神の記念日、アポイントメント、定めの時の中で神の声、招きに応答する人々 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ヘブライ語聖書の中に書かれている言葉の一つ一つは、

神の口から出た言葉そのもの=神ご自身=霊であり、それは永遠に変わらないものであると神が言われました。人がどう解説、

言うのか関係無く、神がそう言われています。

聖書にはそう書かれているのです。確認すれば分かります。

 

どの箇所も、要らない、終わり、無用な言葉は聖書には書かれていないと言うのが、神の解説する=聖書=神の言葉なのです。

人の解説が、神の説明する神の言葉に関して大幅に”違う”解説をしているだけなのだ!と言う事実にまず気が付いたら、

大きな軌道修正、ブレている軸が、神の中に戻る=シュヴァー

する=ヤレ=神の意図、的=トラーに当たる起動に戻る道に

修正が出来ます。

 

神の時の中、神の声の下で、神の声の中で神の声=言葉=教えを聞くならとヘブライ語で書いてあります。誰の、何の教えに

聞き入っているのか、聖書に戻り確認が必要なのです。

 

詰まり、神の言葉は終わったと唱えている伝統の教えは、

オリジナル聖書の神の言葉が語る、神の言葉とは違う<翻訳でも永遠と書いてあるので分かるはずのですが>別の周波数の領域の中で、別の声に聞き入っている証拠でもあるのです。

2つ別の福音、神の言葉=契約は存在しないからです。

 

1世紀以降、4世紀を経て、中世の西洋宗教の教えで変身し、

封印されてしまったヘブライ語聖書”オリジナルの福音=

オリジナルの神の言葉から、はるかに遠く遠くかけ離れて

しまって現代に至ったのです。

 

神は人に呼びかけています。イエスさまと一言呼びかけるだけでそれだけでいいのさと言う教えは、神に語りかけ、呼びかけた後、今度は神から何を語りかけられ、教えられ、人がそれにどう応答して生きるか?と言う部分が無い、欠けているのです。

 

2001年のナイン イレブン。9月11日の大惨事の出来事の後、アメリカの多くの人達の間で、大きな悔い改めを促す動きがありました。多くのクリスチャンも危機を感じ、悔改めようと

お互いに言い合いました。でもいつでもその時だけで終わって

しまうのです。

 

その動きが終わってしまうのは、決意だけで、神の教え=言葉=神が伝える通りの婚姻契約の関係=あり方=神の教えに生きると言う事ごっそり忘れられて、抜けているからなのです。

神の教えを実際に皆が生きる世界に移行しない。神の教えを

生きないから、次世代に神の国の実態を生きる事が継承されて

行かないのです。

 

聖書、福音、イエシュアの教えは、”人は神に造られた通り”

神と向き合う、人と人と1体で向き合う、エデンの中の”関係”の

姿=トラーに表された生き方を生きる事に戻ると言う事なのです。

 

古代から、イスラエルでさえ、異教の神々、バアル、アシュラ

そして、異教の神々の礼拝場所=高きところで、異教の神々の

要素、シンボル、儀式に混じりながら、気持ち的には純粋に

イスラエルの神を礼拝していたと言うずれた意識でいた記録が

書かれています。

ある時は1000年以上も。。そしてソロモンやダビデ王でさえ、完全にその高き所を取り除かないまま居た事が記されています。そして神は、長い忍耐で軌道修正する事を待っているのです。いつの時も。そして、決定的な介入が起きているのです。

 

イスラエルの神に対して、西洋人の神学は”怒りの神”と言う

神に対してこれまた完全にずれた神像を語っています。

その発想自体が完全に異教徒の思考回路から出たものです。

 

神の怒りと言う意味を、聖書から読み違えている、完全に誤解している、いや聖書に記されている”神の怒り”の本当の意味を知らないから、勝手に”怒りの神”と皆で言い続けているのです。

 

旧約聖書の怒りの神なんて言う教えや、名称、神に対して、

人間が全く誤解している、完全に取り違えて肉の目のまま

眺めている、本当にアバに対してものすごい失礼というか冒涜的で即座に取り消すべき名称です。

 

許しと、恵、憐れみ、愛に富んだ神と初めから神が紹介しているのです。

神は、”悪”を絶対的に忌み嫌います。なんでもありではない。

もし悪を受け入れ、取り込み続ける事を許す神なら、私たちは

皆破壊されてしまいます。

許しとか愛とかの、聖書での本来の意図、意味をトンデモなく

違いしているのだと思います。

なんでもあり、なんでも許しましょう、愛し合いましょうって、それって死を招くウイルスを皆の中に無秩序に撒き散らし

ましょうと言うのと同じです。

聖書の語る”愛”とは、トラーに書かれた”愛”の詳細である事に

気が付いて、トラーに書かれている愛の内容をまず知らなければ

自分の考えている”愛”とは自分流、自分解釈の勝手気ままな、

神が語る教えとは異なる解説をしているだけになってしまって

いるのです。

 

人を破壊し続けないために、神が介入し、完全なる義で公平に

ジャッジして下さるのでしょう。神以外、最終的な絶対的裁きを下せる存在は居ないのです。もし人が人を裁き、報復、復讐したら、自分も傷ついてしまうからです。人には出来ない事なのです。悪に牛耳られている人は正義を求めて今日も喘いでいる、

助けを探しているのではないのでしょうか?

早くイエシュアが来られることを誰もが望んでいる。

 

神の時=記念日は、福音そのものです。そして、贖われ、救われ

イエシュアに繋がった人が、”神の義”の実態の本物の自分を生きる事を再所有して行く、プロセスそのものを生きる事なのです。

 

そして、神の前に立つ時、会話する時、神の言われる事に対して、受け答えをしているのです。もし、神の言葉を捨てたら、

神との会話の内容は本当に貧しい乏しくなるでしょう。

神の言葉の殆どを終わりとして知らないなら、会話はそれ以上

先には続かないからです。

 

これから来る大贖罪日も、軌道修正の日です。そして今毎日、

神の言葉=10の言葉に照らし合わせて、棚卸し、振り返る日々を神の家族の全体でする様に、神から言われている時の中を

過ごしているのです。

再臨、最後の審判、イエシュアが統治する新しい世界の到来を

聖書の記述の基づき信じるなら、秋の記念日がまさに、

近い未来に実際に来るリハーサルの日々である事に聖書から

気が付いて実際に参加すれば良いのです。

 

神の中に戻る、神の教える生き方=婚姻契約=神の家の家族の

生き方に戻るためです。全ては、癒されるためです。

 

神の前に出る、その大前提の意識は、宗教の教えで言われる

”あなたがどんなにダメな人、どうしようも無い人”なのか?

と言う偽の自己像、偽の教え、ずれた意識=肉の目から発想する会話を決してしてはならない事がレビ記の神の家の一連の儀式、

教えの出来事で、はっきり教えられ、表されています。

 

そして神の提示する大前提とは、”神は決して人を責めていない”事です。責めは主が一人全て負って下さったからです。

 

責めの顔、怒りの神の顔で会話しているのでは無いのです。

どうしようもないのは、死んだ自分はどうしようもないのです。

だから主が共に死に付して、永遠に葬ったのでしょう?そして

新しい命に復活した事を信じているのではないのですか?

何を信じて、何を生きるのか?なのです。

自分の今の感覚や、どれくらい出来ている?で考えたら

神の言われる事実は見えなくなります。

自分に生まれて、選択出来ないまま両親、環境、育ちを与えられて、様々にずれた体験をしてしまったのは、自分の責任範囲を

超えているからです。そんな責めでは無いのです。

どうして、こうなってしまったのか?それは色々理由はあります。何が今の自分を生きる事を妨害しているのか、それが何なのか気が付いて!と言うだけの事なのです。どんなにダメな自分なのかなんて言う人が人を責め立てる声では無いのです。

このままだと癒されない、膿み、歪み、歪みを排出して

正しい道=癒される道に立ち返るための、軌道修正なのです。

 

もし永遠の中に在る、地上で見せられた”イエシュア”の処刑と

復活を信じるなら、どうしてその命がけの神の業を否定し続ける

教えを唱えるのだろう?どうして、神が”あなたは新しくされた”

と宣言する横で、”いいえ、わたしは一生どう仕様もないダメ

人間の罪人です”と言い続けるのだろう?と、神の前に出て、

神の言葉に照らし合わせて、神の目から同じ目線で一緒に見て

会話するべきなのです。

 

新しくされた人を取り戻されているのに、神の似姿で生きる事が何なのか、神の言葉を知らないので軌道修正のしようが分からないと言うのが本当、妥当です。神が軌道修正の仕方をトラーの中に、事細かに書かれているのに、そこを読まない、知らないから、軌道修正、新し人で生きる事に移行するすべが分からないと言うのが本当の事です。

神の記念日の意味、その記念日を生きる中で、実際に神が自分を妨害している包皮の詳細を教えて指摘してくださるのです。

でも記念日に参加しないから周波数ずれて、その時、その時、

神の教える事を聞いていないだけなのです。神の記念日、時に

参加しないから。

 

神がされた業は、完全に焼き尽くす火で、神の備えた

”コバーン”は神が直接下した火で焼き尽くされ、芳しい香りが、天の中に目で見える煙と共に立ち上り、神の中にすっぽりそっくり受け取られて入れられていると言う”わたしが成した業”の前提から、わたしの前に出て会話してくださいと神が

言われている事が書かれているのです。

 

宗教の教えの世界は、知識の木から食べて、本物を見る事に盲目になった、神が語る世界とは別、違う世界を見る肉の目が開いたまま、割礼が無い頭脳のままで神の言葉を読む意識から生まれるものなのです。

 

 

 

続く