ヘブライ思想とヘレニズム思想の違い  神の言葉を人間の哲学の枠にはめて解説する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ユダヤ人、聖書記者、聖書に登場する人が決してやらない事、

それは、”人間思想、哲学、学問から聖書を読む、解説する”と言う事です。人間の哲学、学問、神を人間の学問、哲学の枠にはめて、神の言葉を定義、考察する、これがヘレニズム思想の発想、産物であり、ヘブライ思想と全く異なる特徴でもあります。

 

聖書、神の言葉、仰せのフォーカスは、”生きる”と言う事です。

神の言葉を”日常”の中で生きる、どう生きるのか?の議論は

ユダヤ人の間であっても、神学=人の編み出した学問の枠で神を考える、神学を議論する、その様なアプローチ、考え、議論は

ヘブライの世界、思想にはありません。

 

聖書神学と呼ばれるものは、聖書が閉じられたずっと後になり

ギリシャ、ローマ哲学思想を取り入れて人間が作ったメソード

なのです。人間の編み出したフォーミュラ、方程式に当てはめて、神の言葉を考える、アプローチ、思考する。

現在一般に世界に浸透している、聞いている聖書の教え、

解説は、ほとんどが19世紀に作られた西洋人の人造ヘレニズム哲学思想を通して翻訳聖書を解説、語られる、その教えを聞いているのです。

 

あるトピックだけを取り出して、特に強調して教える事も、

西洋神学の特徴です。だからあるグループはある特徴だけを

特に打ち出す名前をグループ名として付けています。

終末論が盛んに語られるものその1つです。

ユダヤ人はその様な考えはしない。なぜ?永遠の神、

シャロームのイスラエルの神は、ホールネスであり、

丸ごと1つ。ある1つの事柄だけ、部分的フォーカス、強調する考え方、教え方をしないからです。永遠の中の今を生きる。

全部丸ごとで、シャローム。全存在でネフィッシュ=生きるものとして作られた存在の人間が聖書に書かれているからです。

 

現代の聖書神学とは、あるトピック、カテゴリー、神学に沿った

思想、日本語でなんと言うのか分からないものもありますが、

人類学、キリスト学<christology>、救済学<soteriology> 

harmatiology<罪に関しての学問>又は終末論などなど、

その様な人間の学問に仕分けて考える事をします。


これらの論議、学問のトピック自体は誤りではないですが、

聖書思想、ヘブライ思想の聖書が語る内容に対して、

そして、ヘブライ思想、ユダヤ人の思索に対して

”異物”なアプローチ、エイリアンなメソードなのです。

 

聖書の中で意味される言葉、シンボルが、どの様に理解、

判定されるのか?時代錯誤、文化の壁ありきの言葉、言い回し、用語で解釈される事を避けるなど、注意深い検証、学びが必要なのは言うまでもありません。

 

詰まり、日本人の文化<異教徒文化、異教徒の教えが思想の根底にある>その中に当てはめて、古代ヘブライの文化の、ヘブライ思想が土台の、ヘブライ語で書かれた聖書を、ヘレニズム思想

=分断、異教徒思考で、読み、思考しても、古代のヘブライの

世界の文化のヘブライ思想のヘブライ語聖書の真意がはっきり見えてこないのです。

 

特に黙示録など文字通りに読んでも、何を本当に書かれていて、何を伝えている、語ろうとしているのかが分からないのです。

それは古代ヘブライの当時の人、トラーを知る人達だけが理解

出来る、コード化された言語、彼らユダヤ人の間だけで通じる、いわゆる暗号化された言葉で書かれているからです。

 

トラーの中身、意味を知らないローマ帝国の人々=異邦人には、決して分からない言葉、方法で黙示録を書いたからです。

 

雲、山、木と聞いたら、それぞれの文化の人の想像する内容が、

ヘブライの世界の人とは違います。書いてある数字通りに

考えても見えない。初めの愛と書かれたら、ヘブライ人なら

初めの愛=シナイ山で与えられた婚姻契約=トラーと分かるけれど、トラーを知らない異邦人=ローマ帝国には決して分からない。恋愛の始まりのあの始めの初々しい感情の事?

くらいにしか考えないでしょう。

 

言葉の意味の裏に託されている、ヘブライ人が知る言葉、

内容が書かれています。

 

翻訳者が忠実に、ヘブライ語聖書を訳そうと努力して翻訳する。

そして翻訳は、本当に至難の業だと思います。

古代の違う言語を、時代を超えた違う外国語に当てはめようとしても、出来ない事がたくさんあるからです。ぴったりな言葉に

合わせられないと言うこともある。タホー、タメーなど、

きよい、汚れたと言う言葉ではぴったりマッチしないのです。

だから、その言葉で語られる内容、コンセプト、教えを知る、

知れば何を伝えているのか理解出来るようになるからです。

 

日本語の”頑張って”と言う表現は英語には無いです。他の外国語言語の中にぴったりな表現がなければ、それに近い言葉を探して、選んで、翻訳作業をするしかないのです。そして、人により選ぶ言葉は、その人の判断により変わります。その人の思想、

信条でも変わって来てしまいます。そんな事が翻訳にはあります。ヘブライ語聖書はその様な壁や障害が全く在りません。

文字数、使われている言葉も、どの書も全くぴったり同一だからです。

 

ヘブライ語聖書の中身の意味を本当に知る人と、ただ言語だけを

訳すだけの人との中身の書き方に違いがある事もあります。

 

お天気予報の、気象に関しての知識が無いお姉さんが台本だけを読むのと、お天気おじさんの森田さんが解説する、知識、理解があっての解説の内容には、自ずから違いがある、それと同じです。

 

そして、翻訳では、使われている言葉の中に一貫性が見えない事がたくさんあります。

翻訳は1つの言葉が別々の複数の言葉で訳されてしまうし、

相互に使われる別の言葉、でも意味が共通している内容を指す

言葉など、翻訳では、全く想像出来ない、見えないからです。

 

教会と言う造語の様に、聖書の最初の70%で使われている

ヘブライ語のカハール、又は、エダと言う相互に同じ意味のグループを指して使われている言葉を、”群”、”証”と訳し、同じ

カハールと言う言葉を、福音書以降では、教会と訳したら、群と教会が同じものであるとは全く認識出来ませんし、しかも

人造神学の教えのフィルター、主張を通したら、イスラエルと異邦人グループは区別された別もののグループ出現と言う思想を信じ込まされてしまうのです。聖書には、ギリシャもユダヤも、

奴隷も男女も関係なく1つの家族、同じ神、同じ契約の中に

加えられたとはっきりと書かれていても、目の前に書いてあっても疑いもなく神学の教えを信じ込み、即座に2つのグループだと

1つの家族であると言う聖書の真実がはっきり書いてあるのに読み取れなくなっているのです。造語=教会と言う聖書にマッチしない言葉を編み出して翻訳されては、違う意識を刷り込まれてしまったからです。進化論信仰と同じカラクリです。

 

翻訳には訳者により別の言葉が使われると言う点で、本来の意味が見えなくなることがありますし、本来の言葉の深い意味や語源が翻訳では現れ出てこないので、真意、深さ、奥行きの広がりなどが見えないと言うこともあります。

 

また、言葉が意味する、語源なども知るのと知らないのでは

理解に大きな差が出ます。救い主が突然2000年前に出て来て、

それまで救い主を知らなかった、救い、贖いがなかったと言う

神学を作る、考える異邦人は、ヘブライ語聖書の中身を知らない、ヘブライ思想を知らないので、聖書の始めからイエシュアが記されている、解説されている、書かれている事に、言語から

気が付けないから、その様な教えが出てくる。プラス、ヘブライ思想、”永遠”と言う時空を超えた天の現実の中から、円から全て真ん中にアクセス出来ると言う思考回路が無いからです。全部、歴史線上、時系列に物事を眺めます。今天の中、神の中と言われてもその様には決して考えてないと思います。将来行く場所=天国と考えるのです。

 

聖書は、行ったり来たり、時を超えて、永遠と現在、過去、未来

時系列ではなく書かれています。歴史と言う言葉も無い。

”記憶”と言う言葉で表されているのです。永遠の中に今と言う

概念。

 

また”永遠”と言う言葉の意味。その言葉は、永遠。

いや翻訳でも分かると思いますが、ヘブライ語の意味は

永久、詰まり変わらない事がその言葉で書かれているのに、

異邦人は平気で途中で神の言葉が変わると解説するのです。

 

だから聖書は、原典、言語=ヘブライ語言語に遡らないと見えてこないと言う難点があるのです。これはギリシャ語でも同じです。元の言葉、思索は、ヘブライ語、ヘブライ思想ですから、

ギリシャ語の裏にあるヘブライ語、そしてヘブライ思想、

それが何かを捉えないとなりません。しかも何度も書いていますが、ヘブライ語ではトラーと言う言葉を、ギリシャ語で

”ノモス”と言う言葉で訳されて、そのギリシャ語を、日本語では律法と言葉で訳されてしまいましたから、神の言葉=律法と言う意識が頭の中に占領してしまっているのです。

 

そして、現代神学は、律法は終わり、呪い、廃れた、又は、

ユダヤ人だけのものだ、恵の時代にトラーを生きるのは、恵を捨てた生き方だと言う聖書の事実とは全く異なる人間の教え、

神学の主張を解説されるので、益々神の言葉の真相、神の深い知恵、奥義が語られているのに、真実を知ろうと考える、学ぶ事を

試みる事もなく、闇の中に宝が葬られてしまうのです。

 

 

続く