マルコ7章の続きです。
7:19でのイエシュアの主張は、レビ記11章の教えは終了で
ある、新しい教えを救い主が教えているのだ、トラーは終わりだ
呪いの律法は破棄であると解説されている証拠と言うのが、
西洋宗教の教えの中では主流な解釈だと思います。
パウロの書簡、ガラテヤ3章やヘブル書なども完全に誤解して
読んでいるからでもあります。
救われた人は呪いの律法の下にいない。呪いの律法=神の愛の婚姻契約の下に居ない。辻褄合わない事翻訳読んでも見えると思います。
別の話をしているのです。ガラテヤ3章。
律法主義=自分の行いで義を得ようとする事、その法則は
神の国の教えではありませんよ=呪いの下=神との本当の関係の中に居ない=別の意識、教えに縛られた状態のままですよ。
恵を生きるとは、神により一方的に与えられた義である事実を
神の命の実態=トラーに書かれた麗しい人間の生き方を生きる事だと書かれているのです。
”すべての食べ物はきよいとされた=と言う文章は創作挿入文
であり、原典には無いものなのです。
翻訳だと、原典を確かめない限り、何が本当は書いてあるのか
見えないです。自分の考え=神学をサポート、証明するために、人口創作言葉、文章を挿入、付け足し有りでも良いとするなら、”イエスはトラー=モーセの五書を終わりにした”と挿入も出来てしまうかもしれませんね。原典聖書では出来ませんが。
でも、モーセの五書の箇所のどの部分も削除、付け足し出来ない
読んで行けば、イエシュアがトラー=モーセの五書=父の言葉=シナイ山で与えられた初めの愛=婚姻契約=神がデザインされた
永遠に変わらない進化変化しない本物の人間の生き方=を話している教えている事は、はっきりクリアー、明らかです。
そして、全ての食べ物=タホー、タメー、きよい、きよくない
動物全てひっくるめて、今からは”きよい”=タホーとされたと
イエシュア がもし言うならば、トラーを否定し、父の言葉を
再定義したとするならば、それは本物の救い主ではない、
偽救い主だと、1世紀のユダヤ人信者たちは分かる、理解します。
1世紀の人達、ユダヤ人は、なぜイエシュア=救い主と分かったと思いますか?
トラー、預言書に書かれた通りの方が目の前に現れたから。
イエシュアがトラーを天の解釈で人に教え、説き、皆がその教えに驚愕したからでしょう。
人の作り出した教え=昔からの言い伝え=口頭トラーとは、
全く違う命の源がみなぎる神の言葉、産地直送そのままの意味を
解説して伝えたからです。
もし、トラーを否定する教えをイエシュアがされたとするなら
当時1世紀のユダヤ人達は、皆イエシュアが偽預言者だと
分かります。そんな偽救い主は聖書に、救い主として登場しないのです。
そのトラー、預言書=救い主が、自分でトラーを否定する
終わらせると言う発想自体が、異教神の世界の教えに影響されて
育った異教徒思想から考える事が染み付いている、神の目から見る見方が出来ない。イスラエルの神=創造主=神=言葉と言う
コンセプト、事実が頭脳の中に無いからなのです。
エペソ2章にある様に。トラー=婚姻契約、イスラエルの神の国の子らへの教えや教育、しつけ、習わし、習慣も何も教えられず、トラーから遠く離れていた異邦人=異教徒の親たちに先祖代々、異教徒思想を教えられて来た。イスラエルの国籍もなく、希望も無く生きていたから。
このマルコ7:19も大変に誤解されている箇所なのです。
創造主は、命の木からだけ食べなさいと言われたのに、
今からは知識の木からも食べて良いよと、神が矛盾を言うのと
同じ事になってしまいます。神は神の言葉、教え、人間の生き方はこうであると定義された内容を永遠に変えないのです。。
人間が進化変化しない。神が変化しないから。
姦淫するなかれと言われたのに、2000年以降からは何でも
ありだからそうしても良いと言うのと同じ事なのです。
神がロー=だめ!ロートーヴ=神の意図とはずれているものと
言われたら永遠にダメなのです。
神がトーヴ=神の意図通りと言われたらそれは、永遠にトーヴ
なのです。
その基準が変わると考えるのは異邦人育ち、異教神の国育ちの
証拠でもあるのです。神の言葉が=神ご自身=永遠と分からない。感覚的にも思索的にも分からない。
神の言葉を否定する、それはイスラエルの神の言葉では無い、
本物の羊飼いの声では無いと認識出来ないのは、
トラーを捨てよと教えられ、聖書をちゃんと自分で読まないから、神が何を言われているのか語られているのか?が、
読まなければ知るすべが無いので、何が聖書の真実の教えなのか見分けられない、分からなくなってしまったのです。
根拠=聖書に戻り事実を照らし合わせる事をしないからです。
しかし、もしレビ記11章は終わりと救い主が言う場合には、
聖書の記述、イエシュアの発言と、トラーを否定する教えが
辻褄が合わない事に気がつかないとならないのです。
イエシュアが語る言葉は、100%父の言葉=トラーぴったりだと
ずっと言っています。父の言葉=トラー。
ヨハネ5:36
しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力ある
あかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。
5:37 また、わたしをつかわされた父も、ご自分でわたしについてあかしをされた。あなたがたは、まだそのみ声を
聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない。
どうやってイエシュアについて明かされたのか?ちゃんと
書いてあります。トラー、預言書はわたし=イエシュアと言われたでしょう。その中の全てにイエシュアが書いてある。
5:38 また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言=
トラーはあなたがたのうちにとどまっていない。
5:39 あなたがたは、聖書=トラー、預言書、諸書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書=トラー、預言書、諸書は、わたしについてあかしをするものである。
イエシュア=本物の救い主であると証ししている書=トラーを
どうして捨てよと神が教えるわけがあるのでしょうか?
ちゃんとこのヨハネにあるイエシュアの語られる言葉をその通りに読めば、辻褄合わない事に絶対に気が付くはずです。
いつアバ父なる神が神の言葉を終わらせて別の教えを伝えよと
イエシュア に言われたとイエシュア が言ったのか?
本当にそんな事言われたのでしょうか?いや、言ってない、
書かれてない、聖書には全く逆、違う事が書かれています。
5:40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとに
こようともしない。
5:41 わたしは人からの誉を受けることはしない。
5:42 しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。
5:43 わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。
ここにいる群衆は、トラーに書かれた救い主=受け入れない。
目の前にいるお方がトラー、預言書の救い主である事に盲目。
逆にトラー、預言書は、イエシュアであると認めない事も
リヴァース現象で同じなのです。逆パウロ現象。
イエシュアが、わたし=トラー、預言書と言われる言葉を
真っ正面から否定して、わたし=イエシュア=古い呪いの教え、律法=トラー=終わりと信じている。イエシュア =終わり?
神=終わり?辻褄が合わない解説になります。
トラー=聖書を調べ探りながら、目の前にいる方がトラー、
預言書=聖書に書かれた救い主であると認めていないと
イエシュアが言われています。
トラーが実はあなた方の頭脳の中に、神の意味通りに解説された内容として留どまっていない事が理由ともイエシュアが言っています。聞いているけど届かない。
これはイザヤ エレミヤの警告にも繋がっています。
神は何を警告しているのでしょう?トラーに書かれた神の教えを
聞いていません!と言う警告です。
イエシュアが語られている内容は100%トラー、トラーをないがしろにする事に対しての警告=預言書のみです。
イザヤ6・9-11
主は言われた。
「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
この民の心をかたくなにし
耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく
その心で理解することなく
悔い改めていやされることのないために。」
エレミヤ5・21-22
愚かで、心ない民よ、これを聞け。
目があっても、見えず
耳があっても、聞こえない民。
わたしを畏れ敬いもせず
わたしの前におののきもしないのかと
主は言われる。
続く