創造主が存在して、創造主が全世界の全てを造られたと言う原点に戻る事がShabbatの大きな意味、エッセンスの一つでも
あります。
シャバット、週一度第七日目の神の造られた記念日の中には、
福音の原点が凝集されています。この日は2000年以降、
人がそれぞれ好む日に、それぞれの考え、判断でシャバットを
好きに決めていいと言う教えがありますが、パウロが神の記念日=レビ記23章、シャバットや新月、祭りに関して話しているのでは無いと言うことを知らないからです。あり得ない!
パウロはトラーを否定する訳が無い事が見えない。
聖書に書いてあっても見えないでしょう。
ローマ 14:5 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。
使徒21:20 一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に
言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんなトラーに熱心な人たちである。
21:21 ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。
21:22 どうしたらよいか。あなたがここにきていることは、
彼らもきっと聞き込むに違いない。
21:23 ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。
21:24 この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなた<パウロ>はトラーを守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。
21:26 そこでパウロは、その次の日に四人の者を連れて、彼らと共にきよめを受けてから宮にはいった。そしてきよめの期間が終って、ひとりびとりのために供え物をささげる時を報告しておいた。
パウロは100%トラーだけを生きている、トラーを否定した
事を教えたりやっていないと言う身の潔白をエルサレムの神の神殿の中で、生贄=コバーンを捧げて証明している事実に目が開かれたら目から鱗が取れるはずなのです。しかも、昇天以降神殿が
存在しているので、尚もイエシュアがおられた時と同じく、
宮に参り、シャバット祭りをし、コバーンを捧げているでしょう?神の宮での儀式は罪の仮の許しをするためでは無いからです。最初から誤解のスタートラインで聖書を読んでいるから
意味がクリアーに見えない、いやトラーの中身を知らないから
なぜ彼らがエルサレムの神殿でコバーンを捧げているのか
意味が分からないのです。
神の記念日は神に取り、人に取って重要な日である事が聖書の
至るところに書かれています。命に匹敵するほどの大事さ、重さ
重要さである事が書かれているのです。これをないがしろにするから、夫婦は、家族は、コミュニテイは、世界は壊れて行った。
一週間は7日サイクルであるデザインを人間は誰も変えることは
出来ないです。神がデザインされたから。第一日目〜第六日目を働いて、第七日目に止まると神が言われた事も誰も変える事が
出来ないのです。神は第七日をシャバットとして造られた事実を
人間が塗り替えていますが、それは出来ない無理不可能なことなのです。
イエシュアが来られるのは、この時代の最後です。神の記念日は、預言的神の業=イエシュアの業を表しているものでもある
のです。
神の言葉、神の時、これを誰も変えられないのです。
人は神に造られた者だから、神に説明される内容を素直に聞き、
それに生きるだけなのです。雨は天から降る。下から上へは
降らないでしょう。マナ=命のパン=神の言葉は上から来る。
人の中から湧き出てくるものとは異なるのです。
神が決められた事を人間が誰一人として変更出来ないと言う事実に戻らない限り、誤解が誤解を招き、混乱が混乱を起こし、
何が神の語る真実なのか、目の前に書かれていても読み取れなくなってしまっているのです。
本当に単純、シンプルでしょう。神の言うことに異議申し立て
色々変形させるから、混乱するのです。真実が見えなくなる。
パウロが神の記念日を人の判断で変えて良いと言っている、
教えているのだと考えるのは、パウロがトラーを教え、生きた事実を聖書から汲み取れない、パウロは処刑されてもトラーを否定する事が無いと言う事実が異邦人にはまるで理解出来ない理由は
エペソ2章の背景があるから。トラーに縁が無い、神の国、
イスラエルの国籍から遠く異教徒育ち、異教神の教えに根付いている、イスラエルの神の教えを聞いたことも無いから感覚的に
神の言葉を否定するのは、朝飯前ほどの軽さ、神の言葉を
いとも軽く、人の言葉以下ほどにも取り扱う意識だからです。
異教の神々とは関係も無い、契約、約束でも結ばれていない、
体験が無い世界だからです。
異邦人は、人の神学=2000年以降は新しい教えに切り替わったと言う聖書の教えとは全く異なる人の作った神学=伝統の都市伝説を聖書に戻り確認しないまま、鵜呑みに、人の教えが神の
教えだと本気で信じているからです。
出エジプト31章では、シャバットがイスラエルの神と
イスラエルの神を信じ、同じ”婚姻契約”の中に生きる家族になる
事に同意し、宣言し契りを結んだ人達、神と神の子らの”印”の日であると、シャバットの性質=神と人の繋がる事実が契約を土台としている家族である”印”の日であると書かれています。
出エジプト31:16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日=