復活の命を受けている事実を祝うシャヴオートまでの7週間が今 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書の暦通り、4月3日の日没で”種無しパン”マッツアを

食べる7日間が終わりました。

諸外国では次の日の今日の4日の日没まで祝う伝統があります。

 

過越の祭りを祝い、そしてその日から7日間種無しパンを食べるのは”神の永遠の仰せ”であり、神の言葉は永遠に真実であると

受け取る人達が参加するものです。

神はマッツアを食べる週で、贖い救い出された人に強調して

教えている事実があるのです。

”あなたは奴隷、罪人では無い、私に贖い出された新しくされた

人。イエシュアの復活の命に移行した人!”その事実を忘れずに

日々を新しい人としてふさわしく注意深く生きて!”と言う

神からの教えなのです。世の中も、クリスチャンの中でも

コンスタントにあなたは罪人、ダメな人とイエシュアと共に

木にかけられて葬られた以前の自分の姿のみだけを教え続けられているのです。

そうですね。新しくされた人でも以前のパン種で膨らんだまま

生きている!

罪の奴隷のまま生きている、でもそれは本当のあなたの生き方では無い!と宣言し続けて軌道修正し続ける必要があるからです。

慣れ親しんだ事を離脱するのは、再学習が必要なのです。

これを忘れているのです。荒野の40年にはその意味が

あるのです。

 

創造主を信じる、創造主が伝える教えが永遠の真実である事を

信じて生きることは強制ではないのです。

100%自由意志、自由参加です。

 

でも、神の側で人に必要なものは100%用意されています。

それが、過越でも表されている永遠から存在する”贖いの業”

アヴラハムに示された契約でも表されている”無条件で義とされている事実の中で表されています。

 

この事実を受け取る上でも自由意志選択であるのです。

これは自分自身の救い主との出会いを考えたら分かる事です。

 

永遠の中からイエシュア=救いは用意されていた。

でも自分はその事実を知らず、別の神々の教え、人の作った

価値基準、そして生まれ育った文化、環境の中で教えられて

来た自分の価値観や自己像、人生観、神像まで人が作った教えを

教えられ偽物の教えの奴隷であったのは100%誰でも同じです。

その奴隷の意識から、神が伝える神が造られた”人”の本当の性質

を神から聞いて教えられる場所に神が引き寄せて下さったのです。自分で探し求めて居たけれど実は神が引き寄せて下さったのが本当の事実です。

 

それが聖書の至る所に書かれています。

イエシュアが話されたたとえ話でも書かれていますね。

 

マタイ18:12 

あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、
その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残して
おいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
 
エデンから飛び出て、本物の創造主、神から切り離された場所に
生まれ出た自分が、神が何なのか分からない状態で生きていた
迷い出てしまったその場所までイエシュアが探し求めて
来てくださった。
 
全ては100%神の側で準備され、提供されている、その事実を
人が受け取るか受け取らないかの自由選択がまずあるわけです。
神の語る事実だけを知ろうとするのかしないのかも自由です。
それが”過越の鴨居に子羊の血を塗るか、塗らないかの行動で
決意表明が表されているわけです。馬鹿馬鹿しい〜やらない〜と
拒否した人、それとも神の言われることの意味は全部理解出来なくても神が言われた事には意味があると全部理解出来なくても
神に言われた通りを行動に移した人は命が守られた。
 
そしてその後、神の子らとされた事実を生きるのか生きないのか
それは100%自由選択なのです。
 
今種無しパンを食べる7日が終わりました。
マッツアとされている事実から生きる!これは継続します。
一生涯。
種無しパン=マッツアで表されている意味は、”復活の命”
イエシュアに代価を持って買い取られ贖い出された人
神がオリジナルに造られた神の似姿である本物の自分が取り戻されている事実を生きれる様に取り戻している事実があるのです。
 
偽の自己像、この世の提示する自分に対する価値観や評価だけを聴き続け、学習続け人の教えの奴隷となってしまった学習した
記憶、脳回路、思考パターンは一夜にしては変わらないのです。
 
これは一生涯かけて切り替えて行くことが聖書には書かれています。それがシャバットからシャバット、そして神の記念日から
記念日を生きて、自分の中にあるパン種、邪魔なものを神が
教え続けてくださる、その事実を知る、脳回路切り替え=
肉の目、割礼の無い頭脳に割礼を切り込み続けて神の目から見ることに変えるそれが聖書には書かれているのです。
 
救われたら自動的に100%一瞬にして変わらないのです。
新しくされた自分を受け取った。でもその事実に生きる実践が
無いなら以前の”種ありパン”のまま膨れ上がり続け、生きて
しまう事がちゃんと神の教え、言葉で説明されているのです。
それを端折るから成長が無いと言う事実に悩むわけなのです。
単純な理由。学習した事を実際に練習しない人はいつまで経っても上達しないでしょう。プロは学習した事を常に考え、実践、
行動に移して自分のものにして行く事をするから達人、
プロになるわけです。同じ事!本当に。聞くだけの人ではなく
神の言葉を生きる人になりなさいと書いてあります。
 
そして、クリスチャンの世界では、救われたら何でも許されて
自由になんでも生きて、以前の神の教え=モーセの五書に書かれたことは無効になって神の教えを生きる必要が無いと唱えた
人間達が作った教え”が神の仰せであると100%誤解されていますが、なんでもして良い自由が与えられたのでは無いのです。
神の言葉のどの箇所もどの文字も全て過去も今も未来も変わらず
永遠にどの人にも同じなのです。
 
あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にする”と言われたイエシュアの言葉。自由とは何でもする自由?神の言葉
教えを捨てて自分の思い、思いの教えを生きる自由が与えられたのだと言う聖書でも何でもない教えを教えられているのですが、
神の教えは人に何と伝えているのでしょうか?
 
自由が与えられたとは、罪の法則=罪に縛られているこの世の闇の法則、律法から解放された事で、神の義、神の似姿、神の恵、祝福、神の性質を生きる自由、神の言葉を生きる自由、神の義を
生きる中に招かれた事が出エジプトの出来事の一連で表されているのです。
 
あなた方は律法の下にいないと言ったパウロの言葉を完全に
誤解し聖書とは全くずれた解釈を聞いていますが、
パウロの語っている律法とは、罪の法則と言う意味であり
神の教え=モーセの五書=トラー=父の言葉の下にはいない
などとパウロはそんな意味で説明などしていないのです。
伝統で語り継がれている誤解の聖書解釈を全解体、解かない限り聖書=神の教えを完全に誤解し、人の教えに聞き入ることに
留まり続けてしまいます。それこそ不自由を招くものです。
語っている事実にまず訂正切り替えて考えれば見えます。
 
続く