに気がつくと思うのです。
ネットでも嘘を本当だと言う事にされた情報が流され続け、
その情報だけを見続ける、聞き続ける人はそれが真実であると
洗脳されて行く。危ないのに安全だと信じる。
それがあれば完全な解決策、大丈夫と信じる。本気で大丈夫と
信じる。自分の身に何をされているのか気がつかないからです。
危ないことである内容を本当に知らないからです。
神の創造された人類に対しての最大なるヴァイオレーション、
神の創造に対してのヴァイオレーション=違反行為を
今させられているのに、それを大歓迎するような布石。
ある事柄に関して書いたら即座に削除されてしまう。
本当と嘘が見分けやすくなっている。笑
言論の自由など無い、言論の規制時代に入ったのです。
伝統の教え、世界に流通する主流の情報=嘘を捨てて、
それぞれが本当の真実を探り出さないとならないのです。
福音書〜黙示録は、100%純粋に別の教えの混ぜ物の無い教え=モーセの五書の解説であり、6000以上のトラー、預言書、諸書の引用が書いてあるのです。
モーセの五書と解説するのは、預言書、諸書は100%モーセの
五書に基づいた解説の書、知恵の書だから、
どの箇所も聖書を”トラー”と呼ぶのです。
トラー=モーセの五書がなければ聖書全部が崩壊するのです。
聖書の内容が全て意味不明になる。
土台を捨てたら建物は崩壊する。
建物は全て1つとして繋がっているのです。
でも神学の世界では、モーセの五書=聖書の土台をビル解体の
ごとく爆破してこっぱ微塵、それぞれ自分が必要だと思う、
いくらかのかけらの教えを拾って、要らないと思うものは捨てて自分に見合う、受け入れるに違和感ない教えだけを今有効な教えとして解説しているだけで、実際には学ぶ必要、生きる必要も
ないものになったと教えているのです。
イエシュア=イスラエルの神の大家族に加えられ、神の教えの
真理を世界へ伝える役割をユダヤ人同様、同じ家族の弟、
妹として、世界に地の塩、世の光、神の大家族の一員と神の
トラー=教え、インストラクションを伝えるべき人たちが、
別の福音=神の教え言葉をどの箇所も否定して教えるなら、
その様な変形した教え!そして聖書とは違う偽のイスラエルの
神像、怒りの神、恵の神の二重人格、時代ごとに七へんげする神、人種により教えを変える神などと言う神が伝える真逆の偽の神の性質や神の教えを伝えてはいけない事に目覚める、
気が付かないとならない時に突入しているのです。
錯覚しているのは、パウロは別の教科書=トラーとは違う別の
聖書を持って諸外国に教えに行ったと勘違いしていると思いますが、福音書〜黙示録が書かれている間は、それらの書、
そこに登場する人達は、ほぼ誰もその箇所の書を個人で聞いた事も読んだこともないのです。なぜなら、それらの書簡は特定の人に当てられたものであり1世紀にはまだ福音書〜黙示録はそろっておらず、聖書としても誰も世界の中で認識していない書である時代なのです。
そして福音書〜黙示録は純粋に、トラー=モーセの五書の解説で
あり、モーセの五書を解説する、預言書、諸書の引用しか書いてない事に気が付いて読んでみれば分かると思います。
パウロが諸外国に教えに出かけた時は100%トラーを教えている
のです。トラー以外の別の教えなど一度もしなかった。
もちろん、パウロの頭の中に全て、トラー、預言書、諸書は
全て暗記!!!してあるのです。それほどユダヤ人の中に、
頭脳に神のトラーが刻み込まれているのです。
重たいトラーの巻物など持ち運んで旅など出来ません。
それが1世紀のトラー学者の教育であり、普通のユダヤ人の家庭でもモーセの五書はそらで言えるほど暗記している、その様な
聖書教育文化を持つのがユダヤ人の世界なのです。
現代でも同じです。
別の福音=別の聖書=トラー=父の言葉=婚姻契約書=モーセの
五書以外の聖書など、神の前にこの世には存在しないものです。
トラー以外の神の教えなど無い!と知らないなら、別の教えが
出てきたと本気で信じ、トラー以外の教えの別の聖書など
この世には存在さえしないのに、別の新しい教え=別の聖書=
新約聖書なのだと勘違いしたまま聖書を読み続けてしまいます。
人間の作り出した書、人が作った非聖書的教えを述べる神学やや、他の宗教の宗教経典、モルモン教典やら何何経典やら
そんなのは人間が作った教科書で、聖書ではないのです。
その誤解した聖書解釈を根本から根こそぎ解いて、
あたかもパウロが別の聖書、モーセの五書を塗り替えた聖書、
以前とは別の教え、別の福音をたずさえて諸外国に行ったと信じている誤解、錯覚、空想、幻想を全部帳消し削除すれば神の言葉の真実が浮き上がって、どんどん事実が見えて来ます。
だから聖書の記述、神の言葉の真実だけに戻る必要があるのです。
続く