本気で神の言われる事を信じるのか信じないのか | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

18〜19世紀にかけて人間至上主義思想、神の教えは排除、

人間中心哲学に影響された西洋人が編み出し続けた思想で

イギリスで作り出されたデイスペンセーション神学は、

19〜20世紀にアメリカに持ち込まれ、爆発的に受け入れられ浸透してしまいました。

そしてオリジナルの聖書=ヘブライ思索のヘブライの聖書=

純粋な神の言葉ではなく、人が作った思想=哲学の教えの

土台ありきで、聖書=神の言葉が、逸脱して解説されてしまったのです。

この事実を多くの人は知っており、同時に多くのクリスチャンは

知らない事実なのです。

神の言葉が歴史の途中でなんども変わったと教えられ、人の創作した教えが神の教えだと疑いもせずに聖書の神の言葉に照らし

合わせもせずそう信じ込まれてしまっているのです。

 

先日打ち合わせでイスラエルの私の恩師と話した時に

どうしてそんな教えがアメリカで受け入られて、爆発的に流通したのか?聖書に書いてあることと違うと、どうして神学校で

学ぶ人も気が付けないのか?いや多くの人は気が付いて、

これ聖書では無いとオリジナル聖書だけに戻る事をしています。

 

”聖書だけに照らし合わせると矛盾だらけのこの教えがどうして

こんなに浸透して、聖書の神の言葉の方を曲げてまで

この人造仮説を信奉する事が主流になってしまったの?”と。

 

”そう言う教えは人の耳には、それらしく納得する、

良い感じに聞こえるからだよ。。。”と。

そうですね。肉の目には納得出来る人間の考えに当てはめる

方程式と言うのがある。

 

そして、諸外国に散って育ったユダヤ人さえ、もし本当に正当な

ヘブライ聖書をヘブライ思索で書いてある通りの意味、内容を

きちんと学習することがなかったらどんな教えでも編み出して

しまうのです。その過ちが聖書にもはっきり書かれています。

それがイスラエルが混ぜ物の教え=異教の神々の要素と混じり

合い高き所を長い時では1000年以上も取り除かず、

結局イスラエルと言う国を追放、敵が侵入して来て捕囚の地に

追いやられる結末を刈り取った訳です。私達への警告です。

 

聖書に書かれている神の言葉は人が聞いてすんなり納得、

理解出来る事ばかりの内容では無いですね。本当に。

天の事実を、神が創造したデザインを、神では無い人間が

エデンを飛び出した肉の目=別の目が開かれた状態のままでは

全部すんなり分かる訳ない。

 

例えば、見よ!あなたは新しくされたと言われたって、

救われた後何も感じないし、何も変化しない。

救われた人だけ新しい体、新しい頭脳、痛み感じないとか、

特別な印が額に現れたらそれは違うと分かるけど、そうでは

無い。同じままでしょう。しかも昨日と同じ体で同じまま。

内側に変化=神がいる!と言う事実がはっきり分かっても。

 

新しくされたと思っても自分の記憶は実際に頭脳にこびりついているから、その古い人のままで考え、行動して、ひょんな事から

救われた喜びも感動も崩れたり。行ったり来たりの堂々巡りを

繰り返しているただの罪人のまんまさと神の言うことなんて

本当は本気では信じてないし、信じられないって言うのが

普通の状態なのではないかと思います。

 

だからその罪悪感を拭うために、何かをやる。たくさん懺悔したり、たくさん祈ったり、自分を卑下する事を言ってみたり、

自分がどんなにダメなやつだとと言い続ける様に教える人も

います。過去に犯した罪と言う罪全部書いてそれをいつも

読みなさいと教えられたと言う人もいました。

的外れな努力したり、活動奉仕で頑張ったりと、なんかこれって変と思いながら何も変わらない現状にジレンマと言うのが

多いと思います。

 

でも信仰とは肉の目には信じ難き神の言葉を信じる事です。

本当に。そして、神が言われた通りを信じて、神が言われた通りを実際に生きる事!と聖書にちゃんと最初から最後まではっきり書いてあるのです。

神が言われたら真実!と認めて、その事実を生きることをする。

でもそれは神の言葉を捨てたら、何を実際どう生きたら

良いのか、分からないでしょう。自己流な考えは出来ても。

 

神の教えを生きてるつもりでも、実は的外れ、自分の考えや定義で、神の教えている事を本当に知らないなら、あてずっぽか

ちょっと聖書読んで自分なりに解釈した生き方をするからです。

イエシュアがそう言われた通りです。主の名を唱えて色々してもそれが神の教えやエッセンスからズレていれば、神に属さない

わたしには関係ない!とイエシュアが言われましたね。

人間的には、”失礼、ひどい、いいじゃない。一生懸命気持ち

あってやってるんだから。”と思いますけど、

それって完全に的外れな思考回路から生まれる発想なのです。

神の性質に属さないものは神に属さないものとシンプルな事実

だから言われた通り=言われている事をまず知らないと

ならないのは、自分は的外れをしていると気が付けないから。

 

その一つに今の時期=イエシュアが復活後弟子達に現れた特別な

今の時を神がデザインし、意図した通りを神の指定した時の中で生きると言う事にあります。人は救われても自動的に魔法の杖で変わらない。新しくされている=義とされている事実が取り戻されている、生まれた!新生児状態から生きる訳です。

種を植えて、根が出て、芽が出て、幹が出て枝が出来て、実が

実る事実でも教えているでしょう。成長過程が無いなんて無い。

 

そして、一般にクリスチャンの世界で語られている、今は恵の時代だから、いや最初から最後まで恵の時代なのです!これも誤解されていますが、恵の中を生きる事実を知った=救われた人に

言っているのです。救われた人は今は神の恵の中にいる=無償で与えられた恵の中に引き戻されていると言う事です。

それを恵の時代は、神の言葉を否定、終わらせたとして、

なんでも自由にその人の判断でして良い自由など、聖書とは

1000%真逆の教えなのです。

神の教え=言葉=インストラクションは永遠に決して変わらないです。人間や創造物が進化変化しないから!7日目の完了の

シャバットでもその事実がはっきり表されているのです。

後から付け足す教えも無い!神の真理は途中で変化しない!

 

神が与えた自由は、神の似姿にされた人が”罪の支配”に縛られないで自由に生きれる、神の義に生きれるその自由を与えたと聖書では書いてあるのです。聖書の事実でも何でも無い、別の福音、とんでもなく聖書とはズレている違う、人間が考えた聖書解釈を聴き続けているのです。神の教えを否定、終わらせて何でも良いなんて教え、それはイスラエルの神の教えでは無いです。

福音とは、”本物の自分”で生きることが出来る!その事実が

取り戻されている、その内容は、神の教え=トラー=イエシュア=文字で書かれたモーセの五書の中に書かれた事以外は、この世

神の造られた世界には無い!と言う神の言葉をその通りに認識

しない限り、別物の教え、イスラエルの神に属さない別の宗教=高き所の教えを編み出し、作り出し続けてしまいます。

 

神の記念日は福音を網羅する内容であり、それは贖われた人

一人一人に全てぴったり当てはまる内容なのです。

それは後ほど書いてみます。前回の続きをまず繋げてみます。

神の宣言を信じないと言う事は、なんだか人間的には謙虚な様

でも実は神の前に大変な冒涜であるのです。神の恵をシャット

アウトした思考回路。そして偽の自己像を周囲の人々が常に語りますから、その嘘を頭の中でずっとリプレーし続け、

落ち込む事をします。

例えば失敗した時に、あなたは所詮どうしようもない罪人だから仕方ないよ!とそれらしく考えて言いますよね。

所詮救われても、同じ罪人のままだから、悪い言葉で言えば、

どいつもこいつも皆同じ穴のムジナと言っているのを聞いた事がありますが言葉って本当に大事にあるべき通りの事実で

語らないとなりません。

同じ罪人のまま=主と共に死に葬られそして新しくされたと

言いながら、嘘を頭の中で復唱し続けたら、いつまでたっても

新しくされた人の事実の自己像が確立せず、神の言葉を信じる

信仰に立ち、神が私達に宣言してくださる事実を生きる事を

しないのは無理ないのです。蛇のトリック!なのです。

 

言い方次第で自分の中に偽の騙しや思想を刷り込まれ続けて

しまうからです。

罪人だから仕方ないと言うその神に対する失礼な、冒涜的な

言い方を今後一切やめたら良いのです。罪人と言う自己像を信じるからズレに敏感にならないで無関心に、罪人らしく生きる訳です。

新しくされたのに、その事実を生きる選択をしないで、考えないで、シャバット=立ち止まらないで、感情の赴くまま以前の

死んだ自分で無造作に行動している。いや自分が何を考えているのか、どう行動しているのか、点検ゼロ状態。怠慢。

ずれているよ!それは神の似姿に戻されているイエシュアと復活した本当の自分の生き方じゃない!と言い換えないとならないのです。これって、なぜ神が”寝ても、覚めても何していても、常に

私の教え=トラーを頭の中に思い巡らし考えて行動して!”

教えている言葉にあてハマります。ズレないため!ヘブライ語の祈りと言う意味の殆どは、神の言葉=教えに照らし合わせる事。

自分が軌道修正する事が中心なのです。

 

絶対コケませんとかそんな事を言っているのでは無いのです。

救われたらPDF状態。絶対にズレないなんて書いてない。

でもヨチヨチ歩きの1歳児より、成人だったらどんな場所も歩いて行けるでしょう。新しくされた人で生きる練習、訓練を経る。それが神が教えている神の記念日から記念日を実際に生きる

内容なのです。

これはもっと詳しい説明が必要なので、命のサイクルを生きる事それが1年の中を生きる生き方、神に教えられるパン種除去を

神の記念日から記念日を生きるレッスンプランの暦に神がちゃんと設定しているのです。それを知らないで通り過ぎて端折るから

神に何のパン種を指摘されているのか分からないまま、

成長が無いと言う結末に陥る訳です。

 

ピリピ4:8 最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。

<パウロはトラー=モーセの五書を語っているのです。>

 
ローマ12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。
むしろ、心=レヴ=頭脳=思考=神の言葉に照らし合わせた思考=を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨で
あるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
 

その場合は、私はイエシュアに贖い、救われた人である事

その性質で生きる選択を毎秒して行く事を忘れない事!

それに徹する事。そうしないとコケるたびに、蛇がずっとあなたを攻撃し、攻め続けて来て、あなたは蛇の嘘=あなたは所詮罪人さ!わっはっはと言う偽の自己像の囁きを常に耳元で聞き、

頭の中でグルグルその嘘を常に再生し、そして”あなたは罪人”といつも言い続ける教えを聞き続ければ、あなたの思考回路は

全然変わることが出来なくなってしまいます。本当にそれです。

 

続く