古代ユダヤ人の耳に語られた言葉の意味は | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書に書いてあるのは、1体の神です。神=言葉です。

人も一体として造られています。全ては神の中に永遠の中に

造られているのです。

言葉の神とは、ヘブライ言語で表されているからその事実が

分かるのです。ヘブライ人なら誰でも理解している事実。

その内容を異邦人だから見えないだけです。言語の意味が

分からない見えないのは教えられた事が無いからです。

 

神を愛します〜と言って、同時に神の言葉は律法で、呪い、

恵が無い生き方なので神の言葉は拒絶、却下!否定します!

あなたの言う通りには生きません!と言う宣言、教えが主流ですが、そんな事はあり得ない事なのです。その発言は最大限、非常に非聖書的思考回路、教えなのです。

 

神ご自身の性質を、異邦人が呪い廃れたと言う旧約聖書の中で

神の言葉、聖書の全ての定義、解説をしているのです。

 

クリスチャンも、トラーを捨てたら、愛、恵、罪、救い、

贖い、許し、祝福etc聖書に書いてある全ての定義、根拠を

失うのです。福音書〜黙示録は実は100%トラーが書かれて

いる事に全く気が付いてないだけなのです。

 

出エジプト34:6 主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、

あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、

34:7 いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」。

<義なる神は、不正を見逃さず介入し、解放する神。ズレを生きる事を選択する場合には、キッパリした決着を必ずつけてくださる正義の神。>

 

神=言葉=トラー=律法=呪い=恵無いと言う方程式を

異邦人が勝手に推測で作っていて、これは神の言葉、聖書に

解説されているイスラエルの神=神の言葉の性質=一体に

照らし合わせたら全く成り立たない人の作った教えなのです。

 

初めからイスラエルの神と神の言葉に対して、全く誤解した

スタート地点から神の言葉を眺める、考えるずれを教えられて

しまっている事に全く気が付いてないと思います。

神学を土台に考えて、さらにオリジナル聖書から直接学ぶ事が

皆無だからです。

 

聖書に基づくと聖書=神の言葉は人間の教えと全く逆を教えて

います。1体、エハッドと言う神の性質、神の言葉の性質が聖書に書いてあるのに、その神の本質の意味を読み取っていない、

理解していない。神の言葉の意味を人間の考えに変換して変えられてしまった教えで考えているからです。

 

神=言葉=一体と言う事実をヘブライ語聖書、古代ヘブライ人の思索に語った神の言葉、聖書の読み方を学ばないから分からないままと言うのが本当の原因です。そして人が考えた教え=神学を

通して聖書を眺めるから、聖書に書いてある事実が、自分の目には隠されてしまうのです。

 

体の一部でも、”これは自分に属さないから要らないから切り捨てよう”などと発想、考える人がいるでしょうか?まあたまにはいますね。必要ないから、自分ではないから切り捨てよう、

別物になろうと。

でもそれは神が創造された被造物として不自然な事です。

なぜなら、神の性質、デザインの性質は、シャローム=丸ごと ホールネス、シャレム=完全、完璧な姿、それが神の創造だから、人が手を加えられないものだからです。

 

一体と言う言葉で表されている神の性質が聖書に書かれていますが、その言葉、エハッドと言う言葉で、神と神の言葉、

これもぴったり一体である事実がヘブライ語聖書にはクリアーに

書かれているのです。神の言葉が不必要、変化すり替わり、

70%は終わりと言うなら神の実態の70%も終わりと言う意味になります。

 

イザヤ40:7 主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。

40:8 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

 

とこしえ〜オラーム〜あなたが存在する限り、空に太陽が

有る限り〜変化ないと書いてあるでしょう。

どうして書いてある通りに聖書を読まないのだろう?と

疑問に思い、聖書を探り神に問う。神の言葉の事実だけ、真実の点と点をずっと繋げれば、必ず真実に気がつく時が来るのです。

 

救い主を信じる、信じないに関わらず、ヘブライ語聖書を知る

ユダヤ人は決して、西洋人異教徒、異邦人の様な分断、

2つ、別々と言う思考回路を聖書に対して出来ないのです。

なぜ?そんなコンセプトが全くオリジナル聖書には書いてないからです。エハッド=一体=永遠=オラーム=神の創造が

消滅しない=だから神の言葉も消滅しないとオリジナル聖書には書いてあるから。

 

だからユダヤ人は異邦人の語る、救い主像やイスラエルの神像

神の言葉に対しての主張が聖書からズレているので、別の異教の神の宗教の話だと考え、神の言葉を曲げる、神の教えを否定する、その様な冒涜を平気でする異邦人の教えなど聞くのは危険と考えているのです。

 

それらの理由から、そんな異教の神=異端の教え=福音書以降は読まない!と固く決心しているユダヤ人達が大勢いるのです。

裏切り者の行為と考えるからです。だから福音書〜黙示録を

もし読むと言う場合は、絶対に隠れて読むそうです。

 

ユダヤ人も救い主が来られる事を期待し、待っている。

2000年前に来たあのお方がそうだと考えていない人が

いるけれど、その理由の1つは異邦人の語るイスラエルの神

救い主像が聖書とは違うものである事。もう一つは迫害の歴史の事実ユダヤ人迫害、トラーを処分し捨てさせ、神の教えを生きる事を禁じられた歴史の中で負って来た傷があるから。

 

つまり聖書とは異なる異邦人が歪めたイスラエルの神像=教えが人につまずきを与えるのです。ユダヤ人に限らずですが、特に

オリジナル聖書を知るユダヤ人には大きな躓き、神に対する

冒涜〜そしてユダヤ人迫害を先導する教えとも考えていて

”まやかしの宗教”としか映らない教えだからです。

どんな教えでも、神の語る真実ではなければ、どの道人を必ず

誤り、誤解へ導いて行ってしまうのです。

 

父=子=一体。人は一体に造られた。

神を愛する=神の造られた本来のエッセンス=神の言葉=教えを

生きるのが神が造られた人間のデザインである事を聖書に

書いてあっても見過ごしているのです。

神=言葉、切り離して考える、教える神学の教えは聖書とは

全く本質が違うものなのです。

 

ヨハネ1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

これをヘブライ語で読めば、神=言葉、いや翻訳でもそう

書いてあるから分かるはず。でもコンセプトが分断思考だと

神が語る性質=神=言葉=一体と言う真実が見えないまま通り

過ぎてしまうのです。

 

1:2 この言は初めに神と共にあった。

イエシュア=トラー=父の言葉=シナイ山の婚姻契約。

イエシュア=人間として肉体を取る、トラーがパーソニファイド

=人間の肉体として具現化して現れたと書かれているのです。

つまりイエシュアの生き様100%=トラー=父の言葉=シナイ山で与えた婚姻契約=神オリジナルデザインの人の生き方=で

あると書かれているのです。神の言葉の事実だけを聖書から

読み取り続ければ分かります。

 

ヨハネ1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは

父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに

満ちていた。

 

言葉=ロゴス<ギリシャ語>=ダヴァル<ヘブライ語>

ダヴァル=メムラ=言葉=トラー。これを読んだヘブライ人は

どう考え受け取るのでしょう。創世記の最初”はじめ。

言葉の神が言葉で世界の全てを創造された箇所と繋げるでしょう。

そして、言葉=神ご自身=トラーの実態がわたしたちのうちに

宿る。荒野での”移動式”神の宮=ミシュカンを取り囲んで

生きた。神の臨在が人のうちに宿っていたあの荒野での40年の事実を考えるのです。40年の間、奴隷思考切り替え〜神の言葉

教え=トラー=本来の人間の性質を生きる、神の言葉、教え〜

トラーを生きる再学習の40年。

 

神の臨在が直接目で見える、耳で聞こえる、五感で体験出来た。

同じあの臨在、人の生き方を丸ごと教えられたそのお手本が

今度は人の体を持って現れイスラエルに生きた=イエシュア。

その言葉の神は、トラー=神の教え、言葉、インストラクションの中で、全てを語った。全部繋がるのです。

 

その言葉の神=トラー=イエシュアが肉体を取って地上に現れて、イエシュアの言動、行動、生き様全て、イコール、神の

言葉=トラーの具現化と言う解説なのです。神の似姿に造られた

オリジナルの人間が生きたらトラー100%を生きる。

父の言葉を生きる=イエシュアが聖書に書いてあるのです。

 

 

続く