神学<人の考え 思想 ものの見方>と聖書の違いを聖書だけに基づき書かれている事を識別する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

人の意見や、注解を聖書の中に挿入し、編み出された教えや、

神学にマッチしない聖書箇所は、削除、変え、捨てた。

又は聖書には無い違う意味の言葉や、原典に存在しない文章を

付け足し挿入して作った聖書。スコッフィールドの注解入り

チェーンバイブルは、20世紀、1909年に初版、1917年に

改訂版が出版されています。それは、始めから神の前に違反行為です。

神の言葉に一点一画でも手をつける行為が恐ろしい罪であると

言う認識がない人物が作った聖書。神に対する軽い意識の異邦人思想、マインド。

 

現代のクリスチャンは、この神学の土台に、聖書を考える

思索の信仰の基礎を据えられて来たのです。知らないまま。

 

その聖書は、19世紀半ばにダービーが編み出した教えを

サポートするために作られたものでもあったのです。

スコッフィールドの書いた、彼の聖書に対する”定義” ”哲学”

思想があります。これが、聖書だと教えられて来た、実は

人が考え出した教えだったのかと、スコッフィールドの論文を

読むたびに頭をかきむしりたくなる衝動にかられてしまいます。なぜなら、主要箇所で引用されている聖書箇所は、

彼の主張が書かれているだけで、聖書の元の意味は出てこない、元の聖書の意味とは丸で違う事が解説され、書かれているからです。聖書の言葉の意味と全くずれている事が明らか、明白に

分かります。聖書ではなく、神学の教えを聖書に語らせているのです。

 

これだけ見ても分かると思います。”律法 対 恵”。

”怒りの神=律法を与えた神” ”恵の神=許しと恵に富んだ神”

の時代。永遠普遍と七へんげに変わる、人が考えたイスラエルの

神像との違い。

律法とは、トラーの事を翻訳用語で言っているのですが、

律法と言う言葉は、神の言葉を指して使われていない、聖書には実は無いコンセプト、完全な不適切な言葉、誤訳なのです。

プラス、教会と言う言葉も、別種のグループであると言う

コンセプトも、聖書の思想とは全く異なるものなのです。

聖書に無いこと、無い教え、無いコンセプトを土台、前提に

語られているのがこの神学の特徴なのです。聖書に無い架空の

ミッシングリンク=聖書に書いてない事に対する教義を、

神学で紐解く、語る世界。

 

”神の教え=インストラクション=婚姻契約 vs 恵”と

なりますが、恵の全貌、詳細は、トラーの中に書かれているのです。福音書以降でイエシュア、パウロが語っているのは、

このトラーに書かれたアハヴァの一部なのです。要約を語っているだけ。トラーに全貌が書かれているから、全部書いてないのです。福音書以降は、短いトラーのコメンタリーだけが書かれて

いるのです。

 

本当に聖書とは辻褄合わない、最初から、聖書とはずれた観点から、神学を通して聖書を語られて、書かれているのです。

彼がヘブライ語聖書を学んだ事も無い、知らない事は明らかです。パウロの様な教師にも教えられて来なかったでしょう。

彼は聖書学者でも無い。誰かに雇われてこの聖書を作ったのですから。

 

なぜなら、ヘブライ思索で、ヘブライ語聖書を読み続けたら、

神の言葉が、律法なんて”概念” 発想、考えが出て来る余地

無い、そんな聖書に反する事が言える訳ないからです。しかも、

2つ別のグループが書かれてい無いことも気が付けるし、

1つのグループが最初から最後まで書かれている事に気がつけるはずなのです。第一教会と言う造語も作られないはずです。

最初から書かれている同じ言葉=カハール<エダ>エクレシアを

同じ言葉=集会、神の群と訳せば良かったのでしょう。

翻訳ミス、いや意図的な策略、違反です。違う言葉で訳しただけで、違うものと言う意識を刷り込めるからです。

 

しかも、天と地と最終的には2つ別々のグループに分かれたまま

別の世界を治める。これって人間創作ファンタジーの世界で、

聖書では無いです。聖書とは異なるコンセプトだからです。

 

どんな教えも、モーセの五書とずれていたら、それは聖書では

無いです。特に終末論を語るなら、申命記とモーセの歌を

否定する教え、違う教えは、聖書では無いと分かります。

 

普通に何も知らない人が聞いても分かるでしょう。聖書=神の

口から直接出た言葉を、神が自ら一部でも否定する教えと、

<異教の神々ならあり得る事でしょうが>

聖書を、神が言った通り永遠普遍の変わらぬ神の言葉と神の言葉を認める考えとどちらが聖書に基づき本当?と。

 

福音書以降も100%土台はモーセの五書を指して語っているの

です。このトリック、謎が解ければ、聖書はどの箇所も100%

トラーを語っている事に気が付けます。

そして、神の言葉を否定する、預言者や、使徒、ユダヤ人、

イエシュア信者など、異邦人含めて誰一人聖書には書かれて

いない事実を聖書から発見すれば分かります。

預言者は全て、神のトラーを伝える人なのですから。

 

自分の中で、仏教や、神道、その他、他宗教、新興宗教の数々、

果てはイタコや霊媒、予言、占い、その裏にある霊、

この世の闇、本当の創造主の霊から出るものでは無い、もちろん

偽物の教えであるのですが、その宗教や教えを信じる方達に対して、面と向かって直接、それらは偽物なんて言わないのは、

常識です。

 

ネットでは、又は書籍では、不特定多数に向けて自分の書きたい事を書けます。言論、発表の自由がある。ある教えや意見に対して反対の意見を書く事も、全然問題無いのです。もし、1つの

意見しか言ってはならないとするならば、それは、他者に、

別な意見を言うべからずと封じ込める事、完全に”支配”、

コントロールの世界になるのです。

 

それが、真実かどうかは、根拠に照らし合わせて、一人一人が

考えて、それを取り入れるか、拒否するか自由にしているのです。自分の探している事、求めている答えを見つける。

興味がある人だけが読むから、それは読者の側の選択だからです。強制的に誰かに自分の意見を聞かせる行為では無いからです。

読者は、選んで様々な情報、記事を読むのです。読みたくなければ、読まない、否定したければ、その意見を受け入れなければ良い。何も問題無い事です。そう言う自由選択があるからです。

 

誰かの生き方や信じている事、それが神の目から見て、”罪”である、偽の神に仕えている、真実な教えでは無い、ずれていると

分かっていても、そんな事は人に直接は言わないのも常識です。

でもそれが命の危険や、人の尊厳を侵害、妨害する事ならば、

直ちに阻止されるべき事です。それが憲法、私達の身の安全を守るために設けられた基準です。そうでなければ、ソドムとゴモラ、ノアの時代の無法地帯の再現になります。

 

それ以外は他者が自分で考え、選択する領域だから。人が誰か

の考え方や、生き方を直接指摘、指示、指導する立場に無いからそんなことはしないのです。そして、正しい情報、教えに

アクセスする権利は日本人だってあるはずです。

聞かれたら、正しい情報や、こちらの意見は言えるけれど、

そうでなければ、黙っている。

養育している幼い自分の子供らになら、知る限りのあらゆる事

全てを教え、指導し、言えますが、他者には言えません。

余計なお世話ってところになります。

 

でも、識別、正しいジャッジをすることは、信じる者の間に神が

求められている事です。他者を、批判や非難、自分の目から判定する事と、物事を聖書に基づき見分ける正しい判断、判定とは異なる、違うものです。聖書に基づき、正しい事を見る、聖書では無い、嘘や、まやかし、騙しを見抜く、それらは、一人一人が

する事を、神から必ず求められているのです。

 

又は、裁いてはならないのスローガンで、信じるものの集まりの間で、罪、違反、侵害が闇で、裏で、乱用が横行し、行われているのに、正しく対峙する、介入する、阻止する、指摘する事が

無い世界は、危ない世界、無法地帯になってしまいます。

 

この事で、どれだけの人が傷つきボロボロになっているのか、

日本の、世界のニュースを見ても分かる事です。

人を傷つける危ない犬を、自分の家の中に、庭に放し飼いにして、子供達を命の危険にさらすのと同じ事。

 

信じる者の集いの中で数種類の形態の虐待、違反、ハラスメントがある事も同じことです。

神の名を乱用し、人を支配する事がたくさんあります。

無言、無形のコントロールをしている場合もあります。

主のためにと言う暗黙の教えの了解。見えない形で、自分の自由意志、思索、行動が束縛されて行く。

長年、違反が行われている事を知っていながら、放置し、

多くの犠牲者を出してしまう。これは世界共通の出来事です。

無法=トラーが無ければ、正しく、神の意図通りに、正しく

理解していないなら、何が愛の定義、生き方なのか、見分けられないからです。なんでもかんでも受け入れることが愛と

勘違いしてしまう。トラーを捨てた代償です。

それって愚かな事です。これは、別の問題なので脇に置いて

起きますが、何が基準なのか分からないと、神の目から見ている通り、正しく物事を見ることが出来なくなってしまいます。

 

批判、裁き合わないで愛し合いましょうと言いますが、

愛し合うって、神が語るその愛の定義は何が根拠なのでしょうか?それってトラーに書かれている”アハヴァ”の事を言っているのです。異邦人にはテンポラリーな、今終わっている教えと言う事にされている、その愛の定義がトラーに書かれています。

 

神の愛の定義、それには、厳しい線引きがちゃんと書いてあります。お互いの安全が守られるためです。危険をもたらす人は

宿営=コミュニテイの外に出される、追放されます。それは

ひどい神だから?いいえ、違反、神の言う通り=言葉を捨てる人=人を神の言葉とは違う、間違いに導いて行く、人を傷つける

人を尊重して、他の人を犠牲にする神なんてそれはイスラエルの神では無いからです。神に作られた人のデザインに反している事だからです。普通の社会でもそうでしょう。危険をもたらす人を野放しにしない。牢獄に閉じ込めて置かないと、他の人が危ない目にあってしまいます。

 

ズレも罪もなんでも一緒くた、反省、修復しないなら、もう仲間として暮らせませんとはっきり書いてあります。当然でしょう。

他の人が破壊されてしまうからです。一緒に暮らせる条件、

これは預言者の託宣と同じですが、神の言葉=インストラクション、教えに戻って生きる軌道修正があったら、再び受け入れられると言うことです。神のインストラクション、教え=トラー=

コミュニテイに与えられている婚姻契約の生き様が、愛の詳細

なのです。

 

続く