十戒と翻訳では呼ばれている10の言葉で1つの神の言葉。
聖書の大柱、土台の項目。神の指で直接刻まれた文字を、
石の板に書きつけて、人類初、文字で書かれた神の言葉=契約を
モーセが代表で受け取ったものです。
この柱を、ボロボロに人間が破壊して行きました。
律法と恵の時代。なんでも許される、イエシュアにより、
呪いのトラーから解放されたと言う教えは、神と言う永遠の中に住まう存在の、人とは違う存在、創造主、世界の全ては神の言葉で造られた、その神の言葉に対しての、人の意識を大きく変えてしまう教えを人間が作ったのです。
神の言葉を表す言葉=律法と言う言葉自体が、誤解を生む不適切な誤訳、翻訳なのです。言葉=人の中にある特定な意識を産みます。不適切な言葉は、その言葉から生まれる不適切でずれた
考えを人の中に作り出すのです。
救い主、真の神の存在を伝えたい。でもイエスさまを伝えた後、聖書に書かれている本当の救い主、イスラエルの神像を知らないならば、聖書とは違う神像を人に語ってしまう。エジプト出たのに、再びエジプト=人の教えの奴隷に閉じ込められてしまいます。宗教の語る神像は、本当の神の顔とは全く違うもの。
神の言葉とは違う別物の教えを聞いたら、束縛され、本当の神が与える自由、喜びに蓋がされてしまうのです。本当の関係の中に
神と人と共に住まう事が出来なくなってしまう。
しかも、神を誤解したまま、人にも別の神像を伝え続けてしまうのです。
人間が作り出した聖書に無い教え=コンセプトと造語で、
イスラエルと言うグループと、教会と言うグループは
神は別々の取り扱いをし、全く別の教えを与えられたのだと言う
人間が作り出した教え。
ダービーが1830年に編み出しました。1世紀当初も異端の教えはあり、それ以降、ローマや西洋教父達により神の言葉とは違う教えは編み出され、出現して世界のイエシュア信者の意識を聖書とは違う教えに導いて行きました。神の言葉と神の記念日を変えるものは、エデンの園、最初からいるのです。
それがずっと歴史の中で繰り返されているのです。
聖書に無いコンセプト=2つのグループ、教会と言う新しい
グループ出現と言う教えと、それにより作り出した造語が問題
なのです。別の言葉など造り出さずに、翻訳で神の言葉の真実を覆い隠さないで、同じ言葉=カハール、エダ、エクレシア=神に呼び出された人=群と一貫して同じ言葉で訳すべきだったのです。ある人に別の服やお面被せたら、誰だか分からない、
同一人物に見えないでしょう。
しかもマタイ16:18で、将来別のグループをイエシュアが作ると本当に勘違いした解説をしているのです。
聖書解説者=神学を編み出した人達が、聖書の読み方を知らないで、自分の解釈、主観、解説を語ってしまっているだけなのです。それを聞く人達、教えられる人達が、聖書の事実だと勘違いする。自分で聖書に戻りちゃんと書いてある事を確かめて、自分の頭で考えないからです。
しかも、聖書を塗り替える教えをしているのに、聖書にある
預言者の様な取り扱いを、その神学者達がされてしまっている事が問題なのです。今まで神に隠されていたミステリーを解き明かす、新しく出現した絶対真理と言う位置付け。
ただの人の偏った聖書とは違う考えであるのに、それが聖書の今の時代まで聞かれる事がなかった、新しい掲示だと言われてしまったのです。聖書に戻ればその不真実な教えの中身が分かります。それらの神学者達は、本当に聖書を知らなかった事にも
気がつけます。初歩的なミスと、聖書を知らないで勝手に読んでいる事は、明らかだからです。聖書を誤解して読んでいる、
聖書を知らない人が解説している教えを、聖書が語られていると
思って聞いているだけなのです。
聖書は最初から同じ事をずっと語っています。時代ごとに別の
掲示や教えなど無いのです。全部がその章に書かれていなくても、同じ神のインストラクションは最初から、エデンから同じ。永遠から同じなのです。ヘブライ語の言葉を見るだけでもそれは分かります。同じ言葉=同じ意味でずっと貫かれて書かれているからです。途中で言葉の定義は変わらないからです。
同じ事を最初から最後まで語っている様に思えない、見えないのは、翻訳用語聖書で、人間の解説=解釈=神学を通して、聖書では無い事を教えられ続けて来たから同じ事を話していると思えないのです。
2000年以降、福音書以降は違う別の新しい教え、呪いの教え=律法から解かれた違う教えになったと、聖書では無い作り話を、本気で信じているだけなのです。
ちゃんと読めば、イエシュアがパウロがトラーを語り、トラーの中身を皆が教えていた、聞いていた、生きていた事実が書いてあるでしょう。翻訳でもそれは読み取れます。臭い箇所=誤解されいてる聖書箇所、トラーの教えを否定していると勘違いしている箇所は、元の意味に戻して、パウロが何を論点として語っているのか分かれば、どの箇所も、一点一画、神のトラーを神が、
神の預言者達が否定する事などありえない、していない事実。
プラス、異邦人とイスラエルが別の教え、契約を頂いた事など
聖書には書いていない事に小学校低学年の読解レベルがあれば
必ず気がつけます。いや幼稚園生でもそのままを話せばちゃんと聖書は1つのテーマで、1つのグループ=同じ人間のDNAを持つ
1つの人類に対して語られている事実にちゃんと気がつけます。
ダービーやスコッフィイールは、聖書に出てくるエレミヤ、
イザヤ、ヨハネやパウロの様な預言者では無いのです。
ただの人。しかし、聖書が閉じた後、聖書とは違う教えを造り出し、聖書の預言者と同じ立場に立ってしまったのです。
そして、その後にスコッフィールドと言う人物的にも
問題多である人が、ダービーの仮説を元に作った一人創作聖書に
たくさんの彼の考え、主観の注解を盛り込み、それが聖書の
教えだとして、その彼創作の聖書の注解を元に、たくさんの
牧師、教師は毎週そこから説教を作り出しました。それを使えば聖書を調べなくてもメッセージが作れるような構造になっているからです。
どこが聖書とは異なる教えなのか、聖書と照らし合わせて
行けばはっきり分かります。でもこれはコンスタントに聖書の
事実だけを、学んで、聖書に書いてある意味通りに読むと言う事をし続けないとならない事なのです。
異端の教えや別宗教、そのグループの教えが頭からすっかり
離れるまで、本当に困難があります。まさか自分の聞いて来た
教えが不真実、嘘であるわけがないと信じるからです。
その構造は同じです。脳回路が、その誰かの教えを通して全て
を見る様にされているので、先入観で真実を見る事が出来なくなっているからなのです。長い年月その教えに浸っている場合、
それはもっと困難です。脳回路の根が固くがっちり出来上がっているから。
進化論や他の科学の仮説と同じ事です。考えたら変だと気が付いて行くのに、事実を見て考える事をしないで、仮説を神の言葉同等として、絶対と信じるので、真実が見えない盲目状態になってしまっているのです。
この10の言葉の中にある箇所。これを、イスラエルだけへの教えとするならば、もう他のどんな箇所も、日本人には、外人には
全く意味の無い教えですし、イスラエルの神、イエシュアとも
なんの関わりも無いと言う事です。なぜなら、イエシュアが
トラーはわたしそのものと言ったでしょう。
トラー=イエシュア=異邦人とは関係ない、又は希薄な関わり
ですと言う事になるのです。神学の教えに基づけば。
でも、神はなんと言っていますか?永遠に変わる事のない
神の言葉=契約=約束=保証=関係の中にある印として、
神の子らの生き方を神ご自身が記してくださったものなのです。
出エジプト20:6
わたしを愛し、わたしの戒め=トラーを守るものには、恵みを
施して、千代に至るであろう。
20:7 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。
みだりに唱えると訳されていますが、言語では、
違う方法、間違え、実態とは違うもの、空、無意味に
神=神の言葉を取り扱う事をするなかれと言う警告です。
ではどう言う事が、空、無意味に神の言葉を取り扱う事になるのか?と言う事なのです。これは神学のもたらした大きな弊害、代償でもあります。
続く