今週28日木曜日の日没が、”シャヴオート”=ヘブライ語、
ギリシャ語でペンテコステと言う名が付けられている
”レビ記23章”に書かれている神の記念日がやって来ます。
この祭りは単独に取り出して祝うのではなく、神の記念日は全て網羅してワンセットで意味があるのです。
調べれば、分かりますがイエシュアがされた業、福音の中身を
網羅している教えの預言的祭りでもあるのです。
10の言葉=聖書に書かれている内容を凝縮して書かれている
題目ですが、十戒と訳されている言葉です。
1つの神の言葉の中に、10の項目があるものです。
その詳細の全貌がモーセの五書で記されています。
そして、預言書は、モーセの五書=婚姻契約からずれた生き方を
する人達への警告です。
その中に、”シャバット”を覚えて聖なるものとせよ”と言うものがあります。その”シャバット”と言う週一度来る神の記念日を
代名詞として、神が創造した人間に対して、”わたしの記念日”
なるものを、レビ記23章、民数記、申命記などで、
その祭りの詳細を書いているのです。
シャバットは神の創造が全て完了し、何も付け足すものが無く
なり、止まったと言う事を記念して祝う日なのです。
シャバットが全ての祭りの中心でもあるのです。
神の祭りは、シャバット祝う事無しには、祝う様デザインされていないからです。
神が創造し、人のために全てを造られて、用意をした。
救いも贖いも、恵も、祝福も全て人に必要なものを全部
準備して、この世界がスタートしたからです。
そして、人が神との特別な関係、関係の中でもっとも親しい関係である”婚姻関係”の究極の親しさの間柄に入った印である
記念日であると紹介しています。そして神の祭り=記念日を祝うとは、シャバットと同様に婚姻契約の中にある印の祭りなのです。婚姻契約の関係の中に無い人は、神の祭りを祝わないと言うことなのです。
詰まり、神の記念日、シャバットや祭りを祝う事こそ、世界とはダントツに違う記念日、印、イスラエルの神の子らの姿を、
福音の全てを生きて世界へ伝えるものでもあるのです。
だから、これらを忘れて、ないがしろにするならば、それは
命を失うと言うことに匹敵する重たいズレであると言う警告が
書かれているのです。神って怖い?いや、高速道路を300キロで走ったら危ないでしょう。危ないから危ないと警告するのが
普通の事なのです。神は神ご自身が造られた世界を人間へ
説明しているのです。人間はただ”聞く”だけ。シャマー。
聞けばその通りにするから、従うと翻訳されていますが、
聞く。神に聞く。神が説明する通りを聞いて、その通りを
生きる。至極シンプルなのに、人間が色々変えてしまうから
複雑な教えになってしまったのです。
それほど、神の記念日は重要な意味がある。あれと同じです。
知識の木から食べたら死ぬ。そんな事どうでもいいでしょう?
それ位?それが何か?食べる事なんて大した事でもなんでも無いのに、いちいち細かい事言うなんて!と考える意識と全く同等なのです。人間の悟り、肉の頭脳のままだと、神が語る世界の
真理が頭脳に貫かない=脂肪の頭脳、重たい耳=自分の教えを
評価、尊重すると書いてある通り。
”聞く耳があるものは聞きなさい!”とはそれなのです。
神が言うことを聞く頭脳、意識、態度、周波数ぴったりの場所
神の声の直下に来て、神の言われる通りを聞いてと。
シャヴオートを祝うと言うことは、シャバットを祝って
初めてシャヴオートを祝うことに繋がるのです。
それ以前に、過越、種無しパンを食べる週、初穂、穂を数える7週を過ごして、このシャブオートを迎えるものなのです。神の
言葉、教え、祭りを端折って飛ばしていると何を神が自分に教えているのか、分からない、見えなくなったままになるのです。
ちょっと考えると見えて来ます。神の記念日は全て神の業、
福音=イエシュアを表しているものです。
預言的祭りでもあるのです。
全ての業を6日間で完了した記念日。人と神とが関係の中にある
印の記念日。シャバット。
そして、神の祭りはどんな曜日でもシャバットとして止まり、
シャバットとして閉じる様にデザインされています。
イスラエルでは、シャブオートは1日です。
諸外国に居る人達は、2日間祝うことをしていますが、
聖書の暦では1日。ユダヤ暦シバンの月の第5日目です。
神の祭りは、シャバット以外毎年曜日が変わるので、日曜日から土曜日のどの日にでもなるのが聖書的暦です。
西洋宗教は、このシャブオートを必ず日曜日と変えていますが。
こう言う違いがどうしてあるのか、調べれば分かるのですが、
ローマ教皇は、神の言葉を変える権威を与えられているからだと主張し、教えていますし、文書にもなっています。
Lueius Ferraris Prompta Bibliotheca canonic Vol 1
”教皇の権威は、人の力ではなく 神の力であるため、彼は神の法<聖書=神の言葉>も変更する事ができる”。
これが聖書の神の言葉に基づく事実かどうか、一人一人が
確認出来る、明らかな事です。
”天の国の鍵を開ける、閉じる”権威を与えられたと書いてある
箇所を、誤解しているのです。ある人は、リーダーになったら
神同等の権威があると考える、そう主張する人もいますが、
それは完全に非聖書です。誰も先生と呼ばれるなかれ、父=神はお一人、父と呼ばれるなかれです。詰まり、神以外、人に神同等の権威など与えられていない、”時と神のトラー”を変更するのは、何者かと聖書に書かれている警告を見れば明らかです。
ダニエル7:25
プラス、ペテロは、ローマ教の初教祖と言うことになって祀られていますが、ペテロは法王でもなんでも無いです。
100%ヘブライのヘブライ、トラーを生きて、イスラエルの
神の忠実な使徒であり、神の記念日を神の暦通りに祝った
人です。
たくさんの誤解があるのは、ローマ教で作った伝統の教えを
聖書だと信じ込んで、ルターもトラーに迄戻る改革、
テシュバーをする事がなかったので、ローマ教の教え、教理を
ずっと今日まで、プロテスタント信仰の中に継承しているから
聖書の事実なのか、人が作った教えなのかを聖書に根拠を起き
確認しないまま、神の言葉と人の伝統の教えを一緒くたに混同していると言う理由に他ならないのです。
そうすると、この28日木曜日の日没が、シャブオートで、
金曜日の日没にはシャブオートが終わります。
そして又金曜日の日没にシャバットがスタートして、
土曜日の日没30日にシャバットが閉じると言うこう言う
日程になっています。
このシャヴオート=週=weeks=過越から数えて7週後、
7回のシャバットを過ごし=穂を数える7週間を過ごした
後に来る祭りを、ギリシャ語ではペンテコステ=50番目と言う言葉で呼びますが、神学が作り出した教えで、”聖霊降臨節”と
言う製造名がありますが、この様な人間の編み出す教えで作る
造語が、聖書には無い、聖書の祭りの性質とは異なるコンセプトを人に与えてしまう要因になっているのです。
2000年、昇天以降初めて人が救い主を知り、聖霊が人の内に
住まったのでは無いことは、聖書を始めから読めば明らかに
分かります。
イエシュアを救い主と認識出来た人達は、聖霊が内側に住まう
新生体験をして居た人達、トラー、預言書を知って居た人達
だからでしょう。
太古から皆、義とされた事実=頭脳に割礼を受けて、神の目から
見ることを得ていた人達は、皆救い主をどの年の祭りの時にも
待望していたのですから。
そして、イエシュアの業の意味、その詳細を、実体験で神の宮
の中で、日々、シャバットで、又は祭りを通して体験していた
のです。
私達現代のトラーを知らない異邦人、レビ記に記載された神殿の中の様々な学習体験を知らない、意味を知らない人達より遥かに救い=イエシュアのされた業の意味を直にまじかに五感を通して体験的に学び続け、知って生きていた人達が太古からいるわけです。
預言書に書かれたイエシュアをまだ見ぬイエシュアを知って
ユダヤ人達はずっと生きていた。アヴラハムもダビデも
そうでしょう。
そして、現代は過去にイエシュアがされた事実を聖書を
通して知る人達は、同じイエシュアを体験している、アヴラハムが信仰により義とされたと同様に、内側に同じイエシュア=救い
の実態を受けていると言うことなのです。
続く