語り継がれる非聖書的教えと神の永遠に変わらない真実な言葉 約束 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

預言書は、トラー=モーセの五書=神の教え、インストラクション、神が示す関係の姿=婚姻契約の関係を生きる事から外れた

生き方をしている人達への警告。婚姻契約=神の教えに戻れ!

それが預言書、預言者の神からの託宣です。

 

そんなに複雑な事では無いのです。

神の言葉、神の教えに反対する事は、創造主、神に敵対する事、

イスラエルの神とは違う異教の神々の教え、要素、慣わし、

生活習慣スタイル、神の目には汚れたもの、シンボルと言う

混ぜ物、異物を取り入れ続けたイスラエル。汚れた要素を

取り入れて、それらを通して異教の神々に近く様なやり方、方法で同じ様にイスラエルの神に近く、礼拝する事。

それらが偶像礼拝の本質と書かれています。異教の神々に仕える人達の様に、イスラエルの神に近くなかれ、いや近づけない、

イスラエルの神の性質とは違う異教のもの、異物取り込みながら、イスラエルの神と人は、正常な関係を保てないと警告されているのです。なぜなら、神が指定したもの以外は異物、それらの汚れに全く耐えられないと神が言われている。神に取り汚れの

異物は受け付けられないから。臓器移植と同じです。

自分に属さないものに対して拒絶反応するのは当然の事です。

 

イスラエルの神が指定する通りの神への近づき方、意識、関わり方とは違う、そして自分たちの手で作った、自分達の考えにより編み出した方法、やり方、自分たちの意識に叶う事に沿って神に近く礼拝の仕方、それをやってしまっていた。

 

ここで考えてみたら分かると思います。

人の教えを土台にして、イスラエルの神に近づく、礼拝していても、それは2000年の長きに渡り伝統で浸透しているので

それがイスラエルの神に属する事なのか、又は別物、混ぜ物なのかは、聖書に戻らない限り、聖書が今も変わらず有効と言う事実

土台が思索の中にない限り、全く気が付かない事なのです。

終わった教えならなんでもありと考えるからです。

なんでも取り入れる、汚れも今は清くなったと本気で信じる。

 

しかも、熱心さが大事と考えるなら、それは神に何を警告され、言われても気が付けない。神が示す通りをして!これが神が人へ語られる大原則なのです。

 

1000年以上も高き所を王達が取り除かないまま、混ぜ物の

礼拝をしていた、その危険。でも神は長い年月忍耐をして

待っていたことが記されているのです。それが怒りの神?

人間が考えている怒りと神の怒りは全く性質が違うのです。

 

神の怒りは、人を軌道修正させるものです。人に取って必要な

ものなのです。神の怒りが無いなら人は崩壊して行きます。

神の怒り=裁き=人をまやかしから救出、解放を齎すものなのです。怒りの神と唱えるクリスチャンの教えの世界は、神の言葉を全く誤解しているのです。親の心子知らずそのものです。親が子供に何の基準も持たないままやりたい放題子にやらせたら、

子供はダメになって行きます。

 

だからこの2000年近くの間、歴史のコースの中で、別の教えを

様々に作り出し、異物を取り込み続け、神の言葉を踏みにじり、

否定する様に教え、ないがしろにする様に教え、神の言葉を変形し、破壊して今に至る、その危険に気が付く様に、ある時が来たら神からの揺す振りがあるのだと思います。

 

長い間の伝統=でも神の言葉を否定し、別物の教え=哲学、神学を作り出し、自分達の考え、やり方、教えを生きること、それが預言書の警告、神が長年イスラエルに忍耐し続けた事と全く同じ事です。今の時代も同じです。イスラエルに対して、

そしてイスラエルの神の家に加えられた人達も全く同じです。

なぜなら神の家族は1つしか無いから。本家、本元は2つの

別家族では無いからです。聖書には最後には1つに戻ることが

ずっと書かれているでしょう?2つの別の家、ハウスを語る神学を唱える人達は聖書の事実を否定し、人の教えに聞き入って

いるだけなのです。

 

翻訳マジック、トリックと神学の教えにより、イスラエルと

異邦人は違うグループと教え込まれていますが、これは翻訳を

剥がして、元のヘブライ語に戻せば一目瞭然聖書は始めから終わりまで、同じ1つの家族の事を言っていることは、言葉からも

分かりますし、最初の最初、神の家族、人類は1人の人から

造られた事実と、神の語る、神の性質、そして神の似姿そっくりの人の性質=一体性が記されているから、分かるのです。

そしてイスラエルと少数の異邦人が共に神の家族として共存して来た聖書に書かれた記述でも理解出来る事です。

 

エハッド=1つ以上で全く一つの性質と言う言葉で貫かれ

書かれています。だからパウロも、神の家族を1つ体と解説しているでしょう。器官は異なるけけれど、全部で一つと。

メノーラも1つの金で造られ繋がれた7本=完全を意味する支柱で造られているでしょう。意味があるのです。1つ家族を表す

メノーラ。ユダヤ人と異邦人で合わさり始めて完全なる姿の

1つの家族。

 

教会と言う造語と、クリスチャンと言う言葉で、救い主昇天以降は全く別種の救いや、ユダヤ人とは別の信者=クリスチャンと

言うグループと、教会と言う別の新しいグループが出てきたのだと完全に聖書が曲げられ誤解されていますが、教会と言う言葉は

聖書に無い言葉!コンセプトなのです。

 

本当の言葉は、”カハール”です。ギリシャ語でもエクレシアと

言うでしょう。神に呼び出された人々の群。

ユダヤ人も異邦人も関係なく、神の言葉を聞き、応答した

人達=カハール=神の1つの家族。そして、このカハール、

神の家族は、エデンの園のアダムとエバが起源なのです。

同じ1つの家族が継続し、人々が加え続けられて行く。

 

このカハールと言うヘブライ語を、創世記からマラキまでは

”群”とか”会衆”と言う言葉で訳し、全く同じ言葉、カハール、

エクレシアを、福音書以降では聖書には無い”教会”=チャーチ

と言う造語に置き換えているので、全く別のグループが出現したと言う翻訳トリックにより別物が出たのだと思い込まされているのです。別物のグループと言う神学を信じる人により、

そう解説され続けてしまっているので、それが聖書の真実だと

思い込んでいるだけなのです。聖書の事実とは違う!

 

同じ1つの家族、途中で変わらない、ずっと継続する本家=本物の神の家の本家だけしか聖書には書かれていないのです。

 

1つ1つの聖書とは異なる人の教え=神学の教えに基づき

造られたコンセプトや造語を全て削除し続け、元の本物の神が

伝える真実の言葉に切り替えない限り、ずっと聖書では無い教えが聖書であると勘違いしたまま、神の言葉とは別物の宗教の教えを信じてしまうことが続いているのです。

イスラエルが危険に気が付くこと、軌道修正する事を待って

いた神は、異邦人に対しても同じです。始めから混ざり物の

教えと、人造神学を教えられてしまったら、何が本物の神の言葉なのか見分けにくいですが、一つ一つ大事な聖書の土台の

コンセプト、真実=神の言葉は決してどこの箇所もどの時代も

変化せず永遠に同じ事実!に戻り、確認し、今まで聞き続けて

きた聖書とは違う教えを消し、聖書をしっかり読んで確認し続けて切り替えて行けば、必ず一つ一つのピースがやがて繋がり、

画像がしっかり深く、大きく広がり続けて見えてきます。

 

そして聖書が1つであること、どの箇所も矛盾したり、途中で

変化していない事実を自分の目と頭脳ではっきり確かめ知る事が

出来るようになります。

 

ちょっと考えただけでも変だと気が付けます。

どうして神の言葉は永遠とずっと書いてあるのに、一時的?

テンポラリーと教え続けるのか?神の言葉は完全で人を生かすと

言いながら、どうして不完全な教えなので途中で変えたと言う

教えを信じ込まされているのか?シャバットは第七日目なのに

どうして4世紀以降は第一日目になったのだと信じ込んでいるのか?

聖書に書いてもないのに。永遠に代々神の家族で祝われる、

神が作った人と神が関係の中にある印の日であると伝える

シャバット祭りなのに。

神の祭りは永遠に祝われると書いてあるのに、どうして呪いの

律法なので、代わりに今は4世紀に造られたローマ皇帝の創作祭りを祝うのか?全部疑問に思ってちゃんと調べたら答えに辿り

着けます。

人の教えは不協和音、不安定さ極まりない教えなのです。

人を混乱させるし、聖書に書いてない不真実を真実だと

思い込ませる騙しそのものだと分からないとならないのです。

コロコロ変わる神と神が伝える通りの神は変わらない、

人が裏切っても神は裏切らない、約束を翻さない、変えない。

どちらが聖書に基づき本当の真実?

神は変わらない、約束を変えないと書いてあるのに、

言葉、約束、保証を途中で変えたと言うのか?

まともに聖書だけに戻りまっすぐ神の言う通りに立ち、

考えたら人が唱えている教えが変だと気が付けます。

聖書は意味ない、今は必要ない、生きる必要もないと教えた

人の教えを却下すべきなのです。

 

神の言葉は完全、真珠、宝、人を生かすもの、道を照らす光、

人を守るもの、永遠の礎、神の言葉から右へも左へもそれて

はならない。。。

言葉=イエシュア=トラーが肉体を取って現れたとヨハネの冒頭にも書いてあるのに、どうしてそれをトラー=”呪いの律法”などと復唱し続けているのか?大体律法とはヘブライ語の意味とは

全く違う不適切翻訳です。トラー=律法ではなく、神の”教え”

”インストラクション”と言う意味。本当の意味に戻して

二度と律法律法と違う翻訳で繰り返し呼び続けることをやめたら意識が切り替わります。律法と神の教え、インストラクションとでは受ける印象がまるで違うでしょう。

従え!と言われるのと、わたしの教えを言葉を聞いてと言われるのと違うのと同じです。

神の永遠不変の完全な教え、インストラクション=呪い、縛り?と考える人は、言っているだけで、神の意識からズレている事に必ず気が付けます。辻褄合わない翻訳だからです。

 

イエシュア=トラー=変化するもの、呪い律法?とどうして言うのか?

聖書は福音書以降も、トラー、そしてトラーの解説の預言書

諸所しか指して語っていない事実を知らないまま

新しく出てきた教えを1世紀以降の人が聞いているのだと

全く勘違い、誤解しているのです。

 

 

続く