神の教え 婚姻契約の生き方に戻ると言うのが聖書の本当の悔い改めの意味 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イスラエルの神の造られた世界には、神ご自身が造られた独特な暦があります。神がこの世界の全てを造られ、そして時を造られたから。人は神の造られた暦の中を生きる様に造られている。

 

神の正確なプランがあり、世界の歴史は神の暦に沿って営まれ

進んでいます。人が時や暦を作り出したのではないのです。

 

月星太陽は、神の時=特別な定めの時=アポイントメント=

記念日を司るために造られたとヘブライ語では書かれています。

 

神の定めの日=呼び出し日の全ての中身は、”イエシュア”=福音の内容を網羅し、表しているものです。それらは預言的な内容でもあるのです。

神の呼び出し日は、レビ記23章に書かれています。

 

神の記念日に関していくらでも話す事はできるし、語る事もできる、学ぶ事も出来る。でも、神が招いている記念日に実際自分が

参加して生きてみないと、その中身、性質は体験出来ないもの

なのです。これは、どんな事でも同じだと思います。

 

実際に聞いたことを、実体験するのと、聞くだけで留まるのとでは、全く別世界のものである事は誰でも体験上経験しています。

 

案ずるより生むが易しのことわざのごとく、これから初めて

出産する人は、出産に関してくまなく調べても、実際に自分で

出産と言うものを体験するまで、それがどんなものか体験的には分からないし、子育てだって、これまた実際に自分の手で育ててやって、体験してみて、初めて知り得る世界です。

いくら誰かに説明しても<特に男性に>、実体験しなければ

分からない世界なのです。

 

ある食べ物や植物の成分を分析し、内容の全てを知っていても

実際にそれを食べてみなければ、その食べ物がどんな味か、

どんな食感なのか、そして食べた後、体にどんな作用をするのか体験出来ないのと同じです。

 

そして、自分にはある事柄は関係無いと思った時点で、その事に関しては、壁、溝、隔たりが出来ます。自分には無関係と言う

距離を保つからです。人は自分に関係の無いことに関して、敢えて知ろうとはしないものだからです。無関心の世界。

 

エデンの園のあの動物は、一番のツボを知っていたのです。

何をすれば人をつまずかせる事が出来るのかを。

神の言葉は、神ご自身であり、神の思索、頭脳=ローシュです。

人に取って、神の言葉は命綱=臍帯と同じものなのです。神に

直に繋がれるものだからです。人が神や、神の造られた世界や、

人間の生き方を実際に知り得る方法は神の言葉を通してです。

霊に導かれれば神の言葉なんて要らないと言う教えを聞いたことありますが、神=言葉=霊である事を知らない世界の教えです。神の教えを知らなければ、どんな事が起るのか?自分の主観=

自分が神、自分の悟りが神。そして何の霊に導かれているのか、それさえ見分けられる事など出来ない、分からない盲目状態になるのです。照らし合わせる基準=神の言葉を知らないからです。

 

どんな世界の学習も”言葉”を通してしているのです。それが文字であれ、記号であれ、何かを伝達されて知る世界が学習の世界。

人は神の言葉、神の性質に似せて造られているからです。

それが神の造られた世界、人のデザインだからです。

 

人は神の言葉で造られ、神の口から出る1つ1つの言葉で生きるとイエシュアがトラーから引用して、サタンを撃退したあの事実

です。神の言葉を否定すれば、人は必ず歪みます。

遺伝子組み換えの食品を食べれば体が破壊されてしまうのと

同じこと。人が操作し、性質を組み替えられた神の言葉を生きたら、歪み、ゆがみで異物を取り込んでいる証拠が生き方に現れるのです。

 

神の言葉は、源、ソース、全てを汲み出す事の出来る”力の泉”。

神の言葉から人の意識をはぐらかせる事が出来たら、神の言葉を

疑わせる事が出来たら、その時点でサタンの作戦は大成功です。

神の言葉から離れたら人は必ず危険ゾーンに侵入するからです。

黙っていても破壊されて行く。善が悪。悪が善と言う今の世の中

がそれを表しています。神の言葉、デザインを歪めた世界。

神が右にも左にもそれるな!神の言葉=教えから離れるな!と

ずっと警告しています。

 

自分に関係がある事と考える事柄に関して、人は意識が行きます。

例えば、急に体のどこかが不具合になる。そうすると、腰痛だったら、整体とか、整形外科とか、そんな看板などが街中でやたらと目に付くようになるでしょう。そこにずっとあったのに、

病気になる迄、そこに看板がある事にさえ気が付かなかったのにいきなり目に付くようになる。又はネットで熱心に情報を調べ

始めたりします。

自分の意識、興味がある場所に思考が行くからです。

自分が価値意識を見い出すことに熱心に時を費すものです。

 

自分には関係無いのだと思えば、その事柄に関して敢えて知ろうともしないし、まして調べようともしない。探らない、学ばなければ、質問も出てこない。無関心の世界です。

だから、神の言葉から人の意識をはぐらかせるのは、神の子らをアタックするためには一番効き目がある事なのです。

それが聖書の至る所に警告として書かれています。

 

神を知る世界は、全て”質問”から始まるのです。それぞれ違いますが、救い主に出会う前も、自分の中で自問自答、何かを探して

いたはずなのです。神はいるのか?とか、人生これでいいのか?

とか、それぞれに疑問があったはずです。

 

神も人に常に問うて、神の意図=言葉を考えさせている事が

聖書に何度も書かれています。ユダヤ人の教育は、”質問する”

”考える” ”答えを見い出す作業をする” ”真実を発見する”

 

私たちは、自分の中で”何だろう?”と考え始める事、

それが真実を発見する最初のきっかけ、鍵になるからです。

だから、神の言葉は現在不要、無用、意味なし、恵無しの終わった厳しい律法などと言う人の教えを聞き続けて、それを本気で

信じているのなら、神の教え、語る内容を知ろう、探ろうなどとする訳ないのは当然なのです。神の言葉を知ると言う事から、

意識をはぐらかされている危険状態です。

 

しかも、読んでも書かれている意味がよく分からないから、

面白くない。学ぶ方法を教えてもらえない、分からなければ、

追求しようにも、出来ないと言う事になるからです。

 

何を書きたいのかと言うと、これから来る神の記念日の事です。

2020年、歴史上前代未聞の健康な人がロックダウンされる

状況になっています。今までの普通の日常が無くなり、鶴の一声で全てその通りにしなければならない現状を体験しています。

 

イスラエルが、歴史上バビロン、アッシリヤ、ギリシャや

ローマ、そしてヨーロッパなどに、弾圧され、神の言葉を生きる事、語る事神の祭りを祝うことを禁じられ、そして財産や土地、家を没収され、殺されてしまうその体験を考えると、今まで理解出来なかった人事の様に考えていた事が現実に自分の身にも

起こり得ることがはっき実感出来るようになりました。

 

そして、この事態により世界に思わぬ事をもたらしていると

言う側面があります。イスラエルに居る多くのユダヤ人が1世紀の時以上にイエシュアに出会い、そして多くのクリスチャン達も神の教え=トラーに戻ろうと言い始めました。

アメリカでも、大贖罪日=ヨム キプール9月27日〜28日に皆で”戻る!”シュヴァーしようと言う働きかけが今あります。

とても大きなものになっています。

 

これから、来る記念日は、今週の18日金曜日の日没から始まる

”ヨム テルア”Wake Up call=目覚ましの神の声が轟く日。

ユダヤ暦の第七の月の1日。

そして、その後の10日間、今までの1年を、人生を振り返る

シュヴァーする日々=悔い改めと言いますが、悔い改めとは

神のトラー=教えに照らし合わせて、自分はどう生きていたのか?を振り返る日々なのです。

そして、大贖罪日=ヨム キプールが来ます。その後に1年最後の仮庵の祭りの1週間が来ます。最後の審判を信じる人に対して

全て関係がある神の記念日なのです。

 

聖書に書かれているオリジナルの神がデザインした神の記念日?など、私自身も12年前迄は、聖書に書かれていても、救い主

そのものを表す記念日でありイエシュアも実際に祝われた記念日であるのに、全く無関係、無関心、100%意味も知りませんでした。

 

祭りの名前だけは聞いても、読んで読み過ごすだけ。気にも留めない、考えもしない。それらが何であるのかも分からない。

自分には、現代には、異邦人には関係ないものと教えられて

来たからです。だから、当然全然気にもしない、関心も、注意も意識にも上らないものでした。

 

分からなくても聖書に書かれた真実の点と点を繋げて行けば、

必ず見えてきます。神の記念日は全部預言的記念日です。

春の記念日は既に地上で成就した福音の内容です。

秋の記念日はまさに、これから起きる最後の時に起こるものを

表しているのです。それらに参加する=リハーサルする。

実際に参加して、生きる中で、贖い、救い、恵、イエシュアの

中に住まう現実を知って行く。

 

新しい人として、頭脳に割礼を受け続けて行くプロセスでも

ある記念日なのです。一年の記念日のサイクルの中で、神は自分の中にある記憶=死んだ人で生きていた残骸を毎年教えてくれます。それがダビデが語った詩篇23の”義の道”神の記念日の

サイクルを生きるそのものなのです。

 

その包皮=本当の自分を生きる妨害をしている過去に培った

記憶=習性、生き方のパターンを自分が気がつき、取り除く作業があるのです。神の声の下に来て、神が語る事、神の時の中で

聞くと言う事が何なのが分からないと、周波数が外れた場所に

いるので、語られているのに気が付かない事が起きるのです。

自分には関係ないと考える=その状態が周波数=神の言葉、

教えを聞く場所から外れている状態なのです。

 

そうすると、成長がない、変化も無い。何年経っても同じなのは、神が教えている事を自分がキャッチして、実際に生きて

いないと言う単純な理由なのです。

 

続く