人が作り出した伝統の教えを通して聖書を読むことをやめ神の言葉だけに立てば真実が見える | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

誤解されているパウロが書いた書簡の内容に行く前に、

前置きが長くなっているのですが、聖書=神の言葉を、

世界の伝統の人間が作った思想哲学神学を通して教える教え

=古い契約、新しい契約と語り、2000年以前と以降、

二つ別種の契約が与えられたと考えるのは、ヘブライ語の

オリジナルのトラー、預言書を知らない人が作った神学です。

 

いや、トラー以外の別の契約書なんてこの神の造られた世の中に物理的に始めから存在しないものです。

 

もしあると主張するなら、その発言は聖書を始めから書き換えた、書き直した聖書があると言っているのです。

存在しないのにあるのだと主張する、裸の王様の服みたいな話を本気で真実だと信じてるだけです。

 

その発言はモーセの五書=トラー=婚姻契約書が書き直され、

別の契約書=聖書が存在しますと言う教えです。

そんな別物の聖書など存在しないです。神の言葉が書き換えられ、書き直された書など存在しない。

 

人が作ればそれは人が作った神のものでは無い別物。

しかも、契約書=神の契約は、その時代の代表者として選ばれた

人を通して全人類へ与えられたものであり、それは変更不可!

と書かれているのです。タイムマシーンでその時に戻り、

契約やり直すと言うストーリーになっているのです。

あり得ない話。神の契約=言葉は完全!と聖書で説明して

いるでしょう。変更、手直しする必要など無いからです。

 

オリジナルに書かれた聖書、元を知らない、神の言葉を書いて

ある通りに読まない、知らないならば、どんな教えも作り出す

ことは本当に可能です。元の意味を簡単に誤解している

翻訳だけを頼りにすると、ますますそう思いこみます。

 

日本語や英語の文学や書物を誰かが外国語翻訳する場合、

あること無いこと勝手に書き直せる、付け足し、削除出来る

のです。本当に。されても翻訳読んでいる人には原本に何が

書かれているのか確かめる術がなければ、

真相を突き止められない。

 

でもオリジナルは書き直すことなど出来ないのです。

神が永遠の事実、証拠として”ヘブライ聖書”を選び、

一点一画も手を加えない!と言う厳重な神からの原則をガード

する人たち=ユダヤ人の手により、今日まで聖書は無傷で

神が守り続けて来たのです。人類への永遠の証、証拠、保証と

して、神業で神が保存し続けているからなのです。

 

2000年前と後でイエシュアの救い、贖い、義の定義の内容

や人間の生きる基準である神の教えの基準が変化していると言う非聖書的な教えが、聖書が語る内容では無い、神の言葉に対して反するものである事を、聖書の事実に基づき本当に知る、

認知する事が無いまま聖書を読み続けるならば、どの様な形にも変化した教えに変形させてしまうのです。

 

しかも、コンスタントに耳から入る教えは、人造神学を通して

解説する人の意見や思想が入った聖書解説のみだから、

その教えに浸り続ければ、真実に目覚めるのは困難です。

2000年前と後では救いの内容が違う、2000年以降は、

昇天以降はと言う、救いの内容が変化した、変化球の教えをされてしまっているのです。

 

でも神は必ず神を求める人に、真実を知らせようと、神の方から

働きかけて下さるのです。

聖書=神の言葉を読まない習慣ならば、それは神の言葉から

語りかけ、呼びかけられていても気が付かないのです。

 

イエシュア=救いの内容や、神が教える人間の生き方、

義の定義が時代ごとに変わると言う人間肉的発想の教えは、

聖書にある通り、神の語る世界、位置、目線、思索の拠点を

神の定義通りに合わせたら聖書の事実では無い事が見えるのです。

 

詳細は分からないとしても、神が時代ごとに七変貌、変化すると言う人間思想が聖書の語るイスラエルの神像では無い!と、

書いてある通りに忠実に真実からブレずに読んで見たら

気が付くはずです。神が語られた一言は真理です。

 

神の性質はどんな性質だと、神ご自身自ら人に紹介、教えていますか?人が人の考えで解説するイスラエルの神像はまず全部削除して聖書に書いてある通りだけ読み、その通りに信じないと

真実発見は始まらないのです。でも何が人の、神学の教えなのか

分からないと思います。神学=聖書だと思い込んでいるから

見分けが付かないのです。オリジナル=聖書に書かれた意味通りを知ればその違いがクリアーに見えます。書いてある言葉が

真実を表現、伝達しているから、神の言葉を否定しなければ

神の永遠不変の言葉=真相がはっきり書かれているからです。

 

”永遠不変” ”代々に”これも永遠と訳されたりしますが、

世代ごとにずっと、次の世代にもそしてまた次の世代にも!

ずっと同じ神の永遠不変の契約が与えられ続けると、

書いてある通りに読めば分かるでしょう。

 

変化しない!と神が一言言われたら変化しない!永遠!と

言われたら、途中で変わらない!

永遠はテンポラリー、一時的と言う意味では無いです。

基本中の基本、書いてある事を書いてある通りに受け取らず

人間思想で曲げているから、真実が曲がる、見えないのです。

永遠と書いてテンポラリーと解くその心は、”神の言うことを

本気で受け取り信じてない!”これに尽きるでしょう。

 

ポケモンの世界、進化論の世界、人間思想、肉の目が語る

哲学思想の世界です。

 

神の似姿に造られたアダムとエバ、エデンの園に神と共に

住まった彼らの中には同じ神=霊=イエシュアが居られたと

書かれています。

人は神の息=霊=を吹き入れられて生きるものとなった事実が

書かれています。

神に導かれエデンの園を手と手を取り、顔と顔を向き合わせ、

親しく対話し生きていた。

 

人の中に住まう、イエシュア=救い。イエシュアは

インマニュエルと言う名でも呼ばれる。人の中に共に住まう神の性質を表す言葉です。

インマニュ=我々と共に住まう エル=神。

 

ヘブライ語で”イエシュア”=救い。救いは最初から永遠から

存在し、居られる。神は永遠の中に存在しているからです。

神が作った時の中に神は閉じ込められていない唯一の存在です。

 

ノアや、アヴラハム、イサク、ヤコブ、個人名で書かれて

いない無記名の一人一人の中に住んでいたイエシュア=救いが、

それぞれの人の中、時代の中で変化、進化するのでしょうか?

ダビデの中に住まったイエシュアは、現代の信者の中に、自分の中に住まうイエシュアとは進化変化を遂げた別種のイエシュア

だと信じているのですか?

神が、神の救い=イエシュアが途中で変化すると、聖書では無い人間の教えを本気で信じるのでしょうか?

 

聖書には神は変わらない事実がずっと書かれているのです。

神に造られた人間も進化、変化しないです。

これが、肉の目から見ることと、神の目から見ることに切り替えるアヴラハムが呼び出された旅路、荒野の40年のイスラエルと異邦人の旅路の訓練に繋がるのです。

肉の目=知識の木、善悪の実を食べて、神と同じように

善悪を知る様になってしまったけど、その開かれた目は

神の目が見る見方では無い、肉の目!だから人間定義の肉の目が

見る通りを解説するのが、しっくり行く、それが神学の教え。

 

変だろうと気が付かない方が変なのですが、人間的には、

そう考える方が見えやすい、理解しやすいですよね。

神の救い=イエシュアには、使用期限、有効期限、又は

使用開始日が決まっているクーポン券みたいな感じの免罪符。

 

永遠から、見ることを考えない。永遠の中に全てが完結され、

完了され、6日間の中で、全ては創造が終わっていると

書かれている事実に立たないから、歴史の途中まで

神の助けや救いが無いと考えるわけですが、

聖書にはずっとその逆、違う事が書かれています。

 

2000年前にイエシュアが来られ、処刑され昇天され

復活されるまで、人の中に神は共に住まわなかったと言う教え。

完全なる救いも無かった。動物の血で仮の許しで神の怒りを

なだめていた。イエシュアが処刑され罪を負って下さったので

怒りの神が恵の神に変身!恵の時代になり、

呪いの律法の教えは消え去り、新しい基準の神の教えに

変身した〜!?

 

イエシュアは地上で人々に弟子たちに、何を教えていたので

しょう??復活したイエシュアが弟子達に現れた時に確認するために語った教えは、トラー預言書でしょう。トラーを否定する

最新式の奥義=教えを教えていたと言うの神学の教えでしょう。その思想は聖書では無い教えです。そんな事したと言うなら

イエシュアは単なる偽教師、偽預言者です。

イエシュアは、トラー=預言書に書かれた通りの救い主=

イエシュアなのです。

 

そして昇天後も使徒行伝以降に書かれている、信じる者達が

生きる内容は100%トラー以外の何物でも無い事が書かれて

いるのに、それが読み取れていないのだと思います。

変ですよね。全然辻褄合わない。

 

もしも、多くの人に語られた通り、イエシュアがトラーを捨てて

新しい教えを生きるように教えたとするならば、そんな事一体

福音書以降のどこに書いてあるのでしょう?書いてあると思う

箇所は完全に原典聖書に書かれている内容を誤解して考えている解説者の解説を通して、聖書の教えですと聴き続けているからに他なりません。

福音書以降に書かれている内容は100%トラーです。

そしてトラーに関する解説の預言書の内容のみです。

だからトラー、預言書、諸書からの引用が4000近くも

書いてある。福音書以降の内容は、殆どがトラー、預言書の中身を解説している使徒が書いたコメンタリーだからです。

 

聖書が警告している別の福音とは、

トラーとは違う教え!それが聖書が定義する別の福音の真相

なのです。

そして、騙しごとの哲学=人間が作った教えです。

それに注意!とずっと聖書には書かれています。

 

ウルトラマンが、家族、仲間であるウルトラ兄弟を撃退、

退治すると言うあり得ない教えを語っているのです。

イエシュアが父を撃退する?父の言葉=呪いのトラーを否定し、

終わらせるために来たと言う意味はそう言うことを言っているのと全く同じ事なのです。マタイ5:17−19に書いてあるのは、父の言葉=トラーを書いてある通りに教え、生きること

をしに来たと書いてあるのです。イエシュアは、父の言葉=

モーセの五書を父の言葉の意味通り教え生きることを教えに

来たと言われているでしょう。

 

神が神の言葉を終わらせると言う発想自体が聖書では無い!と

聖書に基づき気が付かないとならないのです。

 

この事実抜きに、人造神学を土台とする聖書信仰は、こんにゃくの上に建物を建てるがごとくグラグラでガラガラ建物が崩壊して

行く教えです。土台が神の言葉の真実でなければ、それは本当にハリボテの家、いつか崩れてしまうのです。

 

この様な神学の教えから翻訳聖書を読んでいるので、神が神の

言葉を終わらせに来たと言う教え”ウルトラマン、ウルトラ兄弟家族を撃退する仲間割れ家族紛争の巻き”のストーリーになっているのです。

 

続く