悲しい事に、人の教えを通して聖書を”学ぶ” ”読む”事を教えられてしまうと聖書に書いてあるのに、書いてあるその通りには
読まないようになってしまいます。人間の教えに照らし合わせて、書いてある箇所の意味を、神学の教えに当てはめて、聖書に
書いてある内容、意味を変更して読んでいるのです。でも、聖書に書いてある通りに読みましょうとは教える、発言する、解説
するので、主張している事と、実際に行っている聖書に対する
取り扱いが異なり、矛盾があるのです。
聖書を、聖書からそのまま読まないで、人の解釈=神学=哲学=
システム化した方程式を通して、聖書に書いてある事実とは違うのに、聖書に根拠が無い教え=別の解説をされて、それが神の
言葉の真実=聖書だと思ってしまっているのです。
この世の多くの著名な学識者と呼ばれる人達も、聖書=神の言葉のシンプルな真実、真理、事実を、”学んだ人造製造神学=人の作り出した教え”を通して”しか見えなくなってしまい、神の言葉を、実に複雑なゴチャゴチャな物に変えてしまうのです。
特に信仰の年数が長ければ長いほど、その”色眼鏡”のレンズの
度数は、昔よく聞いた牛乳瓶の底の様に厚過ぎて、真実が見えなくなるのです。脳回路にしっかり神学の教えが太く硬く根を伸ばして、真実を見ようと言う意識さえ持てなくなります。
なぜなら、教えられてきた人造神学がイコール神の真理と言う
図式に疑いもなく信じ込んでいるからです。聞きなれない教えは
異端の教えと思っているから。異端とは、神の言葉とは違う教えのことで、聞きなれないイコール異端では無いのです。
聞きなれないのは、ヘブライ語聖書を読んだ事がないから、
自分の習った、教えられたことと違う、イコール異端と言う
考えになるからです。
特にヘブライ語聖書を聞くなんて事、経験の中に殆どが皆無です。だとすると、本当のことを聞いても異端に聞こえるのは
無理ないのですが。
聖書に書いてあることとどうして違うのか?どうして永遠普遍と言うのに途中で変わるのか?疑問にさえ思わない、夢にもつゆにも考えも浮かばない。
一旦疑問に思い、聖書だけに戻り考え始めて、聖書だけを探れば
神が必ずその人に真実を教えます。神の真実のピュアで純粋な
言葉だけを通して教えます。
それがイエシュアが戒めていた、トラー=聖書=神の言葉では
無い、人間製造の付け足しの教えを生きる事をしていた、
他者にさせていた人達の議論の論点なのです。
聖書に書いてある通りに読むと言いながら、実は書いてある通りに読めなくなるトリックに気が付いていないのです。
神学の教えが、始めから頭、脳回路、思考回路を占領しているからです。
神学の教え=私たち救われた人は、トラー=律法の呪いから
解放されました。でも本当はこう言う事を唱えているのです。
私たちは神の永遠の言葉=婚姻契約、初めの愛から解放されました。離縁されました。本来の主人から解き放たれて、別の主人の教えでも何でも勝手に生きる様になりました。それが聖書に
基づく事実。トラーから解放される=婚姻届破棄しましたと言っているのです。聖書に基づけば。
そして、私たちは、神の呪いの”婚姻契約”の下に居ないで、
恵の下に居ますと言う、考えたら矛盾するスローガンを、聖書に書いても無いのに、聖書だと本気で信じているからです。
恵の全貌、詳細はトラーに記載されているからです。
どこで神の提示する恵の内容を知るのでしょうか???と考えて。他にどこにも根拠が無い。福音書以降もトラ−100%の
内容しか書いてないのです。その事実に目を留めて。
でも、その神学のスローガンは聖書にマッチしていないので、
聖書に照らし合わせていくと、矛盾があるのです。
でも矛盾を埋めるために、違う解説を作るのです。
もしくは、スコッフィールドがやった様に、聖書自体の内容を
変えてしまう、挿入、削除、創作した文章、注解を入れる教えをするのです。もうそうなると、何が神の言葉、オリジナルの真意であったのか、闇に葬られてしまっているのです。
聖書にシャバットは第七日目、7と書いてあったら7なのです。途中で変わらないと書いてあったら変わらない。永遠と書いてあったら永遠なのに、その実に単純、明解!シンプルな神の言葉の事実を人間の教えのメガネを通すと、書いてある通りに、もう
読み取れなくなる、考えたら不思議なことですが、進化論を考えたら、分かると思います。ちゃんと考えれば分かる。観察すれば
分かる。根拠が無い、実験結果も無い、証拠も無い、
あり得ないことなのに、そう信じる、疑いもなく信じる。
猿が人間に変身。部品を1つの箱に全部入れて、箱を振り、
混ぜたらパソコンが組み立てられて、出来上がると言っているのと同じ事を本気で信じている。
自分の目で聖書に書いてある事をちゃんと読んで確かめて、
考える事、疑問に思う、質問する事をしない様に教えられてしまっているのです。実はこれが問題の根です。
福音書以降を読んでも、聖書に登場する誰一人、又は使徒や
パウロでさえ、”シャバット”の曜日に関してなんの疑問もない、討論もない、曜日変更もない、同じ日をシャバットとして祝っていた事実がある事を前回のシャバットで、聖書の箇所をコピペして、その中身を解説しました。以下![]()
聖書のどこにも”シャバット”=安息日が変更である事実、記述は書かれていない、誰もそんな話もしていない、記述ゼロです。
神が創造の始めにシャバットを造られた、神が止まられた日は、同じ日=第七日目である事実だけが永遠に堅く立つために、
第七日目であることが書かれています。
創世記2:2−3
神ご自身が、創造の全ての業を完了、終えて、その止まられたと言う事実に歓喜している、祝っている。神が人との関係の中に入った事実、神と人が共に在る、イマニュエルの神が人の中に住まう事実、その記念日を神が造られて、聖別=神の目的通り取り分け、祝うことをした事が書かれているのです。
これを4世紀にローマ皇帝が、勝手に神のシャバット=第七日目と、春と秋の記念日を別のもの、別の曜日に変えたこと、トラーの生き方、ライフスタイルの全てを捨てる事、割礼を禁じた事、ヘブライ色ある一切を禁止した事を、現代のクリスチャンは、
神が変えたと本気で信じさせられているのですが、聖書だけに
戻れば、何が本当か誰でも確認出来ます。神の造られた記念日、
言葉の事実は永遠に消えないので、曜日変更されていない事
確かめられます。
終わりの時に、再び”ハヌカ”の事件が起こる、その荒らすものと
ダニエルが書いている内容は、神の言葉=トラーと神の記念日を変えるものと書いてあります。
ダニエル7:25
それが4世紀にも、いや2世紀以降、どんどん行われていって
しまった事実をはっきり知れば、誤解がどんどん解けていきます。なぜ聖書を学ぶのにヘブライ語聖書から直接教えられなかったのかの理由でもあります。
ユダヤ人がヘブライ語聖書=トラーを教える事をローマが禁じた
からです。だから、お家元、聖書の本当のオリジナルの言語で
書かれた内容を聞く事が今まで出来なかったと言うのが
事実です。
世界の文学でも、その言語、言語のオリジナルが出版されて、
オリジナルを読むでしょう。大学でも、外国語の言語から直接
その文学書に書かれている内容を教えます。
では、なぜ、聖書だけは、翻訳のまた翻訳、しかも人の作り出した神学を通してだけを教えられ、聞かされているのか?
聖書を教える人達なのに、どうしてヘブライ語聖書を読んだことも、見たことも、聞いた事も全く無い現状なのか?ヘブライ思想や、ヘブライ語のコンセプトや、内容を知らないのか?
不思議に思って考えれば分かります。その謎が解けます。
禁じられたから、お家元<ユダヤ人>は引っ込んでろと、トラーまで燃やされて捨てられ、ユダヤ人がトラーをヘブライ語で
書かれたものを教えるのを死刑を持って禁じたからです。
だからオリジナルの聖書=トラーではなく、西洋教父=西洋宗教、神学を通した教えが現代の信仰の教えの土台になったのです。お家元を退けて、ローマ皇帝が変えた教えを土台に、信仰の
教えの世界、教義、教理、神学を作って行ったからです。
オリジナルとはずれた違う方向に行った。
そのちょっとした一部改革が、マルチンルターの宗教改革だったのでしょう。でもルターは根本丸ごとの軌道修正まで、さかのぼらなかったのです。しかも、彼は晩年反ユダヤ主義、反トラー
主義に翻り、神の前にやってはならない罪を犯します。
神の永遠の言葉=トラーに敵対し、ヒットラーにホロコーストを行う根拠、教科書を与えてしまうのです。”ユダヤ人と嘘”と言う書物でそれが残っています。自分の考えで、ルターはトラーを
知らないので、混ざった教えをユダヤ人が受け入れないのは当然なのに、力で彼らの信仰を変えようとした。無理でしょう。
まがい物の教え=ローマ皇帝のトラーを捨てよと教える混ざり物の教え、トラーを捨てた生き方をユダヤ人、いいえイエシュアを、イスラエルの神を信じる者達がしたら神の前にそれは罪ですから。
続く