10世紀以降でも異邦人信者の中にはパウロ達と同じ信仰を継承して居た人達がいる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神は神の宣言通りに、神の永遠不変の言葉、教え、約束、契約を歴史のどの時点でも変更、無効、又は別物の教えに作り変えて

などいない事実がちゃんとクリアーに聖書には書かれています。

人の教えは神の言葉の永遠不変性を否定しています。

 

神から人類への永遠の証拠として、シナイ山の出来事=

出エジプト19章、シャヴオート=ペンテコステと言う祭りで

祝われ続けている通り、天と地を証人として、歴史初人類へ

神から直接、文字として永遠の証拠として書かれた

神の言葉=契約をモーセ代表を通して全人類に与えられ

残されているのです。

 

クリスチャンの世界でも、”聖書は神さまからのラブレター”

言いますね。ラブレター=聖書の中身は、婚姻契約書!

だからです。だから、神が下さった人類に対する唯一の婚姻契約が終わり=破棄とするならば、その場合は破棄する人間の方で、

神との関係を疎遠にする!本来の関係を断つ事、希薄なものと

なる、又は別ものの主人の教えや生き方に同時に繋がって

しまうと言う意味、あるべき実態の内側の外側に飛び出して

しまう関係となるのです。

 

<別物の教え=イコール神に属さない=イコール別の霊に属する別の霊=それは聖書では何を意味するか分かるでしょう。>

 

前回書いた内容を検証すれば、ユステイナのユダヤ人ラビとの

対話録はローマ教の異邦人クリスチャン達に取り、

トラー=モーセの五書が人間の考えで価値下げされ、

意味無しとされてしまった証拠として残っているのです。

 

ここで目覚めて気が付かなくてはならない事実は、クリスチャンの世界で神が神の言葉を終わらせたとか、神が神の教えを破棄

したとか、又は別の福音や新しい別の教えを昇天以降人に

与えたと言う神話、都市伝説の嘘に聖書に書いてある事から

気が付かなくてはならない!

 

そのフェークニュース、偽の教えの目隠しに覆われたまま

聖書を読んでいては、神が語る永遠不変の真理、真相、真実が

書いてあるのにその通りに読み取れない、見えない!と

言う事態に陥っているのです。

 

神の言葉は1つ、全人類に同じ!福音は一つ、イエシュアは

昨日も今日も永遠に同じ!と書いてある神の言葉の事実に

戻らない限り、本当の悔い改め、本物の神の子らの生き方には

戻れないからです。なぜなら現代は神の言葉を捨てる、生きる

必要がないと言い続けて教えられているでしょう。

では一体信じた後は何を実際に生きているのでしょうか?

 

その教えを根拠にすれば、今は神の言葉ではなく、個人個人の

判断や発想、考え思想、理由づけを土台、根拠として生きる事

が絶対的な基準があると言っているのです。

 

悔い改めとは、ただ救い主を信じる、口で罪告白する!

それだけの事では無いのです。それは単に本物の人生への出発

地点に立つ1つの出来事、要素だけの事が話されているだけなのです。聖書で語られている福音の意味とは、贖われた人=義と

されている事実に目覚め、気が付いた人、神の前に顔と顔を合わせる場所に立った人、その人達はその時点からイスラエルの神の家に属する人となったので、以前の様に神の教えを何も知らないままではなく、”神の子らは神の教え=神が伝える人間の生き方に戻る=シュヴァする事であると聖書には書かれているのです。

 

それには、神が人類へ伝えている、神が創造された本物の人間の生き方=要素、オリジナルのデザイン=トラーが肉体となった

イエシュアが生きた内容=トラーに書かれた生き方を知りなさいと神がイエシュアがずっと言われているのが聖書なのです。

 

今も2世紀発祥以来ずっと継続して様々な教えが作り出され続け

西洋人教師達が考えた非聖書的教えと全く同じ思想を

クリスチャンの思想の中に生きて今も継承し続けていると

知っていますか?

クリスチャンの世界では、神が神の記念日や教えを変えたと

疑いもなく信じられていますが、聖書にはそんな記述はどこにもありません!聖書には人の教えとは逆の事が書いてあります

 

世界の殆どの学者は”日曜日礼拝”はローマが作り、ローマと

アレキサンドリアによる由来であると同意しているのです。

カトリック教会も自ら、質疑応答の経典の中で、神の記念日

シャバットを日曜日に変えたのは神ではなくカトリックである

はっきり宣言しています。その事実を知っていますか?

 

クリスマスもイースターも同じです。日曜日礼拝はシャバットでは無い、聖書由来でも、神の新しい仰せでも何でも無い、

聖書に書かれている事実に戻さないとならないのです。

いつ何をし、誰とどこで集まるのも、学ぶのも自由です。

 

でも神の教えを否定する事、シャバットや神の記念日の曜日や

意味や定義を人が変えることは神の前に冒涜以外の何ものでも

無い、福音の要素、神の教えを塗り替えてしまっている事であることに異邦人は気が付けないのです。

トラーを知るユダヤ人なら説明されなくても分かります。

 

だからユダヤ人はローマ帝国が神の言葉を変形させた教えに

抵抗していたのです。イエシュアに抵抗していたのではない!

その事実に西洋教父やルターも気が付けなかったのは、なぜだと

思いますか?トラー=聖書を神の言葉を理解していない、

聖書の中身の意味を本当には知らないからと言う単純な

理由なのです。誰が何を信じ何をしてもそれは個人の自由なのですが、聖書=神の言葉を曲解して人に証言する冒涜を人間には

許されていない、聖霊に対する冒涜と書かれている事に

身を正して考える必要があるのです。

 

聖書を読んで何が書いてあるのか個人個人が再確認すれば

良いのです。聖書に書いてある事を人の教えに塗り替え、

聖書に書いてある事を人の教えで変換し、曲解したり、

否定し続ければ、神が語る真実は永遠に理解出来なくなります。

 

昇天以降も皆変わらず同じ!同じ福音!トラーを生きて同じ

記念日=レビ記23章を祝っていた事実だけが聖書には

記されているのですその証拠に10世紀近くの異邦人信者達の間でもローマの教えや勅令には怯まず、従わずに、

聖書通りに生きていた異邦人達が世界には存在していた証拠が

文書となっても残っています。

 

どの人種でもどの時代でも神の真理にだけ聞き、生きる残りの民は神は保存し、ずっと残りの民は存在しているからです。

小アジア地方に居た西洋司教達は、”毎年”過越の祭り”を祝うのは

イエシュア信者として当然の事であり、その祭りを祝う事を

疑問にも、質問にも上がらない当然に神の祭りとして

祝っていたのです。

 

彼らの中での唯一の議論は、聖書の暦の第一の月の14日に満月が来るのか、その満月が観測出来る時が、14日の過越が始まると言う事に関しての事を気にかけていただけなのです。

古代は、エルサレムで満月を観測したら、エルサレム発動で

即座にイスラエル中の山々、丘の上に火を灯し、それを見て皆

一斉に火を灯し、近隣国にもそれが伝わるシステムを作っていたからです。シグナルです。

満月それが14日の祭りのスタートの印。

 

彼ら異邦人信者達、1世紀のパウロ達と同じ信仰を継承していた

人達は、タナック=トラー、預言書、諸書=マルキオンの

異端思想で”旧約”と言う名前が付けられてしまった書ですが、

タナック読み、同時に福音書以降=ブリット ハダシャを読んでいたのです。そして1世紀の使徒達や信者達とは反する教えを

生きるローマ教会の異邦人達、特にローマとアレクサンドリアの人達は、”過越の祭り”は、春の太陽神の祭り=春分の後の最初の日曜日に祝われるべきであると決定したのです。

 

ここに注目!人間が神の祭りの内容、日程を変えた!

1列王記12章のヤロベアムがした大罪と同じ性質の罪です。

事実だけに立てば見えます。人が神の記念日を変えた!変形した

別物の祭りを作り出した!自分の考えを神の言葉の中に取り入れ

混ぜてしまった。それが今現代の異邦人の中で祝われる記念日と聖書に書いてある1世紀の人達との信仰の内容の違い

ずれの原因、証拠なのです。

西洋ローマ教会は”クアトロデシマンズ”=第14の日没に過越を祝う人達と言う意味を東方教会の人達の呼び名を付けたのです。

こう書かれています。

”なぜなら彼らは祭り=過越の祭りをユダヤ人の様に祝っていたからである。14日の満月の晩から過越を祝う。だから彼らの

名前を”第十四日”=クアルトデシマンズと名付けたのだ。”

 

事実東方の信者グループは1世紀の使徒達と同じ信仰を継承し

聖書にある神の祭りをそのままその通り祝い続けていたのです。

なぜそれが分かるかと言うと、”ジョン クリソストム”

クリスチャンの世界では”黄金の口”の説教者として讃えられて

いますが、彼はイエシュアが生きて教えたヘブライの書=

タナックを生きる事とユダヤ人を強烈に攻撃的に辛辣に批判

し続けた人で、文書が残っています。人間が神の言葉に対して

冒頭的に批判、否定する事!その事自体死に値する罪である事を聖書から知らない、理解しない西洋教父達。

神の言葉に対する無知の世界を他者に伝えてしまったそのものです。どの時代でも教師の口から聖書の真実とは異なる違う教えを語られてしまい、その偽情報が世界へ浸透してしまっているのです。ローマ帝国による重税、死刑の脅しによる、政治的軋轢も

同時にあったのです。あの裏切り者の上院議員と同じです。

命乞いをするためにお上に迎合した。

 

続く