どうして人の考えを神の言葉に混ぜて神の言葉を変えたらダメなのか? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神学なんて聞くと、堅苦しい、意味不明の難しい学問、難しい

専門用語で訳がわからない事を語られる、ややこしいものと思いますが、その通りですね。神学とは、”人間が人間の目、定規から神の世界”を見て解説する学問、哲学です。

特に聖書に書かれていない事を推測で語る事が多いのが

19世紀に編み出された神学の特徴でもあります。

聖書に何の根拠も無い、聖書に書かれてもいない事なのに、

個人の空想、発想、思い込み、想像で書いているとしか思えない数々の教え。 

 

そして、神学=神の言葉の真実では無いのです。

人の解説する神の言葉、それが聖書とはずれている事がたくさんある事を知る必要があるのです。ある部分は間違いでは無い。

ジーザスは救い主と認める。救い、贖いがあると信じる。

その神学を信じている人もその聖書の真実は信じていると

思います。

 

信じる人は、信じるだけで義とされる。これはアブラハムを通して全人類に与えられている事を伝えた事実ですね。

しかし、神学が語る、聖書に関しての土台、他の部分が

聖書とは違う事。しかも信仰の根本である神の言葉、神ご自身と同等である神のことば、神が人類に伝える言葉の内容を、

曲げた、変えた、削除した、自分の教えを注入した文章を付け足したの違反、反則、いや罪を犯した事。

 

そして、人に神の言葉は終わったと伝え、神のことばを知る事から遠ざけてしまったのです。この半世紀、神の言葉を知り、

神の恵みにより与えられた本当の自分を生きる、神との関係、

人との関係を修復、育む事より、別の事に夢中になる、

別のスローガン、チャーチアニズムと英語で言いますが

そんな事で信仰生活が覆われてしまった弊害。

 

そして、神の言葉に人の教えは付け足してはならないと神が最初から厳重に警告しているのです。

付け足しても、変えても、差し引いてもならないと、神が

言われたでしょう。イエス様も言われたでしょう?

 

イエスさまは、トラーに書いてある言葉をそのまま引用しているのですよ。19世紀以前に、2世紀以降、ダービーやスコッフィールドが出て来る以前からずっと、西洋教父を始め、トラーを否定する、変える教え、人の哲学、同じ様な事を言い続けて

来ました。

 

ローマ皇帝も4世紀にトラーを終わらせましたと宣言して作った

宗教。トラーとは違う別の教え=自分の考えを土台に、新興宗教を作りました。ローマ教であったルターが、ローマ教の人造の

教えの数々から脱出してプロテスタントを作りましたが、

カトリックとプロテスタントは多くの点で同じ信仰の根、

ルートを共有しています。ルターは晩年ひるがえり、ユダヤ人

迫害、ホロコーストを促進する教えを書いた本を出版して

しまいました。ユダヤ人撲滅を考えたヒットラーの

教科書は、実はルターが書いた本なのです。ルターも盲点が

在った。ルターもヘブライ語聖書は知らなかった。

 

1世紀の信者達=パウロや使徒達とは異なる信仰の土台=

トラー、そして生き方、記念日を生きています。

パウロや1世紀の信者は、シャバットを捨てない。男の子が生まれれば、現代でも割礼を授けるし、きよい動物だけを食べる。

トラーを知る外国人でも同じなのです。義とされるために、

割礼をし、神の仰せを生きる=それは的外れだと言うだけ。

 

パウロや1世紀以降の信者も、サンデー礼拝、クリスマス、

イースターなども知らない。やった事も無い。冬の同じ時期に

サタナリアなどの祝いをしたのは異教徒達。聖書には冬の祭りは無いから。春も同じ。春の女神の祝いを異教徒達が、

イースターと名付けられた日と同じ日に祝っていただけ。

イエシュア 信者、ユダヤ人は春には過越の祭りから始まり、

シャヴオートで終わる祭りを祝っていたのです。今も同じ。

神の記念日は永久に変わらないからです。

 

トラーを捨てた教えも教えてないし、トラーを否定した

別の生き方を生きてない事実を、聖書で確かめて考えてみるのです。どうして彼ら1世紀信者は、ローマ教を生きない不信仰な人達なの?イースターもクリスマスも祝わず、男の子が生まれたら八日目には割礼をし、レビ記11の神が作った人間の食べ物だけを食べていたの?

神殿にレビ記11で書かれた、汚れた動物は神の宮には

ふさわしく無い、持ち運べない動物は神には捧げられないもの。

でも現代ではクリスチャンは神の宮と言いながら、聖書に書いてある神の宮である状態を破壊するの?トラーは終わりだから?

神の宮の詳細、定義は、トラーに書かれているんです。

 

一つ大きく誤解している事は、クリスチャンが迫害された歴史の史実、何度も起きているのですが、ローマ帝国 数々皇帝が、

イエシュア信者達、ユダヤ人を迫害、集団殺戮した。

そのクリスチャンと言われる人達は、現代とは全く違う、

ほぼユダヤ人と少数の異邦人、”トラー”を生きて、使徒達や

1世紀の信者達と同じ信仰の人達だった事知られていないと思います。今のように異邦人であっても、イエシュア を信じて、

トラーは呪い、異邦人には関係ない教え、律法などと考える人はゼロの世界の話なのです。

 

クリスチャンと言う言葉で想像するのは=4世紀に出現した

キリスト教宗教信者と言う意味だと思います。

なぜなら、トラーを捨てて、律法=呪いと考える、教える、

トラーの教えを生きない人達だからです。聖書に出てくる

イエシュア信者<少数の異邦人も含め>は、トラーを生きて、

シャバット、神の祭り、割礼もし、衣食住の全ての点に於いてもトラーを生きている人達だからです。その点が全く異なります。

 

そして、1世紀当時キリスト教なるもの、まだ存在していないものですし、そのローマ教の教えもまだ作られていない、無いので、ちょっと事実を混線しているのです。

イエシュアやパウロが新しい宗教を作ったと考えてませんか?

今まで教えていたこととは違う、新しい契約、新しい教えと。

 

クリスチャンと呼ぶには意味が違ってしまうのです。

ユダヤ人で、使徒、パウロと同じトラーを生きる人達を現代の

クリスチャンと同じ意味で、クリスチャンと呼べない理由があります。信仰の土台の共通点が少ないからです。

神の言葉は永遠と考えて神の言葉を生きるのか、それとも

神の言葉は異邦人には呪い、律法、神の言葉は現代廃れたから終わりとそれを無視して、生きないのか。どちらのグループ?

イスラエルの神を信じる=イエシュア =救い主と信じると言う事は同じですが、多くの点で違うから。トラーを捨てたと言う点が一番の違いです。

 

シャバットや神の記念日を祝い、割礼をし、衣食住の全ての点でトラーを生きている人達、その人達の事をクリスチャンと言う

タイトルでは呼べないです。なぜなら、聖書に出て来る人達、

彼らからすれば、クリスチャン=トラーを律法と言い、終わった教えと信奉し生きない人と考えるからです。これは別の課題なので今は横に置いて起きます。

よく考えて事実を繋げていくと、???疑問が浮かんで来ると

思います。

トラーをイエシュア やパウロと同じように生き、シャバットや割礼、神の記念日を生きるクリスチャンなんて居ないでしょう。

 

そして、キリスト教の教えは、トラー=呪い=終わった=恵みの無い生き方をする人=ユダヤ人と考えているから。

 

トラーが呪いだとしたので、トラーに書かれている”神の言葉”

を、捨てるなかれ、付け足し、削除、変形するなかれの警告も

異邦人には無意味と言う事になってしまいました。危険。

信号機の無い道路で自由にスピード制限無しで恵みで

聖霊に導かれて、インスピレーション、個人の感覚で

走りましょうと言っているのと同じです。

 

もっとひどいのは、神の言葉=全人類への教え、インストラクションなのに、神のトラー=言葉を呪いの律法と呼び、呪いの

律法をユダヤ人に与えた酷い神と、人に別の意識を植えつけて

しまい、しかも律法は呪いで終わりだから要らないと言った

人達の教えを神の言葉を捨てて、信じさせてしまったのです。

 

付け足す必要も無い神の言葉なのに、人が神の言葉を塗り替える、定義し直す。それ自体、不自然な事なのです。

人は何をしなくてはならないのか?

神の言葉に書いてある意味、内容を書いてある通りに知り続ける、そして神の言葉を生きる。それが恵みを無駄にしない生き方と書いてあります。それが従うと言うヘブライ語の本当の

意味、”聞く”と言う事です。神に聞く=神の言葉を聞くと言う態度がなくなってしまって、人の教えに聞き入ってしまっている事に気が付けないのです。

神の警告=神の言葉=トラーを捨てて、神の言葉から読み取る事が出来なくなってしまったから。聖書に書いてある通りに読めなくなってしまったのです。

福音書〜黙示録=トラーだけが書かれている、同じ教えだと認識出来ない。

 

読めない=書いてあってもその通りに受け取らない、人造の違う解説を作り、聖書に書かれている内容を曲げる事をしている。

神の言葉は永遠と言いながら、実は信じている事は、

途中で神の言葉は変わる、神は全人類に同じ言葉=契約=教えを

与えているのに、人種別に違う、時代別に違う教えとこれこそ、人造の教えで、神の言葉は永遠ですと言う宣言とは違う取り扱いを神の言葉に対してしているのです。聖書に基づいて考えて行くと、人造神学の主張、内容は矛盾だらけです。

 

なぜ?神の言葉は呪い、律法、要らないと人に教えられて、

頭の中に、神の言葉ではなくて、人の教えががっちりインプットされているからです。

しかも、福音書〜黙示録も同じトラーの教えなのに、別物と勘違いして読んでいるのです。

 

そこから初めて、深く広く神の永遠の奥義、真理と真理が

繋がって見えてくるのです。そして、神の言葉を、実際に生きる事に繋げて行けるのです。自分の空想で神の言葉を読み、

適用したら、的外れな事になってしまいます。

 

 

 

続く