ヒレル、ガマリエル、パウロ、パリサイ派が教えていた
聖書の解釈、理解、読み方をイエシュアもそっくりそのまま教えている事が福音書にも書かれています。
Biblical hermenuutics、解釈学と言われますが、聖書を理解、解釈する公理、原則、ルールに関しての様々な知識です。
聖書は勝手に、適当に理解するものではなく、書かれている
”言葉”の意味意図、文章構成や、聖書の書かれ方、書の形態が
ナレーションなのか、歴史の記録なのか、詩的表現が使われて
いるのか、その他文章のジャンルにより、その中で書れている
形態の意味を理解しないと、真相が見えないのです。
又ヘブライ語の文章の性質なども知る必要があります。
日本の俳句や古典文学を知るのと全く同じ。
法則や書かれ方、言葉の使われ方や文章の書き方など。
例えば、同じ事に関して、2度平行に違う言葉や文章で
解説されているなど、ヘブライ語の文章の中によく見かけます。注意して読んでいれば翻訳でも気が付きます。
それだけでなく、聖書を知って行くと、同じ出来事が別の人に
より繰り返しなされていて、その中に福音の真理が深く刻まれている事実があるのです。ヘブライ語だと全く同じ言葉で書かれているので、比べやすいです。創造の最初と、ノアの箱舟の洪水の事件も重なっている出来事として読めます。これは長い解説が
必要なので今は置いておきます。
そして、他では、例えば、文法や、言葉、釈義。
ヘブライ語のある言葉や数字や慣用句、文字が何を意味して
表現し、書かれているのか? これは、現代の日本の文化の
日本語の世界に直接当てはめて考えたら、全く意味が見えない
違うものになってしまいます。だから、翻訳を読んでいても
分かったようで、意味が分からないと言う多くの箇所があるのです。その時代、その国の文化に住んでないければ、分からない!と言う事が多くあるからです。
なので、古代ヘブライのその書が書かれた時代で使う意味が何か?をまず知ると言う基本をきちんと捉える事です。
同じ現代の外国語同士でも、英語から直接日本語にしたら全然
意味をなさない言葉はたくさんあるのです。
日本語の中でも同じです。
例えば、受け入れがたい、信じがたいと言う事を聞いた時
”うそ〜!”と言うでしょう?それを以前祖母に言った事が
あったら、こう言われました。
”おばあちゃんは嘘なんか言いませんよ!”と本気の本気で、
返して来ました。皆爆笑しましたが。慌てて、”嘘って、本当?て意味なんだよ。”と説明して上げました。
そして、”悪い”と言う言葉は悪いと言う意味であるのですが、
英語の世界で、"bad"と言う言葉を、”すごい超素晴らしい!”と
言う反対の意味に使う事があります。
若者の中の流行り言葉、慣用句でもあるのですが、学生時代に
その当時流行っていたブランド<高く無い>のサンダルを履いていたら、”That's so BAD!"と友人の中学生の弟に言われて
”ええ?何で?これ今流行ってるじゃん!”と反応しましたが、
友人が”すごい良い、クールかっこいい!”て意味だよと教えて
くれて納得。
その言葉がもつ本来の意味では使われず、違う意味を持たせて
使われる”慣用句”や”スラング”が聖書にもあるのです。
又は、箴言の中で使われいてる”たとえ話”と言う言葉は、
イエシュアが1世紀のパリサイ派の教え、当時誰でも
知っている”アガダ”賢人達が語り継ぐ”たとえ話”とちょっと
意味が違う、そう言う様な事があるのです。
そして、ヘブライ語の言葉の性質、文字の構成や、似た発音で
別の意味の言葉は、エッセンス=要素を共有しているとか、
ある言葉が意味するもの、同じ言葉でも使われ方により、
裏表逆の思想を語る言葉、言葉の最初や最後に付ける文字、
意味が表されている数字、様々な文法などの法則。
聖書の中から実際に神の言葉をどの様に生きるのか?ハラハ
の引用など様々な要素が書かれていたりと、それらの情報、事実を元に、忠実に聖書を解釈する方法をパリサイ派で教えていた
のです。
ユダヤ人のラビの中で、パウロが言った事と同じ事を話している人がいます。
”幸せな人とは、何を多く得ているとか、少ないと考える人ではなく、自分の与えられた事で、十分幸せ、感謝して満たされている人”と教えるのです。
これって、パリサイ派の教えを引き継いだパウロも同じ事を
言っています。
ヘブル13:5 金銭を愛する生活をしてはいけません。
いま持っているもので満足しなさい。
詰まり、パリサイ派の中で教えていた聖書のエッセンスを、
実際の言葉で表したらそう言う表現になると言う事です。
パリサイ派のラビ達の教えが継承されて伝授されているのです。
パリサイ派=神の言葉を神の意図通りに取らえて解釈し、
教えていたと言う事でしょう。神の言葉からずれて考える人も
パリサイ派の中にはもちろん居たでしょうと言う事なのです。
これはパリサイ派だけでなく、現代のクリスチャンでも、どんな
グループに属していても、皆が同じ生き方をする保証では無い。
一人一人個人個人、神の前に神の中に、頭脳に割礼が無い肉の
生まれつきのまま生きたら、どんな状態にもなると言う事でも
あるでしょう。
何々のグループに属するから、ずれていないなんて決められない。個人が神の前にどう生きているの?これだけが問われているのです。でも、個人だけではなく、必ず個人の生き方は一体で
ある周りの人達へ影響を与えて行くのです。だから隠れたところでやってるから、誰にもバレない、分からないさ!誰にも影響
与えないさと思うけど、闇でやった隠されているものは必ず
現れ出るし、臭いは隠そうとしても環境に出るから隠せない。
逆に、キリストのエッセンス=神の言葉、教えを生きる人は、
キリストのかぐわしい香りがして、そして光が輝き出ると言う
神が語る真理でもあるのでしょう。地の塩、世の光。
1世紀の当時の聖書解釈のやり方は7つありました。
その内の1つ、ヒレル、ガマリエル、パウロ、イエシュアも同じパリサイ派の教えから話されている事が書かれています。
その中の2つを書いてみます。
1”カルベホメル”と言う手法です。
マタイ16:2−3
2イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、
『空がまっかだから、晴だ』と言い、
3 また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、
時のしるしを見分けることができないのか。
小さな事実から、大きな事実に繋げて考える事です。
これは、パリサイ派で教えられている方法です。イエシュアが
パリサイ、サドカイの人に向かって話している下りです。
そして、もう一つは、同じトピックに付き、別々の箇所に書かれている事は、内容が一致しているので、同じ意味で適用出来る
解釈出来る事を教えています。
2 ”ゲゼラ シャヴァ”と言います。
例えば”ビ モアドウ”=בְּמוֹעֲדֽוֹと言う言葉=定めの時の中で、
定めの時=レビ記23章の神の記念日の事です。
民数記9:2は過越の祭りの事を語っています。
「イスラエルの人々に、過越の祭を定めの時に行わせなさい。