イエシュア =道=真理=命 永遠から永遠にずっと同じ 途中で変わらない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マタイ22:43で、イエシュアが”ダビデが聖霊により未だ地上に来られていないイエシュアを主と告白したのはどうして?”と質問されました。アブラハムも同じです。イエシュアを知り、同じ救い、贖い、助け、恵、祝福を受けて生きていたのです。

 

同じ神が居て、エデンの園から、同じ神=聖霊が人の内側に住まわれて、神を神と知る事が出来た事は、創造の始めから、聖書の最初から書かれています。

 

ヨハネ8:54 イエスは答えられた、「わたしがもし自分に栄光を帰するなら、わたしの栄光は、むなしいものである。わたしに栄光を与えるかたは、わたしの父であって、あなたがたが自分の神だと言っているのは、そのかたのことである。

8:55 あなたがたはその神を知っていないが、わたしは知っている。もしわたしが神を知らないと言うならば、あなたがたと同じような偽り者であろう。しかし、わたしはそのかたを知り、その御言=トラーを守っている。<父の言葉=シナイ山で与えられた婚姻契約に書かれた詳細をイエシュアはガードして生きていると

言っています。>

8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。

 

使徒2章以降、初めて神との関係がスタート、解禁になったのではない事は、聖書を読めば明らかです。

人は神に造られ、神の息=神の実態を、神から直接吹き入れられて生きるもの=ネフィッシュとになった。人は神の似姿そっくりに造られた。人は罪人の性質、エッセンスを盛られて造られたのでは無い。

 

人はトーヴか、ラー、トーヴ=神の意図通り=神の言葉を取って食べ生きるか、ラー=神の意図から外れて、神の言葉以外の教えを取って食べて生きるか?選択が与えられたから、ずれる事も

可能だったのです。罪人だからずれたのでは無い。ずれた事=

神の言葉以外を選択し、取り、食べて、思索し、行動したから

別の目が開かれてしまった。

 

神は創造の全行程を完成した後、全ての創造物がそのエッセンスに沿って機能するように、ご自分の手から、創造物を切り離したのでしょう。完成品を目の前に置いた。向き合う関係、

神のデザイン通りの関係に入るため。

そうしなければ、人間も神のロボット同様の存在です。

神の手に繋がった糸で、神の意図通りにだけ操られる、操り人形のままです。完成しないで、ずっと創作、手を加え続ける、

手直しし続ける。一個人の人としての意志で動き始められない。

でも、全ては神の考え通りに完了した、だから止まったのです。

人が神と一個体として向き合う関係に入ったから。

その関係の中に入った印が、第七日目のシャバットでもあるのです。

 

人の性質は、もともとずれてはいない、罪人では無い、

神の言われた通りの言葉を選択し生きる事をしないで、

別の目=神の意図通りを見る目とは違う見方の目が開かれてしまい、別の世界=歪んだ裏側を学習して、ずれて学習してしまった

別の自分になってしまっただけです。聖書に書かれた通りの

言い方に解説を変えて、事実を見るのです。

 

そして、そのエデンから飛び出したアダムとエバには、

同等に同じイエシュア=救いが与えられて居たのです。

今と何も変わらない。エデンを出て、神が自ら造られた衣服を

着せられ、エデンから流れる生ける水=荒野を付いてきた岩=

イエシュアがずっと始めから存在して、エデンの園を飛び出した後も、人と共に付いてきた、在った事がちゃんと書かれています。

衣服=実態=性質。神が作った服。詰まり、これはアブラハムに

与えられた”義”=<イエシュアを着せられた>として、目に見える形の印でもあると思うのです。神が一方的に用意してくれて

いる”事実” 業、実態=義。

元の自分を取り戻されている。でもそれを本当に知るには、

長い年月かかるんですね。

 

私たちの地上の旅は、アブラハムの旅、出エジプトのイスラエルと少数の異邦人の旅と同じ。別の脳回路=別の目で見る事を学習した、奴隷状態をリセットして、義とされている本物の自分に

切り替えて、全ての領域で生きる人生の旅路なのです。

 

それを時代ごとに、人種ごとに、分断して、神の種類別の業を

考えている、又は神のアプローチや教えや、契約や、救い、贖い、助けの性質が違うと考えているのは、聖書を人の教えを挟んで読み、聖書に書いてある通りに読まないから誤解するのです。

 

そして、異邦人異教徒信仰の異教の神々に仕えて何千年も生きてきた先祖の影響が、救われた後の今も尚、自分の思索の

ほとんどを占領しているからです。

 

それを取り除くのに、一生涯かかる記録と、そして荒野で40年費やしても、以前の自分のまんま、別の目が開かれたまま、神と同じ目から見る学習をしない、新しくされている事実を生きる事に切り替えないままで生きてしまった最初の世代の人達は、荒野で全て死に絶えたとあります。たった二人。ヨシュアとケラブだけがそれをやったのです。この二人と言うのも意味があります。

 

難しい事ではないのに、人の教え=別の目が開かれたまま、

神が言う通りを聞かない、見ようとしない、学習しない拒絶をし、神学=人の教えの方を正しい事だと選択し続けてしてしまったら、一生神の目から見る通りを見る事が出来ない、見えないよ

と言う警告でもあるのです。

 

長い年月がかかっているでしょう。長い年月奴隷として、別の神々に仕え、本当の創造主との関係の中に生きる事を体験しない、知らないでエジプトに居たから。

 

神の子なのに、別の神々と別のマスターに仕えて生きて来たから。アブラハムも、イスラエルも私たち異邦人も全く同じです。

人は最初から神から切り離されて生きるのではなく、神の中に存在し、繋がり、生きるようにデザインされている、造られている。

それが人の要素=関係の中に生きる事が人の成り立ち、

エッセンス。だから、聖書は全て”関係”の世界が書かれているのです。神とそして人と人=1体の関係に生きる。2つ別々、

バラバラは人の要素、エッセンス、成り立ち、デザインでは無い。主に在りてと書かれているのは、”神の中”と言う意味で、

ヘブライ語では書かれています。

 

神の中=イスラエルも、日本人もアメリカ人も中国人も

世界の全ての異邦人も、同じ神を信じるなら同じ神の中に居る。

別々の神々の中に居る、別々の場所に居るなんて聖書に書いてありますか?同じ神の中に壁、しきりがあると神学は教えるのですが、聖書は、その神学とは全く違う事を人類に伝えています。

エペソ2:14−16

 

永遠から永遠、アレフでありタウ=アルファでありオメガ=

永遠から永遠に同じと宣言される神は、時空を、時代を、場所を超えて、いつでもどこにでも存在し、人の内側に住む=

インマニュエル=”我らの中に住まう”神と言う名の神は、

その名=実態に反した事は一度もしないのです。

なぜなら、”インデイアン嘘つかない〜”と人間が言うなら、

神は尚更絶対に宣言に反した事を言わない、嘘を言う事が

出来ないと言われたからです。

 

聖書とは異なる教えを主張する神学の教えの数々、解説を、

聖書に照らし合わせるのではなくて、又人が解釈する解説に照らし合わせても、神の言葉の真実は見出せないのは、理由があります。

 

進化論の仮説と同じ。真実では無い、仮説を、その仮説に合わせて自作自演で作り出した模型で、存在しない始祖鳥や、猿みたいな人間創作原人が居ましたと解説したって、それはただの嘘の上塗りで、嘘と嘘がつなぎ合わされているから辻褄合ってるだけだからです。

神の創造の真実とつなぎ合わせたら、辻褄合わないでしょう。

 

偽の定規で寸法測っても、正確なデータはいつになっても

得られないのと同じです。偽情報、ガセネタに照らし合わせても、真相は見えない。だから聖書だけにダイレクトに戻って、

そこから全てを考えれば、ちゃんと真実と聖書では無い教えの

違いに必ず、必ず気がつけます。分かって来れば、聖書の真実のピースをずっと繋げて行けば、どんどん神の語る言葉の図柄が

広がり見えてくる。奥行きも広がる。

 

人が解説している教えと、聖書に書いてある事が違う、矛盾している、マッチしていないと、聖書に照らし合わせる時にだけでも

気がつけます。人の教えを人の教えに照らし合わせても、そんな事しても、絶対に間違いが見えないのです。

 

例えば永遠と書いてあっても、人の神学は、2000年以降は変わったと言います。その根拠?一体聖書のどこに書いてあるの?

書いてないです。それが事実です。神の言葉が証明している、

それ以外真実は無いです。

神は人を惑わすお方、混乱の神では無いです。

言った事を後で別の事に取り消すとか、本当は違いましたとか

そんな事書いてないでしょう。不思議に思ったら目から鱗が

ボロボロ落ちて行きます。聖書だけに戻って。

聖書だけに戻ると言う事をもし反対する力があったら、それは

思い出せば良いのです。

 

エデンの園のあの動物の作戦にひっかからない事。

神の言葉を絶対とする事。神の言葉は終わり、無効、捨てよと

誰に言われても、捨てない事。そこからずれない事。

 

続く