神の言葉 創造 真理のエッセンスは伝統の教えでは消すことの出来ない永遠の事実 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

古代の日本での慣わしや風習、文化は今現在のそれとは違う事が

たくさんあります。その一つが暦と言うものでもあります。

日本でも以前、トラーに書かれた教えの通りに暦の概念があった

ようです。

 

朔<さく>と言う漢字は、新しい始まりを表すものでありますが、これは”新月”に関係あるものです。友人が子供の名付けで

この漢字を選んだと言う理由を話してくれたことがあります。

”新しい始まりを意味する”漢字だから選んだの。”と

本当に待ち望んだ、待望の子供の誕生への期待、願い、

祈りを込めて語っていたのを新鮮な思いで聞いた事を

思い出します。

 

「朔日(ついたち)」は新しい月の始めを表すもの。

 

以前の昔の日本でも聖書に書かれている様に、

太陰=月の満ち欠けにより暦が作られていたので、

毎月一日は必ず新月になりました。

そしてその新月から数えた第十五日は満月になるのです。

今も聖書の暦は同じです。

だから満月を「十五夜」というのでしょう。

秋に来る第七の月の十五夜はちょうど、”仮庵の祭り”の時です。

 

アジア圏は、この秋の十五夜を盛大に祝いますが<日本もお月見として祝いますね>、誰もこの時が”仮庵の祭り”である事を

知らないで神が創造された天体を拝むのです。

 

世界はグレゴリオ暦を元に365日ですが、

それぞれの国で違う暦を使い、記念日を祝う事をしてもいます。

神の造られた世界は、月を中心に時が司られている事が

書かれています。

新しくなる月の第一日目は”新月”にあたる日を聖書では、

新月の日=ローシュ ホデシュ=ראש חודש‎と言います。

 

出エジプト12:2 

この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月

しなさい。

הַחֹדֶשׁ הַזֶּה לָכֶם,=あなた方の初めの月。

ホデシュ ハゼ ラへン。

 

このホデシュ、新月を表す言葉は、エレミヤ31:30にある

”新しい契約”と同じルートワード、言葉、意味です。

בְּרִית חֲדָשָׁה ブリット ハダシャ。

ホデシュ=ハダシュ 発音でも似ているのが分かると思います。

 

月が満月になろうと、新月になろうと同じ月です。

毎月新月で別の月が出て来ると考える人は誰もいないでしょう。

月はたった一度神が創造して造られた夜を司る”光”

イルミネーションです。

”神が永遠に有効であると選び出した代表者を通して結んだ

”契約”の内容、中身、保証、約束は永遠に同じです。

 

”参加する人の状態が違う”=頭脳に割礼を受けた人だけが神の国

に生きる事実=契約に参加している、それが出エジプトした時とは違う状態であるとエレミヤが説明しているのです。

出エジプトした時は、自分も含め完全に頭脳に割礼が無いまま

肉の目のそのまま、そして今でもその肉の目が開かれたまま全てを見ている、考えているかもしれないからです。

神の目=神が見ている通りの全てを見る訓練が不足している。

 

聖書は別種の神の教えや言葉や、違う契約などの話など

始めからしてないのです。世界のどこにもそんな別の契約書など存在もしないでしょう。物理的にも。新約聖書が新しい契約書だと考える場合、その中身が100%モーセの五書、それに付随す

る預言書の解説しか書かれていない事に気が付いてない、

それはヘブライの書=トラー、預言書を本当の意味で学ばない、知らないからそう考えるだけなのです。

福音書〜黙示録は、使徒の書簡。トラー、預言書に対する短い

解説が書いてある部分なのです。だから聖書全体のたった30%しか占めていないのです。

 

エレミヤも、どの預言者も、イエシュアもパウロも、

同じモーセの五書=シナイ山で人類初、神が文字として人に

与えた永遠不変の婚姻契約書=同じ内容の契約書を、

再び更新される話をしているのです。

 

聖書に書かれた本当の事実からだけ考えたら神の永遠普遍性、

誠実さ、神は嘘はつかない、途中で約束取り消さない、神は

神の契約を訂正しない、途中で変化、変更しない、人が肉の目から語る七へんげの気まぐれな、無責任、一貫性の無い七面相の

イスラエルの神像など、聖書に書かれている神では無い事は、

翻訳聖書読んでも誰でも気がつけるはずです。人の教えの色眼鏡をかける、人の教えを挟んで考えているから、書かれている通りが書いてあるのに書いてある通りに読めない、見えない、真実が見えてこないのです。

 

トラーをきちんと知るユダヤ人なら、七へんげの神、教えや契約を途中で神の都合や理由で勝手に一方的に変える神などと言う

発想は決してしないのです。なぜなら、神はクリアーに儀式を

通して、契約を変更破らない証拠を天と地を証人に結んだ事が、

ヘブライ語聖書には書かれているからです。

言葉を見ただけでも理解出来ます。一貫して同じ言葉が同じ

意味で書かれているからです。

 

もし破るならば、”切り裂かれた動物”と同じ真っ二つの状態に

なりますと言う儀式です。その意味が分かれば、途中で約束を

変更する教えが聖書では無い事にそれだけでも気がつけます。

それ以外にも神が語る言葉”永遠!”と言う一言で全て偽の教え

テンポラリー、一時的な教えと言う仮説は消えるからです。

 

そんな異教神に類似した神像はヘブライ聖書に書かれている

イスラエルの神の性質=神像ではなく、イスラエルの神に

対して自分の慣れ親しんだ思想、発想で異教の神々の性質を

イスラエルの神になぞらえて語る別の教えだからです。

 

この正月とあるのは、春に来る第一の月です。

私たちの救いの原点に関わる特別な出来事、祭りがこの時に

祝われます。過越の祭りが来る第一の月の事です。

 

過越は、その第一の月の15日目、満月になる時に来るものです。

古代ではこの月がエルサレムで観測されたら、イスラエル中に

新しい月が始まった事を知らせたのです。

祭りも同じく新月、満月を観測して始まるのです。

 

神の暦は、神の造られた天体で観測するものなのです。

そして、神の暦の1年の第一の月が来たのを知るには、

天体と共に、春の大麦と言う神の造られた創造物から

知るものだったのです。

 

今は人の計算、知恵を頼るものです。神の創造、

天体が基準では無いです。

グレゴリオ暦、ユリウス暦を土台とするものですが、

神の暦は遠に変わらないのです。

それはどうして分かるかと言うと、神がそう言われたからと

言う事、そして天の万象、月、星、太陽を今日も観測出来れば、

それはすなわち神の言葉も神の暦も神の記念日も永遠に今も

変わっていないあると神が人に教えられているからです。

 

神の言葉は始めから終わりまで<アレフでありタヴ=アルファ、オメガとして>永遠から永遠にずっと繋がっていて、

どこか途中で決して変化しないものです。この神が語る神の言葉のコンセプトが人の教えを捨てて、切り替えて、頭脳にしっかり

刻まれたら、神の言葉の語る真理が見えてくるのです。

 

偽りの教えと偽りの教えは繋がるけれど、神の言葉が語る真理と人の教え=偽りはどこまで行っても繋がらないからです。

だから辻褄合わせるのに都合の良い教えを作り続けて補うけれど

土台が聖書では無い教えは、崩れます。真実では無いから。

 

自分の体が全部で1つの体であり機能するもの=自分である事を誰も疑わないでしょう。

この部分の血管と神経はある部分では繋がっておらず、

切断されていますと考えはしないでしょう。

それは体のある部分が壊死していると言う事になります。

 

もし神の言葉が切断されたもの、変化したものと考えるなら

それは自分の体の右腕と左腕とは関係ない、どこかの部分は

今は機能しないで切断されているものと言っているのと

全く同じ事なのです。神の言葉は死んだと言っている教え。

 

全ては神が造られた、神が人に解説する通りを知らなければ

人間が神の言葉を再定義し解説する別のマニュアルの中に

書かれている”人間とは”の定義を聞いてしまう事になるのです。

それらしく聞こえても、それは神が人に伝える神の創造された

世界、神の創造された神の似姿の人の生き方の詳細では

無いのです。

 

エハッド=一体。一貫していて変化無い、四文字で表される

神の性質=永遠に変わらない、将来も変わらない、昨日も今日も

永遠に同じと言う信仰告白と同じ神=イエシュアの実態

יְהוָה=神の特有、一番親密な呼び名。

 

神の永遠普遍性は、ヨッド ヘイ ヴァヴ ヘイと言う四文字で表される神の固有名でもそれがはっきりと示されている

からです。神の名、名とは実態、評判、性質を表すものであり、

その神の性質とは異なる、イスラエルの神の神像、人間像を、

人の神学では解説しますがそれは神が解説、定義している

ものでは無いのです。

 

途中で変わる神像を語るのは、異邦人、異教徒思想、異教の地で

西洋ギリシャローマ思索を土台とする思想にどっぷり浸かれば

ユダヤ人、どの国の人でもプリズムを通して神の言葉を変えた

教えが真実だと信じる事が出来るわけです。

 

イスラエルの異教の神々と交わった、混ぜ物の教えを作り出した

歴史の記録も聖書に赤裸々に書かれていますし、現代でも

神のデザインを曲げる生き方は大手を振り主役の座を占めるごとく、イスラエルでも行われる。悲しむべきものなのです。

神のデザインを外れるもの=全て命を生み出さないものです。

物理的にも霊的にも、そしてどんなに人間的に解説しても、

それは神の目の前にラー=的外れであり、醜いものであり、

それらに対して拒絶反応を示す事が神の性質に

ぴったりの人としての正常な反応なのです。

 

オカルト的なものから、ユダヤ神秘主義カヴァラなど、

ソロモン王の辿った同じ過ちをする事を誰でもがする事が出来るものなのです。

その異教神との混ざり物への教え、神の言葉に人の教えを混ぜる事への警告が、預言者の神からの託宣=預言書でもあるのです。

 

続く