イエスさまが祝われていた永遠の神の記念日 祭りを祝う 過越の祭り | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

日本やイスラエル、ヨーロッパ、アメリカなど、世界中、友人、家族が居る場所が今、同じような状況で閉じ込められている

不自然な生活。人と交流出来ない、普通に社会、世の中がいつも通りに機能していない状態です。

生活の全部が強制的に止められてしまっている。

今まで体験した事の無い状況。

 

そして、実際に命に関して脅かされている状況です。

病気、失業、今までの状況、生活環境が失われて行く、

行動規制が敷かれている、出入り出来ない、行き来出来ない、

明日、未来が分からない。

自分が生きている、やっていると思っていた全ては実は

環境や条件が整えられて出来ていた、やっていた、生きていただけなのです。本当は全て、与えられて生きていただけ。

 

誰がこの世界を造られて、この世界に造られた人間は

どう生きるか?神の教え=インストラクションを全く無視して

生きている。実は本当はそれが危険な状態なのですね。

 

出エジプト、過越も同じくイスラエルと異邦人が実際に体験した事であり、この史実は福音の本質を表しているものでもあります。出エジプトの出来事は、イエシュアの救い、贖いを表すものでもあるのです。

神の祭り、記念日は意味があります。考えて、点と点を繋げれば分かります。イエシュアが処刑され復活されたのは、

過越の祭りの日と種無しパンを食べる週の中の出来事。

これは地上でも成就されました。

これから7週間後にくる、シャブオート<ギリシャ語=ペンテコステ>は、シナイ山で婚姻契約=トラーが与えられた時です。

使徒2章は、シナイ山の出来事の再来なのです。

全世界へ同じ神の契約が与えられている。

神のされた業=贖い、救い、新しくされ、神の民と

された事が神の口から宣言されています。

 

永遠から永遠に変わらない神の言葉。変わると考えるのは

都市伝説=人の昔からの言い伝え=人の教え=哲学神学を信じるからそう考える、信じている。でも、聖書には何と書いてあるのか?だけが意味があり、真実なんです。

永遠普遍の神の言葉。言葉=トラー=イエシュアと書かれているからです。

 

人は神の創造物、言葉そして神の記念日をヴァイオレートして

来ました。それが預言書の警告でもあります。神の言葉と神の時=記念日を変える。荒らすいむべきものとは、神の言葉に手を

加え、違う教えに変身させてしまう事です。

 

出エジプトをする最初のモーセのファラオへの懇願は何だった

のでしょう?

出エジプト 5:1 

その後、モーセとアロンは行ってパロに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『わたしの民を去らせ、荒野で、わたしのために祭をさせなさい』と」。

5:2 パロは言った、「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか。

わたしは主を知らない。またイスラエルを去らせはしない」。

5:3 彼らは言った、「ヘブルびとの神がわたしたちに現れました。どうか、わたしたちを三日の道のりほど荒野に行かせ、

わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。

そうしなければ主は疫病か、つるぎをもって、わたしたちを

悩まされるからです」。

 

 5:17 パロは言った、「あなたがたは、なまけ者だ、なまけ者だ。それだから、『行って、主に犠牲をささげさせよ』と言うのだ。

5:18 さあ、行って働きなさい。わらは与えないが、なおあなたがたは定めた数のれんがを納めなければならない」。

 

突然書いてありますね。”祭り”と。しかも、異教の神々に仕える人たちには、シャバットや祭りで休む事は、”なまけもの”

映るのです。異教の神々に仕える人たちは、主人に、神々に

あらゆる犠牲をはらって働き続ける、休まない、止まらない、

活動し続けて神々にアピールする、アピーズ=許しを請い続ける、それが偶像礼拝の本質である事が聖書には書かれています。

 

でもイスラエルの神=ヘブルの神=創造主は、人に止まり、

休み、神の地にもたらした収穫物、祝福を食べて、飲んで、

共に喜び、楽しみそしてどんなに創造主が良いお方であるのか知るためにとまで書いてあります。

神殿=神の宮でコバーンの動物、羊や牛などが捧げられた後、

それをバーベキューにして、祭司とそして皆と家族と

頂くのです。過越の祭りも同じです。

 

最初から、永遠の中からレビ記23章の祭りは存在していたからです。

詳しく書かれるのは、モーセの五書でモーセが書き記すまで

登場して来ませんが、エデンの園からシャバット、神の祭りは

創造の始めから存在していた。なぜそんな事が分かるのか?

神は”全ての業を6日までに完了した”と書いてあるからです。

もれなく、欠けなく、付け足すもの何もないと言う意味で

書いてあるからです。

全て=全部=人が生きる全て=その中には神の記念日も

贖い、救いの業の全てもちゃんと入っているからです。

西洋宗教の教えでは、途中から救いや贖いや神が人の中に歴史の途中から住まう様になったと教えますが、オリジナルヘブライ語聖書に戻れば、何が書いてあるのかはっきり見えます。

途中から出てくる、神の業や救いなんて無い。始めから全部

用意されています。そして変わらない。人種により、時代別に

異なる性質の神の救い、神の教えなどない。

永遠から永遠に普遍=同じ。

福音の全貌は聖書の最初の何章の中で全部書けないでしょう。

いや最初の3章の中に、聖書のテーマの全てが書いてあります。

それ以降は、全て3章に書かれた内容の解説なのです。

 

エデンの園から出てきた後も、何の脈略もなく”ささげもの”

したカインとアベルの事が書かれています。

この捧げものは、レビ記や使徒の書簡の中で書き表されている

ものと同じ内容なのです。

永遠の中で全て繋がって話している。時系列上を焦点にして、

物事が聖書には書かれていないからです。

 

昨日書いた、イエシュアの業=わたしたちのためになだめの

供え物になったなどと書かれている、その一つずつの種類の

内容、実態はレビ記に詳しく書かれています。

神の家=宮の中でイエシュアの贖い、許し、救いが全て教えられていたのです。

その事をパウロが書いているのですが、トラーが書かれている

事実が見えない、聖書は1つであると点と点を繋げられないのは、トラーを知らないからであると言う事が本当の理由なのです。トラーを知れば、福音書以降にトラーの何を語っているのか飛び出す絵本の絵の様に、トラーがそっくりそのまま飛び出して見えてくるからです。

 

イエシュアは、使徒はパウロは100%トラーの内容を話している、それ以外の教えなど書いてはない事実に戻れば、

福音書以降に書かれている事は、トラーの、預言書のどの話しをしているのか分かります。

 

なぜ神の祭り、記念日が大事なのか?

これは”贖い出された人がたどる”きよめのサイクルだからです。

ダビデが詩篇で説明している、賛美している、主の日、神の祭り、礼拝とは、それです。

 

トラーを知る人なら聖書からその事を知る事が出来るのです。

全部詳細がトラーには書いてあるからです。福音書以降は

ほんの短いバージョンでしか書いてないのです。トラーに書かれているから、同じ事を詳しくなど繰り返し書いてない。

そして、出エジプトの荒野の40年の旅。アブラハムやヤコブの

辿った道。全て、同じ意味なのです。

私たちも同じ。奴隷=別の神に繋がれていた事から贖い出されても、すぐには”神の民=最上の宝”である神の子の生き方が

分からない、馴染みがない、身についてない、

思考回路が以前の奴隷のままだからです。

新しくされた人は、神の子として偽の自己像を脱ぎすてながら

生きる旅路が聖書に書かれているのです。

 

 

続く

 

 

 

ペサフのマッツアをカバーする布。ピカピカ光って白くて

好きです。真ん中にペサフの三文字が書かれています。

 

過越の初日満月です。必ず神の祭りは満月になります。