聖書の中に書かれている言葉、意味、内容に忠実に厳密に正確に
捉え、把握、理解しないと、聖書とは逸脱した間違いの理解
結論、教えを形成してしまい、聖書を正しく理解は出来なく
なってしまいます。これは人が語る言葉や、書物でも同じ事が
言えるのではないでしょうか?作者や相手の伝える意図通りを
受け取らなければ、相手が伝えようとしているメッセージは
自分には伝わって来ないし、相手の話を誤解すると言う問題が
生じるのです。これは日常茶飯事に起きている事ですね。
相手の話を注意深く聞いてない、理解していない。
聖書のある箇所だけ、前後左右の内容から切り離し取り出して、前後関係の意味、内容、論点、意図、脈略、文脈を無視して
考え、只々言葉尻の適用を求める事が多いですが、先ずは
何より、聖書の中に何が書いてあるのか?何を意味して書かれているのか?と言う事実を、聖書に書かれている言葉の意味通りに
正確に捉える事です。
その書の全体を先ずは把握する。背景、書かれている内容、
どんな設定で何が論点であるのか?などなどの情報と、忠実な
正確な学びが必要なのです。
そして、世間に伝統で流通する聖書の性質、事実に反する
西洋神学の教えを通して聖書を決して読まない事です。
神学の細かい内容は知らない場合は、ただ一点、神の言葉が
2000年前で廃れた、破棄された、終わったと言う俗説、
意味の無い虚しい哲学、作り話を永遠のゴミ箱の中に入れて削除
消去する事です。神の言葉は創世記から黙示録までどこも矛盾なく、相反する事1つもなく、同じ真理、真実、内容を語り続けているからです。この聖書の基本の事実、永遠不変の神の言葉と言う真実が見えない、盲目状態なのは、人の教えと言うおおいが
かけられているからです。
この俗説、人造の教えが神の言葉の真実を覆い隠し続けている
事を今世界のクリスチャン達も突き止め始めているのです。
どうして?聖書に書かれている事、オリジナルのヘブライ語の
聖書をヘブライ思想で学べば、聖書の真実か?それとも聖書では無い、偽物の教えかが明らかに分かる時代に来たからです。
今まではそれが出来ない、調べる術がなかった、ユダヤ人のラビや教師、トラーを知るユダヤ人イエシュア信者教師達から聖書を
学ぶ、教えて頂くと言うことは全くなかったからです。
それはユダヤ人はローマ帝国により、黙らせられて、そして、
トラーは永遠!と言うものなら、ボコボコに叩かれ殺された。
又は、異端の教え!と言われ続けた時代を通過したからです。
いや4世紀から中世は、トラーを教えたら実際処刑されたのです。反ユダヤ主義でも分かるでしょう。ルターもユダヤ人を
憎むように人に晩年教え、彼の書物のおかげで、ヒットラーが
確信を得て、ユダヤ人全殺戮計画をし、ホロコーストを起こしたのですから。ルターは純粋にユダヤ人はサタン!と考えたのだと思いますが、ルターの様に人に教える立場の人が、ヘブライの書
神のオリジナルの書=教え=トラーを知らないと言う弊害は大きいものであるのです。多くの人を誤りに導いてしまった。
多くのユダヤ人が殺害されてしまった。
同等にローマ帝国の条例で、ユダヤ人のトラーは焼却され、
トラー教えたり生きたり、神のシャバットや祭りをしたら、
死刑を持って禁じられた事実があるのです。だからユダヤ人は
深く静かに潜行したのです。ユダヤ人イエシュア信者含め。
異邦人信者は、同化したのです。ローマ宗教の教えに同化して
しまった。処刑されるより、イエズス信じながら、トラーを生きなければ良いだけさ!と決着を付けた。でもユダヤ人はそんな事は出来ない事を知っていたから、散って行ったのです。
それらの理由故に、オリジナル聖書、ヘブライの書に書かれた
神が語った本当の言葉、教え、み言葉が語られない、教えられていない、聞けない、長い暗黒時代だったからと言うのが本当の
理由です。でももうその時代は終わりに来たのです。
聖書に書かれている通りに忠実に、人の教えのフィルターを使用しない。それにはオリジナルに書かれている事を解説、教える事が出来る教師が必要なのは当然の事なのです。
世間で何十世紀にも渡り解説されている神学を通して語る聖書
解説は、聖書の事実では無い逸脱した内容のものが多いのです。その逸脱した誤りの解説は、1つ1つ聖書に書かれた事実だけに基づき、検証して行く必要があるのです。
学校で国語や文学を学ぶ時、作者に付いての学び、作者の背景や生きていた時代や環境、生い立ちなど、様々な事を学びます。
それと同じ事を聖書を読む時にしないとならないのです。
作者に付いて、書かれた書の内容や背景に付いて詳しく知る事は神の言葉に対しての深い理解へ入る鍵でもあります。
個人個人の適用は、聖書に書いてある内容を正しく把握、理解して初めて可能になるからです。
ローマ 3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちはトラー=
とはっきり書いてあるのに、”トラー”は呪い、廃れた、無効になったなどもしパウロが言うと言い換えてしまうなら、聖書に書かれている事実と完全に辻褄が合わない事になるでしょう?
その場合はパウロの論点が何か?を正確に読み取れば良いのです。
ガラテヤでもローマ書でも、同じ要素が書かれています。
信仰による”義”のみ。神の業のみ。行いにより義を獲得すると言う意識、思考回路ではだめ!それは不可能だからです!と言う事が書かれているのです。行いにより義を獲得しようとするならこその場合は逆噴射受けます。ずれた意識で神にアプローチして
いるからです。
神のされた業、手柄だけを100%より頼み信じる人。
アヴラハムと同じ、信じるだけで義とされた事実を根拠に生きよ!と言う事。そして義とされた人=神の家族に加えられた人は、神の教え=トラーを生きると書かれているのです。
義の姿、生き方の詳細=神のデザインした人間の生き方が丸ごとトラーに書かれているからです。これが本来の人間のエッセンス
本当のあなたの性質ですよ!だからその性質通りを生きなさい!と神が教えているのです。あなたはトラー=イエシュアの性質と同じにされているのです!と。だから復活の命とクリスチャンも言うでしょう?どう言う意味で自分はその言葉を口にしているのか?を考えて見る。イエシュア=トラー。義とされた新しく
復活の命に移行した=トラーを生きれる!
この違いを見極めないで、この2つの事を混同し、多くの人が
誤解している点なのです。
救われた=新生体験した人は、トラーを生きれる姿に戻っている!それが福音だからです。トラー=神の性質を生きる=喜び
=エデンの源泉に戻り、植わり生きる事を意味するからです。
トラーに反した事を生きたら、気が付かないままに不具合が
生じるから。神に作られた人のエッセンスと異なる事をしたら
不具合、悲しい、虚しい、物足りない、違和感生じるetc etc。
ローマ書の6、7章を完全に誤解している解説ばかりなので、
別の記事に何をパウロが議論し教えているのか書いてみます。
イエシュアが語られた言葉です。
ルカ16:16 トラーと預言者とはヨハネの時までのものである。
それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。
これを読んで即座に、”トラー、預言書”はヨハネが来たから終わりなのですと、書いてある意味を捉えないまま語られてしまうのですが、何をイエシュアが言っているのでしょう?
イエシュアが地上に来られた。福音の詳細は、トラー、預言書に
全て書かれているのです。イエシュアが書かれている。
ヨハネ、そして使徒達、パウロ。それ以降聖書は閉じられて
ここに書かれているトラー預言書を説明、教える様な聖書の
預言者は今居ないです。
詰まりイエシュアが、トラー預言書に書かれた約束のハ マシア
その方が来た!このお方が来た!道を備えよ!
道=あなたの頭脳を神の思索ぴったりに合わせ、トラー=
婚姻契約の命に生きる道に立ち還れ!と聖書に書いてあるのが
預言者なのです。
それを言う人=預言者が神の言葉を託宣する=ヨハネや、パウロ達で実際に終わりましたね。
なぜなら、聖書の預言は成就して、預言者を通して語られる事が1世紀までで終わったからです。
そして、聖書が完成し、閉じられた事でも分かるでしょう。
今も聖書に書かれている者と同等の預言者が出続けたなら、
聖書がずっと書き足し続けられないとならないです。
預言者が語られた言葉がそのまま聖書になっているでしょう。
パウロや使徒達の書簡で聖書は閉じられたのです。
ヘブル 1:1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな
続く