今日は何の日?と聞いたら、世間ではグレゴリオ暦の
10月31日、そして”ハロウイーン”と答えるでしょうね。
今年は集まり制限があるので、違うのでしょうか。
ハロウイーンはいつから日本で流行り始めたのでしょう。
1980年代ではハロウイーンと言う祭り行事は日本では何?
と言われるくらい、全くその存在さえも知られてもいないし、
やってもいなかったイベントだと思います。
そしてある時から世界中に瞬く間にこのイベント行事は
伝わりました。バレンタインデーもそうですね。
いつから始まり、浸透したのか。ホワイトデーも。
日本の風習である2月3日の豆まきの日に、太巻き=恵方巻き
なるものを食べると数年前に知って、それはいつからそんな事をする様になったのか調べてみたら、1989年に広島の
セブンイレブンのオーナーが大阪出身の方で、
節分に太巻きを食べる縁起のいい風習を”恵方巻き”として
プロモーションしたと書いてありました。
なるほど〜誰かが考えたアイデアが浸透したと言う事。
これが200年以降には、その由来も不明になり、違うもの
として伝えられるのかもしれませんね。
伝統で伝えられる様々な事柄は、その由来が見えないものが
たくさんあります。どうしてそうなのか、伝統だからやって
いるとしか今の時点では知られていないものがあります。
伝統の習わしや教えと、聖書=神の教えの区別が無いものが
たくさんあります。聖書とは関係のない、いや関係ありそうで,
でもオリジナルの神の言葉=教えとは違う教え=習わし、
伝統が実はたくさんあるのです。
しかも、聖書ではなく、異教の神々の要素が混入している
ものまであるのです。
ある伝統は聖書には書かれていないけれど、意味があるものがあります。これは、説明しても実際にやった事が無い、
祝わないと分からないものですが、”過越の祭り”の中で
イエシュアもされていた伝統の儀式、過越の晩餐の一連の
内容に関してです。
過越の晩餐の中でイエシュアがされていた夕食の後に掲げた
ワインの杯は、4つのワインの杯を飲む儀式の第三番目、
”贖いの杯”と呼ばれるものです。この4つの杯の中で
イエシュアがされる贖いが、出エジプトの出来事、神のものとなり、救い、贖い神の関係に入った一連救い贖いの事実の意味、教えと繋がっているのです。
1きよめ 2救出 3贖い 4賛美
又はユダヤ人の男性がかぶるキッパは聖書の仰せでやって
いるのではありません。伝統でされているものですが、
自分の上にあるものは”神”である。自分が一番の権威では
無いことを思い出すためとしてキッパをかぶるのだそうです。
服装に関しての詳細は、”男が女の様な服装をしてはならない”とあります。神殿=神の家に仕えるレビ族の祭司と
アロンの家系の大祭司が神殿の中での仕える時に着る服装や
帽子に関しては、神の言葉で色から形、生地、全て指示がされています。
それらの一つ一つの意味があり、全ての教えはイエシュアを
表しているものだからです。
私が聞いて来た教え、聖書の土台となる思索や、思想が、聖書
そのままであると思っていたものが、実はローマ帝国の
ローマ皇帝や、西洋人が聖書を変えて作ってしまった教えで
あるものがたくさんある事を知ったのは、ヘブライ語聖書、
ヘブライ思索で読むと言う世界に触れて初めて知った事実です。
それまで、全てがピュアに純粋に神の教え、仰せと思っていた
のですが、実は人が作った教えだったと知ったのです。
人が神の言葉や教えを変えたと言う発想さえも、12年前迄
考える事も無いし、思いもしませんでした。まさかそんな事
ある訳ない。いやそんな考えさえも思い浮かばない。
ある意味、信じた時に”進化論”が人間の仮説であった事を
初めて知ったように。信じた後もその先でも、ピハヒロテと
バアルツフォにまだ挟まれているのだと言うことがあるのです。
基本中の基本。人間が神の教えや言葉を変えたものを、
神の教え、言葉であるのだと信じ込み聞いている事に
気が付くと言う事があるのです。
神の言葉、教え、今日も神が生きていて、私たちに直接語りかけて教えている事実を、100%フルに意識する事です。
神が何を教えているのかは、神の言葉を通して知るものです。
日々の体験はその神の語る教えを実際に生活の中で体験し、
適用するものです。
霊的体験をしなくては、神の言葉、神が語る教えが分からないとか、隠されたミステリー、神秘主義を求める教え、霊的体験を
求めよと言う思想は、他の異教の神々の宗教と全く同じであり、神が警告している事でもあるのです。要注意!
パウロが居た時代の”惑わす教え”そのものと同じ性質です。
終わりの時代は、”印” ”現象” ”奇跡”を求めるとあります。
不思議に惹かれる、不思議や現象は人の気を引くけれど、
それは神から出たものではないものだらけです。
巷にはそんな教えや、不思議霊的体験が書かれた書など
多く出回っています。それはその人の体験であり、
そんな印や現象を求めよなど神は教えていません。
神が教えている事は、”神の言葉”から離れるな。神が神の言葉で人に伝えている教え、生き方からずれるな!と言うことが神からの教え、警告なのです。
わたしの羊はわたしの声=神の言葉、教えを知っている、
聞き分け、偽物、本物、神に属する教えか、偽の教えか、
識別出来るとある通りです。
でも羊=イスラエルに属していなかった異邦人には、
何が羊飼いの声=神の言葉なのか幼い頃から学ばないので
ヘブライ聖書の世界ー婚姻契約に書かれた人間の生き方に
全く馴染みがない、聞き分けるすべが始めからないのです。
だからより一層神の言葉の意味を知る事をしないとならないのは
自ずから知れたものであるのです。
神の言葉を知らないなら、何の霊体験をしているのかさえも見分けられないのです。
神の言葉を知り、触れ、理解する事は霊的体験そのものなのです。なぜなら神=言葉=イエシュア=霊だからです。
不思議な体験は悪霊を通してもするし、他の宗教などはもっと
あると思います。パウロが敢えて彼の特別にした体験を余り
語らなかったのは、”奇跡、現象”を執拗に中心的にを求める事を
教える思想が危険である事を教えるためでもあると思います。
そして、人は神から人へ直接与えられた特別な印を捨てて
いるのに、その事に全く気が付かない、無感覚、考えることさえもする機会がないのです。
人の教えにどっぷり浸り余り、人の教えが神の教えをおおい、
神の言葉の真意が届かない状態だからです。
神の言葉も同時に捨てる様に教えているのです。
神の言葉を捨てる=終わりと言うその教えは、神から出たものだと多くの人は人の作り出した教え=神学を通して聖書の解説を聞いているので、それが本当だと本気で信じているのです。それは神からの教えでは無い事は聖書にクリアーに
書かれているのです。
これに気が付いていないかもしれないけれど、神の言葉、
教えの事実に基づき考えたら暗闇の部屋に光が付いて、
神の言われている言葉の意味が見えてきます。
私たちが直接神の実態、存在と繋がる=神の言葉だからです。
出エジプト 31:12 主はまたモーセに言われた、
31:13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、
『あなたがたは必ずわたしの安息日=シャバット=第七日目を守らなければならない。
これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしで
あって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、
知らせるためのものである。
愛する人に言われる。”あなたはわたしに属するものだから、
決して他のものへ走ってはならないよ!”と聞こえるのか、
それとも神の言葉が自分への縛りに聞こえるのか?
意識の違いが明確になる神からの私たちへの言葉、警告でも
あると思います。
この言葉、神の口から直接出た言葉をもう終わりと信じる人には今も神が語る真実は頭脳に届かないですが、聖書にある神の言葉は最初から最後の言葉全て永遠に神の言葉であり、不変であり
どこも変化なく、同じ福音であり、二つの別の福音が無いと
知る人には通じる神の言葉なのです。
なんと書いてあるのか読めば分かります。
神と人が関係の中にある”印”であるものが”シャバット”です。
第七日目です。どうして第七日目?神が決めた暦だからです。
神の創造の根幹だからです。
6日の間に全ての創造の業を完了し、そして第七日目に
止まった。神は人を第一日目から第六日目まで働いて
第七日目には神と人と憩う日、関係の中にある事を祝う日、
永遠の中に入る日としてその第七日目を創造したとある通り。
人のために全てを作り全ての創造物と共に神の世界の
始まりで初めて祝った日が第七日目のシャバット、
祝いの日です。
続く