1世紀当時、エルサレムに7つのパリサイ派のスクールがあった中、5つがベトシャマイ、2つがベト ヒレルだったのです。
パウロは、ベトヒレルで学び、パウロの教師がガマリエル
だったのです。ガマリエルの祖父が”ヒレル”です。ヒレルの設立した”ヤシバ”を孫のガマリエルが引き継いでいるのです。
シャマイは、ヒレル、ガマリエルと比べ、あまり慈悲深い人では無く、厳しい人だったとあります。イエシュアと道端で議論した学者達人の作り出した伝統の教え=”口頭トラー”に関して忠実にならなければならないと言っていたパリサイ派の人達は、
このシャマイのスクール出身の人達であったかもしれませんね。
例えて言うなら”お役所仕事”的思考回路。臨機応変の知恵、
対応をしない。割と冷たい。イエシュアと討論しているパリサイ派の人は、自分でもやらない事を他人ばかりに要求している事が
書かれていますね。四角定規に物事決まった形にしかしない。
相手の立場で物事を慈悲深く考えてあげない。
一方ヒレールはトラーの本質を、実践、実際の生活の中で人が
生きること、学んだ事を本当に生きる事、自分を人を生かす
生き方をする事、これが一番大事だと教えたのです。
これは100%トラーを違反しないで、トラーの真髄を生きる事を教えていたのです。だから、パウロ達は、使徒15章のエルサレム会議でも、ヒレル、ガマリエルの様な対応をしたのです。
人の伝統に固執しない、人が何より大事、でもトラーを違反、
捨てる、破る、否定するような事は決してしないのです。
実際にはどんな事か例を上げてみます。
ラビ シャマイの所にイスラエルの神、そして神の言葉をこよなく愛する異邦人が来てこう言います。”私もあなたたちの仲間に
して下さい。プロセライトして一緒に交わりに加えて下さい。
今すぐにそうして欲しいのです。”と言います。でも当時の1世紀のユダヤ人は使徒15章にあるように、それまでは異邦人とは
一切交流などしなかったのです。様々な複雑な学習や儀式を
通さないとメンバーの一員として認めない、一緒に食事もしませんと言う壁があったのです。そんな簡単に、色々なハードルを
超えないまま仲間になどなれないさ!と断るのです。
それがパウロがエペソ2章で語る隔ての壁を撃ち壊し、イエシュアにより、ユダヤ人と異邦人が1つに繋がれた”新しい人”とされたとあるものです。隔ての壁=人間の作った教えで人を分ける事です。だから19世紀に異邦人に作られた神学の教えが、聖書とは異なる事であるのが分かる聖書の事実です。
2つ別々のグループとして異なる生き方や記念日を祝う、
イスラエル、異邦人は互いに関わりを持たず、距離がある。
それをイエシュアが打ち壊したと書いてあるのはその事なのに、神学は2つのグループに別れたままであると言うのです。
どう考えても聖書とは違う事が分かると思うのです。
そして一方、ガマリエルの場合は、いいですよ!すぐに仲間に
なって下さいと受け入れる。但し仲間に加わってもらう上で、
必要最低限は、まず知らないとならない事がありますよと。
それが使徒15章のパリサイ派の人達を諭して、協議した決議案なのです。同様にパリサイ派も彼ら異邦人を仲間として受け入れるほど寛容な対応をする事に同意した事、その際にトラーを
知らない異邦人でも、最低限、神の目に罪、汚れである事が何かを教え、それら異教徒の習わし、生活習慣をユダヤ人との交わりの中に絶対に持ち込まないように教える責任があるので、
エルサレム会議が行われたのです。
考えてみたら分かるのですが、パリサイ派の中で、イエシュアを
救い主として信じて居た人達が居たと言う事です。その人達が
異邦人イエシュア信者を交わりの中に加えようと賛成してくれたのです。よく考えて聖書を読めば、真相が見えてきます。
当時ユダヤ人の30%以上もの人達がイエシュア=救い主と
信じたのです。
使徒15:14 神が初めに異邦人たちを顧みて、その中から御名を
負う民を選び出された次第は、シメオンがすでに説明した。
15:15 預言者たちの言葉も、それと一致している。すなわち、
こう書いてある、
15:16 『その後、わたしは帰ってきて、倒れたダビデの幕屋を
建てかえ、くずれた箇所を修理し、それを立て直そう。
15:17 残っている人々も、わたしの名を唱えているすべての
異邦人も、主を尋ね求めるようになるためである。
15:18 世の初めからこれらの事を知らせておられる主が、
こう仰せになった』。
<この箇所は、アモス9章からの引用です。彼ら1世紀の人たちはトラー、預言書に基づいて、全てを考えて判断しているのです。>
15:19 そこで、わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。
<1世紀当時あった、プロセライト=改宗儀式は、とても複雑で、難しい。ややこしい事をしては長い年月かかるから、
今すぐ仲間に加われる案を考えましょう!と言う事をする
寛大な人たち=パリサイ派の記録が書かれているのです。>
15:20 ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺した
ものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。
15:21 古い時代から、どの町にもモーセのトラーを宣べ伝える者がいて、安息日=シャバットごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから」。<古代の時代から=毎週トラー、預言書を1年、三年サイクルで読み続ける習慣。イエシュアもしていた事。受け入れに際して、ハードルを高くしないで、トラーを異邦人達も学ぶうちに、神の家に加わる人達の生き方を知って行くだろうから時間をかけて異邦人達に神の教え=トラーを教えて行けば良いでしょうと判断したのです。>
異邦人はこの4つだけ守れば、後のトラー=神の教えは無視!
破って良いですよなんて事を言っている訳ではないのです。
4つだけやれば窃盗、偽証も、不正、騙しも、姦淫もなんでも
好き放題、自分の判断でやれば良いなんて書いてあるわけが
無いことは誰でも分かりそうだと思うのですが、この4つだけ!後は異邦人は思うまま、気の向くまま、自分の判断でご自由に
生きて良いですよと勘違いた解説が一人歩きしているのです。
パリサイ派とは?
1パリサイ派の人達は、遠距離に住む弟子、生徒に手紙でトラーを教えていた。エルサレム付近に住む人以外、直接顔と顔を合わせてエルサレムのトラーの学びの拠点に居る教授達に会って
質問する事が出来ないからですね。それは、諸外国までにも
及んでいたのです。
2 パウロは、パリサイ派の教え、ガマリエルと同じく、人に対して慈悲深く、トラーの適用に対してフレキシブルな対応をしたのです。
ガマリエルの人となり、温厚なパリサイ派の流儀、教え、生き方を継承しているのです。
イエシュアの教えも同じです。イエシュアもパリサイ派の教え、
教育方法を取り入れているのです。だから”たとえ話”を通して、トラーを教えたと書いてあるのです。
これは、トラー=神の教えの真髄を曲げる!父の教えを変えると言う事では決して無いのです。ここを誤解していると思うのです。パウロはカメレオンの様に異教の地に行けば、トラーを破り
異邦人に対しては違う教えをすると信じられていますが、
100%全く違います。
使徒21章のナジル人の請願を神殿で立てた事実から思考を
離してはならないのです。これも当時のパリサイ派の人達の
習わしで、弟子や生徒の分までお金を支払い、教師が一緒に
ナジル人の誓いを神殿で立てたのです。
パウロが皆に対して払拭しなければならなかったのは、”パウロはトラーを捨てて別の教えをしている!”と言う街の噂が100%嘘!事実無根である事を証明するための請願をした記録が記されているのです。その請願が意味するところ=パウロは
トラー100%忠実に教え、忠実に生きている!と言う事が
書いてあるのです。
使徒21:20 一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんなトラーに熱心な人たちである。
イエシュアを信じたら、恵の生き方=トラーを破棄した生き方を
した人達など聖書の中に誰一人いない事が書いてあります。
使徒21:24 この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは<パウロ>トラーを守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。
21:25 異邦人で信者になった人たちには、すでに手紙で、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、慎む
ようにとの決議が、わたしたちから知らせてある」。
21:26 そこでパウロは、その次の日に四人の者を連れて、彼らと共にきよめを受けてから宮にはいった。そしてきよめの期間が終って、ひとりびとりのために供え物をささげる時を報告しておいた。
その聖書に書いてある事実を全く無視して、スルーして、
クリスチャンの間では、パウロはトラーを捨てて、新しい教えを作り出した人だと言う都市伝説が仕立て上げられているのです。
トラーを破棄せよと教える人が、神殿で”私は100%トラーに忠実に生き、割礼を施し、トラーの教えなに一つ違反する事を
しない、人にもトラーを捨てよ!と教えていません!”と言う請願を立てるのでしょうか?人の解釈、解説が聖書では無く、逸脱してメチャクチャな教えに変形しているのです。聖書の事実からだけ考える世界に戻らない限り、2種の種を畑=頭脳に植え続け、何が神の言われる真実か、どこからが人の教えなのか
混ぜ合わされて、見分けがつかないまま行きます。
聖書だけに忠実に戻らない限り本当にずっと二種の偽物の教えが、聖書なのだと本気で盲目的に信じ続けてしまうのです。
続く