神の伝える神の創造された世界 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の創造は6日の間で全部完了と聖書に書かれています。

その6日の創造の作業の中で全てが完成されています。

後から付け足されたものはない。完了状態だから。

創造物や人に必要な生きる全ての指針も6日の中で完成されて

います。後から飛び出す、新しい教えも無い事が書かれています。

イエシュアもアヴラハムが生まれる前=永遠の中に存在していた

一体の神。父と子、どんな名前、性質でイスラエルの神が紹介

されても、それは1体=エハッド=1つ以上で完全に1つ=一体である不可思議な理解不可能ですが、それが神の性質と書かれています。

 

異邦人には、ヘブライ思索、ヘブライ語で書かれている1体の

コンセプトが抜けています。分離、分断、2つ、別々と言う

異教徒思考回路の神学を土台に聖書を聞いているから、神の教えは分断、神は時代ごとに人との関わりが違う、神の性質が変わると、聖書とは違うイスラエルの神像を本気で信じ考えているのです。

 

最初から神の性質はエハッドであり、人の性質もエハッドと

書かれています。

全人類は1人の人から出現した事実は誰にも曲げられない

でしょう。それが神の創造だからです。

 

何百人も人種に従い、個別に人間を造ったのでは無いでしょう。一人の人=アダムをアダマ=土から取られて、神の息=霊=

ルアフを吹き入れて生きるものとなった人間。そのアダムから=エッセンス=骨を取り出しエバが造られた。人の性質=一体性が書かれています。

その聖書に記載されている事実からズレない。神の言葉が永遠に不変、神の創造も永遠に不変である、その事実から全てを見ると神の言葉と人の教えの違いに翻訳聖書の中でも気がつくことが

出来ます。

 

時代ごとに、神が小出しに教え助けを出すとか、又は助けを

控えるとか保留しているとか、人種により、時代により神は人と別の関わりをすると言う思考回路は、非聖書的であり、どの時代

どの人種性別にも関係無く、同じ対応を神は人にされています。

神は見られる=人の必要を見て無視する神は聖書の神では無い。

 

ミステリー、秘密を神は人に知らせないで、時代ごとにつまびらかに明らかにして行く神と言う解説も異邦人思考です。

聖書に全部書かれている。人に最初から口頭で全て必要な事を

神が伝え続けている。同じ内容の神の教え=言葉=トラーなのです。

 

異邦人解説のその根拠=元がギリシャローマ哲学であり、

秘密結社にある秘密を考えていますが、もちろん秘密にしている訳ではなくても、そのグループの中に居る人にしか分からない

内容があると言う事です。

 

詰まり、神の言葉を聞いて、意味を知り、学び、それを実際に

生きることに行動を移す、神の言葉を生きる事に参加する人に

だけ理解出来る世界があるのです。これはどんな分野でも同じ

真理でしょう。

聞いただけで、実際に生きないなら、やらないなら分からない。

神の教え、言葉は実際に生きる、実技、訓練、練習の世界が

聖書には書かれているのです。ヘブライの世界は生きる!が

教えの中心。ギリシャローマ哲学は、思想だけの世界。

 

でも外部の人には理解出来ない。神が秘密を隠しているのでは

なく受け取る側が盲目で理解出来ない、耳が閉じられているか、いずれも人の側の状態の問題なのです。それがイザヤが言った、頭脳が鈍くなり、脂肪に塞がれた重たい耳、自分基準の価値で

盲目になっている目。自分の考えを高く評価し過ぎて他に考えられない、考え直そうとも発想出来ない、神の教え、言葉が目に

耳に貫通せず、入らず、頭脳に届かないと書いてある

警告なのです。

 

聖書に全てはクリアーに記されていますし、エデンの園から神は同じ教え=神の言葉=トラーを伝えてきたからです。

 

6日目、全てが造られた上で、最後に人が造られました。

人のためにこの世界の全てを神が造られた事実が

記されています。そして、神の似姿に造られた人が、神と同じ様にこの世界を治める様に、人にその役割を託されました。

神の造られた世界を、神が教える通りにガードせよ!

どの様に?神の言葉=教え=トラーに書かれた事に沿って

生きよと初めから教えられているのです。神の教え以外の教えにすり替えるなかれ、取り入れるなかれとも警告されている。

それが命の木と知識の木で教えられています。

それが一番安全に守られて生きれる状態だからです。

 

全てはシャバットから生きる事実が書かれています。

人が造られてまず体験したのは何だったのしょう?

 

”シャバット”神との時に入った第七日目を生きる経験したのです。神と人と向き合う、神のデザインのエッセンス。顔と顔を

合わせ神だけを通して相手を見る関係の世界が書かれています。

人の生き方の根本を神の記念日の意味を通して教えています。

 

第七日目は、夕あり朝ありの記述がありません。神が造られた

時ではなく、永遠の時を表しているものでもあると思います。

しかも第六日目、人が最後に造られた時、トーヴメオード、

もっともはなはだトーヴ!と言う感嘆が神の口から出たのです。

その上での完了。その後の第七日目がシャバットなのです。

 

これから9月、10月にかけて一年最後の神の祭りが来ます。

これは預言的祭りであり、収穫を祝う祭りでもあり、この収穫は人の成熟=神の人が集められる最後の時の事を表すものでもあります。そしてこの祭りもイエシュアを表すものであり、これから来る最後の時、新しい時代に入る内容を表している福音の中心でもあるものです。

 

この中身の意味を知り、実際に生きる中で、本当に様々な神との出会いの体験、そして多くの事を毎年教えられて行くのです。

収穫=新しくされた人が成長、成熟する事を表すものです。

水がワインに変わった経験をしたのは、イエシュアの言葉を聞いてその通りにした人と書かれているそれに繋がるものです。

 

シャバットは全ての記念日の中心です。その日に、神が全てを

完成されて止まり、人と共にこの日を祝う、神と言うお方が

被造物との関係に入った印の日として祝う事が記されている

のです。

 

このシャバット=第七日目を聖別しなさいと言われました。

聖別=神の意図通り、目的通り、世界とは分かたれた特別な生き方、時を過ごすと教えているのです。時は、区切られています。

シャバットはどんな日でも良いと言う教えは聖書では無いです。

その教えは、神の言葉を一番遮る証拠でもあります。

神の言う事を初めから無視してます!と言う宣言だから。

神は神の定め時がいつであるのか、記念日の時をはっきり

クリアーに指定して人に教えているからです。

 

”神の時”の中に人が生きている事実。そして神の時に対して

初めて”聖別”と言う言葉が最初に使われている事実に注目して

考えてみるのです。

 

神に聖別された人達は神の造られた時の中に神が聖別した通りに

その日を聖別し祝うと言う事実が記されています。

 

創造の業を止める。作業、創作、修理、仕事、勉学、雑用、

大掃除、大掛かりな作業。それらを止める。

でもアヴォダー=礼拝と書かれていますが、それらは止めない。

 

礼拝と言うと、集まって賛美したり、祈ったりと考えると思いますが、それはほんの一部の事、神への表現を言っているだけのものです。

 

礼拝と訳されている言葉は、生きる事全て=アヴォダーと言う

言葉で表されています。

”食べても、飲んでも、仕事しても、全て、何をするにも主に

向かってしなさい”とあります。人は神に造られた者であり、

神の意図通りにする、神の意図通り生きる、それが一番ぴったりだから。神の意図通り生きる=それが礼拝と訳されている内容であり、生きる=アヴォダーと言う言葉で表される本質です。

 

人が造られた神の意図からズレたら、ズレている。

神の意図通り=トーヴの状態で生きたらそれはぴったりフィット

心地良い生き方だからです。車にガソリンを入れるて走るものを代わりに違うもの、同じ液体でも違うもの=水を入れて走らせようなんて考えないでしょう。デザイン、構造、本質に反しているから。

 

そうすると、道徳的な事とは全く関係無い事でも、神の言われる事とずれていたらそれらは罪と書かれています。ここが異邦人にはピンと来ない内容なのです。神の言葉の重要さ、重さ、価値が

わからないからです。なぜ?ヘブル2章に説明されている通り

神の教え、天の国籍と先祖代々無関係に生きてきたからです。

 

続く