解放を求めて 過越の祭りに向かい | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

4月に入りました。

イスラエル、ヨーロッパ、大陸続きの国の行動規制はとても

厳しいです。

皆家に閉じ込めらているので、当然皆在宅しています。

いつもはバラバラで忙しく、仕事や用事をしている人達が

皆同じ時間にネットの画面で集まる事が出来ます。

 

昨日はネットで毎週行われている聖書の連続講義に皆参が加していました。今までで一番多い数だね〜と。

懐かしい友の顔、世界に散る皆の顔を見て、皆で励まし合う、

神の言葉を聞いて、そして聖書の記述を学びながら、神がなされて来たこと、神が支配されている事を皆で思い出すだけで、

黒雲が消えて行く。

 

どれだけ人は弱い立場になるのだろうとも思いました。

自分はどうなって行くのか?と分からないから、不安になるのです。

当然の様に普通に生活していた事が一瞬にして変わってしまうかも。自分が頼み、当てにしている物は実は頼りにもならない

ものであり、まやかし。

結局、神が救出して下さる事を待ち望む以外に無いのです。

 

歴史書をずっと1節ずつ丁寧にヘブライ語の言語から直接説明しながら、毎週ちょっとずつ学びが進みますが、奥が深い、

内容が濃厚、聖書の意味の絵柄、図柄がそのまま飛び出して来る。

 

様々な情報、発見満載。意見交換、デイスカッションや、質問も出来るので、ネットの技術が本当にありがたいです。

画像、音声、クリアーです。一緒の部屋に居るみたいに。

 

細かい解説と、ヘブライ語の意味、同時に歴史や、地形や地図や

様々な情報、画像。

イスラエルの学校では、子供達は授業で聖書を学びながら同時にその出来事が起きた場所に社会科見学に行くことが出来ます。

何と恵まれたことなのか〜。

発掘作業で、聖書に書かれた事実が浮き上がり、聖書が証明

されて行くのです。

 

聖書を言語で知る人達に、聖書とは異なる、ずれた”西洋哲学神学”で救い主を語れば、それは嘘だと思われてしまうのは当然だと思います。本当の事を伝えなければならない。

 

今日は別の友人がレビ記の第2回目の講義をします。

ちょうどトラーの朗読がこの間のシャバットからレビ記に

入った所です。

 

ヘブライ語聖書の中身に何が書いてあるのかを学ぶ、知る、

聖書に書いてある事実だけに戻ると、西洋神学の主張が聖書の

事実と全く異なることが書いてある事にはっきり気がつけるのです。

ヘブライ語の言葉で表されている意味を知って行くだけでも、

2つバラバラのグループである事が非聖書的である事が分かる

のです。

しかも、神の修復の最終の目的は”1つ”一体=元の状態。

パウロの書簡を読んでも、それは書いてあります。

主に在ってとは、”主の中”にと言う意味です。

そして、1体と言うのは、エハッド=1つのことです。

主に在って=1つ主の中に、一体=エハッド=1つと

ずっとパウロも言い続けているでしょう?

 

隔ての壁を壊したイエシュアの業を、人の教えで再び隔ての壁

人を分け隔てし、1体である事実を2つに分裂させ、2つに作り直すとは聖書の語る真理では無いです。

2つバラバラな人類が、1つに戻ると言う事が聖書のテーマ

だからです。

 

神の修復の業は”全てを元どおりに”1つ。エハッド。

エハッド=神の性質でもある、全く1つ。1つ以上で

全く1つと言う意味の言葉=エハッドがずっと聖書には書かれているからです。1つエッセンス=アダマ=土から神に造り出された”人”を、元の状態=エハッドに修復する。

 

しかも、レビ記の”神の家”=神殿の詳細、コバーンの意味を

知れば、神の家の中で表されている事は、イエシュアそのもの

であり、神に近づきたいなら、どの様にすればぴったり神の顔の

前に来られる、近づけるのか。そしてイエシュアの業で一方的に”義”とされた人の姿の詳細を表されているものであり、

神が人の中に住まう事実とどれほど”人”の中に神が住まうことを願って説明しているのか事細かに書いてあるのです。

ちゃんと意味を知れば、素晴らしく、麗しい神の国、神の子らが

生きる詳細がトラーには書かれているのです。

 

2000年の途中から、贖い、救い、許し、神が共に人の中に

住まうことが始まったのでは無いことは、トラーを読めば

書いてあるので分かります。

 

歴史書、ついこの間は、エステル記でした。

プリムの祭りが3月9日−10日にありました。

この歴史背景は、ユダヤ人全殺戮から神が救い出して下さった

記録です。

ネヘミヤ記も、ネヘミヤがエルサレムの城壁を修復する記録ですが、ネヘミヤが出現する悪人達の企みや脅しに怯まず、そして

自分の利益を求めず同胞の労働者に対して彼らのために尽力を

尽くす神に立てられた人である事。

自分の神から与えられた使命をクリアーに理解していた事。

 

歴史の中には様々な事が起こります。

誰が何を企み、何をしようとも、神が支配しておられる事を忘れる途端に、恐れ、不安のるつぼに放り込まれます。

エデンから飛び出てしまう。神の目から全てを見る事を忘れない事でしょう。

 

人が励ましを受ける時は、やはり一番は、神の約束を確認し

神が何と約束して下さっているのか聖書から確認し、今目の前の出来事ではない、天の現実、神と言う全てを支配する創造主が

支配していると言う事を確認し、そこからブレない事ではないかと思います。

 

一旦、こうなったら、ああなったらと様々に次から次へと想像は、結局恐怖を生み出して行く事が出来ますし、こんなに前代未聞の行動規制、コントロールされる生活、又いつまでか分からないと言う状態。でも神はご存知でしょう。

そして助けを必ず与えてくださるお方である事は今日も変わらないはずです。

 

 

来週の水曜日から過越の祭りですが、イスラエルでも一緒に住んでいる家族以外、親戚なども集まれない事になっているそうです。

 

世界中が同じ様な環境になってしまったので、皆向き合う団結力も強くなりました。

昨日は聖書講義の前に、体を動かすことも少なくなってしまったので、ペサフ=過越の祭りに向けて”パン種除去掃除”開始をしました。

ほとんど物が少ないので、昨日は窓掃除をしました。

家にあるイーストは除去しないとならないものです。

隠れた場所に潜む、パン種。引き出しの中やら、棚の裏。

 

パン種除去掃除は、実は”自分の中のパン種”を除去する作業でもあるのです。

1つ大きな”パン種”今年ずっと様々な出来事を通して教えられて来た、新しい人として生きる事を妨害している死んだ自分=

主と共に葬られた自分の思考回路のままで生きている

その何かを教えられているのです。

掃除をしながら、それを発見する作業でもあります。

去年の仮庵の祭りが終わり、春の過越の祭りまで、神の祭りが

シャバット以外に無い冬の時期に、深く探られる時期が来るのです。

 

食べ物の教え=レビ記11章は、”あなたは誰か”=聖別と言う事に深くつながる、ぴったり繋がっている事なのです。

神の宮、神殿に持ち込めない動物は、神の宮である自分の体の中にも持ち込めない。私の体は神の宮、そして天の祭司とクリスチャンも言いますが、神の宮、神の祭司の定義、詳細は実は

トラーに書かれているのです。そしてその内容は永遠に変わらないのです。

 

物理的に、霊的に、見える世界と見えない世界はエハッド、

1体でマッチしている事は、聖書を読んで行くと見えて来ます。

 

しかも、神が造られた創造物。

そして、神殿の中にある様々な物や色や寸法も全て

聖別された”神の子ら”の性質、エッセンス、神とどの様に

向き合うかの全てが表されているものなのです。

 

続く