明日7月29日水曜日日没から30日木曜日日没まで、
イスラエルでは、”Tisha B'ave" アヴの月の第9日目の
メモリアルデーです。ユダヤ暦と西洋暦は違うので、この日は
毎年西洋暦では違う日になりますが、大体7月から八月の半ばに
来るのが、アヴの月、第九日目です。
この日に、イスラエルに置いて歴史の中で様々な悲劇が起こった
日なので、この日イスラエルでは人々は喪に服して一日過ごす
事をします。この同じ日に繰り返しイスラエルに大惨事が起こる
とは、偶然では無いです。神からの警告、訓練と、救出、そして
立ち返る事を否応無しにさせられる事でもあります。
これはイスラエルだけへの警告!と考えるなら、危険信号に
気が付かないまま行くと思います。全く同じプリンシパル=
考え、教え、方針が人類に与えられているからです。
このアヴの月の第九日に何が起こったのでしょう?
1伝統的に認識されているのは、約束の地に入る前に、12人の斥候が偵察に送られ、その内10人が約束の地に対して悪い噂
レポートを持ち帰り、人々の間に流した事です。神の目から見ない、神が約束されて与えられている、イスラエルがこれから所有する地である事を見ていない報告をして民を惑わした人達。
民数記13章
2 568BC、同じアヴの月の第九日に、ネブカデネザル王とその軍隊がソロモンの第一神殿を崩壊した事。
3 AD70年 同じ日に、第二神殿がタイベリウス ジュリアス アレクサンダーと、未来の皇帝テトスにより崩壊される。
4 AD135年同じ日にバルコクバと彼の軍隊がローマにより
虐殺される。これにより第二ユダヤ反乱が終わる。
5 同じ日に、ローマ皇帝ハドリアンにより、エルサレムが
異教の神々を拝む人の下に落ち、エルサレムが異教神の
支配下としての都市になり、エルサレムを”アエリナ キャピトナ”と名付けられ、異教神の都市がエルサレムの上に
建てしまった。
これらは古代の出来事ですが、現代にも同じ事件が同じ日に
起きています。
1 1905年、クルセード十字軍が起きる。
イエシュア信者がエルサレムを占拠したトルコに対して戦争を
起こす。トルコがエルサレムに居た人々を全て殺戮。
2 1290年 同じ日に、イギリスのエドワード国王が、
イギリスに在住するユダヤ人全てをイギリスから追い出す。
3 1492年、同じ日にスペインから、全てのユダヤ人が
スペイン国外に追放される。
4 1555年、パウロ4世教皇が、ユダヤ人全て、ゲットーに
閉じ込めらる事を宣言する。
5 1941年、八月1日、同じくユダヤ暦のアヴの月第九日目に、ドイツ大使が、ロシアに対して宣戦布告。第一次世界大戦が
始まる。
6 1942年、同じユダヤ暦のアヴの月の第九日、
グレゴリオ暦の7月22日、ヒットラーがワルシャワの
ゲットーに居るユダヤ人を、”Death camp"ガス室に送る。
ヒットラーのユダヤ人全殺戮計画の始まり。
ユダヤ人に取り、この様な歴史の大惨事が起こったので、
伝統的にこの日は喪に服す日として過ごします。
悲惨な出来事が起こらないように、国中が一丸となり、
イスラエルの神に祈るのです。
第一神殿が破壊された事を嘆く、”哀歌”を読み、預言者エレミヤに帰する書であるので、これを読みます。
ヘブライ語で、”哀歌”は、エイハと言います。
この言葉は、”なぜ?いかにして?こうなってしまったのか?”
これや預言書の警告、戻る、悔い改めに繋がる言葉でもあります。
何がどうなって今の様な状態になってしまったのか?考えて!
約束の民、婚姻契約の中に入れられて生きるようにされたのに
それから遠く遠く離れ、高き所=混ぜ物の教えに浸り、神の子らの生き方や姿からは、ずれてしまったイスラエル。
それは、個人個人の記憶の中にある、生まれてからの様々な
出来事、環境、育てられた周りの両親や親しい人達の影響、
そして自分の知らない先祖代々から染み付いて継承されて
しまった事。
高き所、異教の神々の要素、思考回路の根が植わる頭脳。
先祖から受けた影響は、全てが悪い事だけでは無いけれど、
ずれた生き方に到達したものは、悪影響を自分が継承し、
学習し、又選択し生き続けたから、その問題の根を探られる神からの”質問”。質問〜考える〜答えにたどり着くため。
そして、悔い改めと訳されている、”テシュヴァ”戻る=
シュヴァ=戻るとは神の中に戻る事ですが、神の中に戻ると言う聖書に書かれている意味それは、”婚姻契約”の詳細を生きることに戻る!と言うことが聖書の本当の”悔い改め”の
意味なのです。悔い改めて、ごめなさい!許してくださいと
告白するだけではなく、以前の生き方、ずれた生き方に決別し
神の示す、教え、インストラクション=婚姻契約=トラーに書かれた生き方に戻る!と言う事なのです。この事実が覆い隠されて、口で告白したら、その後一体どう言う生き方をするのが、
それぞれの定義の内容のになってしまっているのです。
WWYDの詳細はトラーに書かれていて、福音書に書いてあるものは、トラーのほんの一部の抜粋だから、人の生きる上での全ての詳細、全貌は福音書以降には詳しく書かれていないのです。
神の言葉=父の教え=イエシュア=トラーを捨てたら、どう生きたら良いのかの手引きを捨てたという事と同じだから、神の教える人間の生き方の詳細が見えないまま、手探り、自分の考え、
さとり、感と想像で生きると言う事になる。少ない手がかりを
元に福音書〜黙示録を読んで考えているだけと言うことになる
からです。
哀歌は詩の形式で綴られていますが、これは古代中近東の葬儀
葬送歌のスタイルなのです。
亡くなった故人の素晴らしさを回想し、失った者に対しての
悲しみを表現しています。これは、エルサレム、神の家、地上で神の栄光、臨在が宿る場所を異教徒に汚され、破壊され、かつての栄光、栄華、輝きも、希望も無くなって、ローマにより
破壊された神殿の残骸を目の前に嘆いているものなのです。
バビロンのネブカデネザル王とその軍隊に破壊された神殿と
共に、これらの破壊が”イスラエルの神”から、神の民へもたら
されたものである事を嘆いているのです。
なぜ?神の婚姻契約の教えを捨てて、異教の神々と混じり、
神の子らの性質に反した生き方をした結末がそれだからです。
これは、イスラエルだけでは無いのです。誰にも同じ事が起こる。世界に起きる出来事を通して、神は人々を”目覚めさせる”
引き寄せるために、困難を使っている事は明らかです。
続く