マルコ7章、使徒10章のペテロの見た幻の箇所の教訓で、
レビ記11章の食の規定が変更、終わりになった、だからトラーは終わり、モーセの五書、預言書は終わり、古い聖書の箇所は終わりと言う解説がされていて、新しい時代の幕開け=恵の時代
聖霊時代、別の教え、別の救い、贖いの内容が訪れたとされる
箇所ですが、では、聖書には本当は何が書いてあるのでしょう?
マルコ7章は分かりやすい箇所です。
文章は、内容、文脈、語られている内容の前後をちゃんと
読む事。そして、どんな箇所も神が神の言葉を否定してなど
いるわけがない事、イエシュアも弟子もパウロも神のトラーを
100%生きている、教えている、まして神の言葉を否定など
しない。
もし神のトラーを捨てて、別の教えをするならば、その時には
その人達はこの様に見なされます。
1 偽預言者の証拠
2 偽救い主の証拠
3 神の前に死に値する罪を犯している
一番重い、石打ちの刑に値する罪を犯す偽預言者。
なので、どんな聖書箇所も、イエシュア、使徒たち、パウロは、トラーを否定した教えなどしていない事実にちゃんと着眼しながら読めば分かります。人の教えを引きずるから見えないだけ。
人の教え=神学=トラーは律法、呪い、2000年以降は、
異邦人には終わった古い恵の無い教え、でもユダヤ人だけが
やっていれば良い教えなどと言う、聖書のどこにも書かれて
いない教え、人の編み出した哲学神学を通して考える事をやめるだけで聖書がちゃんと1つに繋がっている事に気が付いて行く事が出来ます。
現に、イエシュアがこの場面で語られているのは、トラー、
そして、預言書から引用して、人々を戒めているでしょう?
預言書を語ると言う事は、預言書は、トラーを語っているのです。トラーから逸脱した生き方をしている人達への、警告が
預言書だからです。
まず、ここでイエシュアと論争している相手は、1世紀当時の
ユダヤ人、パリサイ派や聖書を書き記すトラー学者達と書かれています。
パリサイ派=偽善者の代名詞として、クリスチャンの間では
教えられていますが、1世紀当時、主にパリサイ派、サドカイ派、そして、ナザレ派=イエシュアを救い主と信じる人達の派=セクトがありました。
それらのグループ全員、イエシュア信者も含めた全員が
”トラー”=モーセの五書をもちろん否定などしない、
トラーを生きていたのです。
現代の様に、トラーは終わりなどとする人造神学の論争などは
1000%存在しない、ありえない世界の事が、聖書には
書かれているのです。まず、その誤解を解けば見えてきます。
誰一人として、聖書の中に、トラーを捨てよ、終わりである、
又は人種により終わりと教える人など登場しません。
なぜ?聖書は全てイエシュアを指して語られているから。
トラー、預言書=わたしとイエシュアが言われた言葉通りを
受け取り考えれば、福音書〜黙示録がトラーである事に
ちゃんと気が付けます。
聖書=トラーに熟知したユダヤ人はトラーが終わりなどと微塵にも考えないです。トラーに何が書かれているのか知っているから。トラー=終わり=神=終わると言う事だから。
それが現代のクリスチャンと1世紀聖書に登場するナザレ派の
イエシュア信者達との大きな違いでもあるのですが。
トラーは呪い、律法などと聖書には書かれてなどいないのです。ちゃんと聖書に書いてある通りに読めば、トラー=律法=呪い=恵を捨てる人が生きる教え、生き方など、その様な教えこそが
聖書では無いと気が付けます。
そして、パリサイ派と呼ばれる人達は、サドカイ派に比べて
1世紀当時、とても社会の中で評判が良く、信奉、信頼されていた人達、又社会的に高い地位の高い人達でした。
信頼されている、高く評価されている人が、同時に悪人である
はずが無いのです。
どのグループ、世界にもいつも居るでしょう。ある1部の人達。
”ある一部”の人達は、厳しい人間が作り出したルールで人を、
自分の行動を縛り付けると言う事なのです。
そのごく一部の人達=パリサイ派の一部の人、数人と
議論しているから、パリサイ派とか、聖書を書き記す学者と
書いてあるだけなのです。
ごく一部の現代のクリスチャンのグループでもあり得る事なのです。
ここで語っている内容は、読んでみるだけでも分かりますが、
神の言葉=教え、インストラクション=トラー=モーセの五書を
否定している内容では無いことが明らかに書かれています。
では何?をイエシュアはいましめているの?と言うこと。
その論点は、”人間が編み出した教え=口頭トラーに関してなのです。トラーに対する解釈がずれている、神ではなく、人が考えたたくさんのルールを編み出し、朝起きた時から、夜寝るまで、
その人達が編み出したトラーにも書かれていない様な複雑な
教え、ルールを、人が全部生きる様に強制、強要していた内容が書かれています。
マルコ7:1
さてパリサイ人と、あるトラー学者たちとが、エルサレムから
きて、イエスのもとに集まった。
2 そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。
3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。
4 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。
5 そこで、パリサイ人とトラー学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。
<ここで既に、”昔の人の言い伝え”と書いてありますね。
トラーでは無い、いわゆる人が作った宗教ルールの事です。
クリスチャンの世界で言えば、食事の前には、手を組んで
胸の前に出し、目をつぶり感謝の祈りを捧げずに食べるのは
悪い事、罪と考える。別のやり方はちょっと受け入れられない。それが食事前のルールと決められれば、それが神の仰せであると考える事と同じ。
でもこの手洗いの儀式はもっともっと複雑な工程があるのです。
右へ左へ、左へ右へ何度も、決められたカップから水を注いで、決められた洗い方、そして祈りをするなど。
つまり、神が教えた事、言った事では無い、人が決めたルールを
やってない=昔からある言い伝えをやってないと、パリサイ派の
、聖書記述者の人達が、イエシュアの弟子をとがめているのです。>
6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、
口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れて
いる。
<ここでイエシュアが引用されているのは、預言書イザヤです。
彼らは口先だけで神を敬うが、彼らの考えている事、やって
いる事は、トラーに根付かない、人間の教えを大事にしている
人の教えを他者へ強要しているとイエシュアが戒めています。>
7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んで
いる』。
<ここでのイエシュアの言葉はトラー=モーセの五書ではなく、人の教え=口頭トラーを教えて、生きて、無意味に神=
イエシュアを拝んでいると指摘、戒めています。>
8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを
固執している」。
<これ的にヒットしています。神の戒め=トラーを差し置いて、
人間の言い伝えを固執している。
**イエシュアの言葉通りに考えればこうなります**
続く