神の言葉を人の教えを通して決して事実を変換して解釈ないで、聖書に書かれている事実通りを読み書かれている内容通りをまず把握する事。
神の言葉=声ではなく、神の言葉を否定し、排除した人の教えを
信じ、聞き入るなら神の永遠に変わらない教えが、今現在も
全部頭上を通り過ぎるか、ドブに流され捨てられてしまいます。
過越の祭りがスタートしたのは2021年は3月27日土曜日です。神の記念日は、週一度のシャバット以外、週の曜日を基準として設定されているのではなくて、聖書の暦の第一の月の
15日=14日の日没になる時が同時に次の日の15日で、
その日没から過越の祭りの一連を祝うものです。
秋の祭りも聖書の暦の第7月の15日から始まり、
その日は必ず満月になります。
エジプトで起きたあの過越の時は、時間もなくて、腰に帯して
急いで種無しパンをこね、持つもの持たずにエジプトの家を出た
ものですが、毎年過越の祭りを回想し、神が指定した記念日を
祝う祝い方は、ある人は夜通しこの過越の祭りの晩餐を
祝うのです。
私達は、4時間くらいかけて晩餐の一連の儀式とそして回想と
質疑応答やゲームなどなど楽しいひと時を過ごしました。
そしてその日から1週間、種無しパン=マッツアを食べて
イースト菌の入るパンやクラッカー、クッキー、ケーキなど
食さない7日を過ごしました。これが神の仰せであり、
その意味を理解しない場合は、何?位にしか思えない神の教えの中に重大な福音の中心となる教え=実践して学習するツール
があるのです。その事実は、神の言葉に応答し参加する時初めて
気が付く様にデザインされているのです。救いを受ける人には
神の言葉=教えは神の”力”であると神が私達に伝えている
通りが真実だからです。コリント1:18
神の言う通りを信じ、実際に行動する!これが生きる基本中の
基本。
過越の晩餐の中で、過越=出エジプトの一連の出来事の回想、
皆で振り返り、様々なトピックに関して語り合うのです。
”ハガダ”と呼ばれる、”語る”内容は今はそれぞれたくさんの
本が出ていますが、晩餐の中で祝う儀式の一連は共通しています。
そして天の万象は神の定めの時を司るために造られたと
ヘブライ語で書かれている通り、神の祭りは必ず満月で始まり、その日は曜日に関わらず”シャバット”=止まる日として始まります。
今年は前の日は週のシャバット、次の日の土曜日日没も祭りの
初日のシャバットで始まり、ダブルシャバット。そして金曜日のシャバットで、土曜日の日没のシャバットが終わる時に
ぴったり過越の祭り=穂をゆすり捧げる日=復活を祝う、
復活の命とされた事実、種無しパンを食べる7日が終わったのです。神の記念日のデザインは知恵満載です。付け足し、修正する必要など、どの箇所もなく100%完璧にイエシュアの業を
表しているものなのです。見事に!
過越とは、過越の屠られた子羊を指して言う場合もあり、
過越の晩餐を指して言う事もあります。
そして過越から7日間は種無しパンを食べる週で、マッツアを
食べる週です。それが聖書に書かれている春の祭りです。
これは過去も今も未来も永遠に変わらないのです。
変わったと思い込んでいる理由は、宗教の教えの中で4世紀以降の歴史の途中で、ローマが作った変えてしまった教えを異邦人の世界では、伝統的に教えられ続けて来たからであり、聖書の記述を書いてある通りに読めばパウロも諸外国で神のシャバット、
祭りをちゃんと祝い、信者達にも同じシャバット、祭りの意味、
実際に祝う内容を教え、そしてトラーを生きることを教えていた記録だけが聖書には書かれているのです。
その聖書に記述された事実を曲げないで聖書を読めば、
今、今日この日もシャブオートまでの神の指定した7週=穂を
数える週の中にいる事実は聖書の真実なのです。
この49日間は、イエシュアが復活されて弟子たちに何度となく現れて、トラー、預言書から語られた記録が書かれている
その40日間が今の時と重なるのです。
復活の命の事実は”穂を揺るがす”儀式=種無しパンを食べる
7日の中にちゃんと始めから設定された日で表されています。
新しくされた復活の命の事実を生きる、考え続ける、実践し
生き続けるのがこの7週間でもあるのです。
祭りが終わったら、その祭りの中で祝った、学んだ事実から
一瞬一瞬を生きる。シャバットも同じです。週の6日間、
天の現実=新しい人として残りの6日を生きる!
それがシャバットの醍醐味でもあるからです。
"オメル”=穂を数える7週=穂は同じ状態ではなく成長して行く実って行くのです。その7周は3月28日日曜日から5月16日の日没までです。そしてその7週が終わると次の春の都上りの
祭り=シャヴオートになるのです。
今年は5月18日がシャブオート=ペンテコステです。
この日は”シナイ山で人類初”神の手で記された神のトラーが
口頭ではなく、文字として契約として正式に人に渡された日を
記念して祝われる日です。
使徒2章の出来事は”シャヴオート”の祭りであり、聖霊初降臨祭りではないのです。
名前、タイトルは中身を意味するべきものでないとなりません。
神が与えた記念日、祭りの聖書が語るタイトルがあるのです。
聖霊は最初から人の内に住まわれています。
”カチカチ山”と言う本のタイトルを見れば中身に何が書かれているのか、分かるでしょう。その本に”スパイダーマン”と付けたら
タイトルと中身がマッチしていないのは一目瞭然でしょう。
宗教の世界の教えでは様々にそう言う行為=人が神の言葉を
塗り替えた教えをし続けてしまったのです。
神の言葉を変える=聖書に記述されている神の永遠の言葉を
別の姿、教えに変形されてしまえば、神の本来の意図が理解
出来なくなってしまう、それがずっとされ続けているのです。
そして使徒2章の記述は、シナイ山の出来事を知れば
同じ出来事の繰り返し、出エジプト後のあの出来事の再来
再現である事が分かります。初めはイスラエルが代表で受け取り、少数の異邦人しかいなかったあの婚姻契約受理儀式。
今度は全世界へトラー=み言葉=福音神の教えが出て行く時が
やって来た!その印でもあります。全世界にトラー=神の
婚姻契約が与えられている、多くの人が、それぞれの多数の言語を語る人達が異言=ヘブライ語では無い言葉で語り始めた
現象で表されているのでしょう。
あそこで語られた異言とは意味の無い言葉ではなく、
人間の意味ある言語であるのです。ヘブライ語を話す人達が
ヘブライ語ではは無い他国の言葉を話したと書いてあります。
世界へトラーが与えられている、救いは世界へ与えられ、
開かれている事実を神が表しているのです。
あのシナイ山では天が直接山頂に降りてきて、神が直接
天から語られたのです。天と地が繋がっている事実を
出エジプトした300万人の人は目撃したのです。
そしてシナイ山山頂でモーセと70人の長老が婚姻契約を
受け取った”儀式”祝宴を設けたのです。
だから使徒2章で、その事実を知るユダヤ人達はシャヴオートの
あのシナイ山での出来事と重ね合わせる事が出来たのです。
光とイナズマ、神の声を表すショーファーの音。
天から舌、火の様なものが降った、シナイ山の再現。
そして、この7週の間は、出エジプトしてシナイ山まで
たどり着く間の準備期間であり、同じ設定なのです。
新しくされた人、奴隷の鎖が解き放なたれた人々、でも頭の中身
思考回路は全然切り替わっていない生まれたばかりの状態と
同じです。連続して新しくされた人の事実に思考を切り替える
神の目からだけ、神の言葉だけに聞き入り全部リセットし続ける。これは自動的では無い自分の意志が常に伴わないとならないのです。肉の目から見続けていたら、神がされる事を何も
理解出来ないからです。だから不平不満だらけ。
私達も救われた直後そう言う状態です。今も同じ繰り返しを
して、奴隷で染まった思考回路をずっと脱皮し続けている
人生の旅路の中なのです。
過越で処刑され、この7週の間昇天されたイエシュアが現れたのです。
多くのユダヤ人は、イスラエルをローマから取り返し、
国を復興する王を期待していたので、イエシュアが処刑されて
何も起こらなかった事にがっかりしていた人達と、イエシュアの
処刑、昇天された意味をトラー、預言書から理解して行った
人達、色々居たわけです。
でも自分たちのリーダー、ラビであるお方が取られた11弟子達
は当然精神的に大打撃を受けたのです。
だからイエシュアが彼らに現れて、トラー、預言書から細かく
再説明が必要だった事が書かれています。トラー以外の別の教えなど神は人に教えない!教える訳が無い。そうだと主張するなら
それはイスラエルの神では100%では無い別の神=霊です。
トラー!預言書!諸書!に書いてある内容のみ!その事実だけに基づいて聖書は100%黙示録まで同じ内容が書かれているのです。だからイエシュアもトラー、預言書のみを語って弟子たちを
励ましたのです。
そして内側が燃えて励まされたと書いてある通りの事が
起きた。神の言葉、約束の真実が分かれば分かるほど、
内側で燃えるものがあった。
なぜなら、神の言葉は神ご自身=力の源=聖霊だからです。
そして弟子達は、これから重大な任務を担うために特別な力が
必要だったと書かれています。
だから、約束の聖霊=力を受けるまで、次の都上りの
シャヴオートの祭りまで地方の家に帰らず、ずっとエルサレム=都に留まりその時を待ちなさいと言われたのです。
色々な意味で、エルサレムに留まり弟子達は互いに励まし合い
周りの人達を励まし、イエシュアを突然失った傷や、痛みや
悲しみや、打撃を癒されるための必要な7週でもあった
わけです。今この時を歴史的な2021年、この様な状態でも
私達は変わらない神の仰せ、教えを生きて!と神から言われているのです。そう受け取れる人と、神の言葉は変わったと人の教えを信じて生きる人と、様々いるのは2000年前と同じです。
新しくされた人はどの様に歩むのか日々考えて、
実践する毎日でもあるのです。
マッツアを単に7日間ただ食べたのでは意味は無く、イエシュアの贖いの業で新しくされている人であると神に直接宣言されて
いる、その事実から生きなさいと言われている神の言葉を日々
聞いて、考え続けて、トラー=言葉、教えを常に思い巡らし、
生きるなら神が必ず教えて下さり、癒して下さり、成長へと
導いてくださるその”道”=イエシュアの似姿通りを生きる人に日々変貌させてくださる約束は永遠に真実だからです。
聖書の事実だけを繋げて考えれば、神の語る永遠の真実が見えてきます。
続く
復活の命を表す穂
