パウロが語る、又は聖書の記述から分かる、ユダヤ人と異邦人の間には、隔ての壁が存在していたとは、どの様な背景なの
でしょう?
異邦人は異教の神々に仕える教え、文化、習慣、生活スタイルに先祖代々ずっと、どっぷり浸かって生きてきた人達です。
エペソ2章でパウロが書いているように、異邦人は、イスラエルの神から、神の言葉=契約=トラーから遠く遠く離れて生きて、
イスラエルの神、言葉、ユダヤ人とは何の関わりもなかった
状態である人達だったと書かれています。
神の言葉=トラーを知らない、トラーを生きる生活も知らない、神の言葉に根付かない生き方をして来た人達=異邦人です。
2つのグループなど始めから、神の中、神の創造の中、
神の国=天の国籍の中には無いのです。
同じイスラエルの神、イスラエルの中に異邦人も加えられ1つ
家族に戻る事が書かれています。それは、歴史の最初から存在する1つのグループ=家族=神に呼び出されて応答した人達=
カハール=エクレシアなのです。教会と言う造語の言葉が
神の創造、言葉の真実を覆い隠し、教会とイスラエルとは、
別物の存在である様な意識、トリックを与えて邪魔しますが、
教会言う別名称の、イスラエルとは一線を画する異邦人だけの
グループというものは聖書に存在しない、突然出てきた別の教え、契約をもらった別のグループなど聖書に書いては無い、
人造造語=教会と言う言葉の裏にある本当の事実は、
カハール=イスラエル=イスラエルの神に呼び出された人達の群1つの群にイスラエルに異邦人も加えられ、同じ神の家族になると言うのが聖書が語る事実。そしてその家族は同じ家訓=トラーを生きると書かれているのです。それが聖書の中心のテーマ
なのです。
ユダヤ人に取っては、異邦人とは、トラーに反することをして
生きている、”荒らす忌むべき”ことを日常平気でやる、汚れた
行為をし、神の禁じる汚れたものを平気で食する人=汚れた人
と認識していました。
当然の事なのですが。イエシュアを信じた後でさえも、何が
神の目から忌み嫌われることなのか、荒らす忌むべきことなのか全然分かっていない、トラーを知らないから当然分からない、
だから異邦人は信じた後も同じくそのまま汚れた行い、習わしをずっと引きずったまま生きていた事が、記録されています。
使徒15章。
だから、ユダヤ人は異邦人とは親しい交わりなど一切無い関係
だったのです。口も聞かないし、交流も無い。住まいの地区が
分かれている、同じ地区で暮らしもしない。接点など持たない。
そのユダヤ人の動機は純粋です。汚れた人達の生き方と交わったら、自分が神の前に汚れてしまうからやりたくないと真剣に
考えるからです。
今のイスラエルでも過激なユダヤ教正統派の人々など、異邦人を同じ様に汚れた人達と見て、決して交流しようともしません。
その様な隔ての壁は、取り壊されたと書かれています。
福音は始めから同じです。アダムとエバもイエシュアを通して
父の身元、神の中に、新しい人として生きることに戻る、
アブラハム、イサク、ヤコブ全ての人に対しての救い、
贖いは始めから同じ方法なのです。神学が唱えるユダヤ人と
異邦人に対して別の福音があると言う教えは創作神話そのもの。
聖書では無いのです。
だから、”トラー、預言書”はイエシュアそのものと言われたの
です。イエシュアはまず、ユダヤ人に語っているのです。
”わたしはイスラエルの失われた羊の元にだけ遣わされた”と
どう言う意味?でしょう。ええ異邦人は?と、逆は無い。
トラーを知る人達へ、婚姻契約を受け取って先祖代々トラーを
知っている、聞いている代表者にまず現れた、伝えられたのです。異邦人に言っても通じないでしょう。分からないから、
トラーを教えられて来なかった人に、トラーを話して語った
所で、何を話しているのか分からないから。
分かる人達が、伝えるために、ユダヤ人のところに来たのです。
同じ福音を太古からずっと聞いていた。その意味を本当に
知る人達は、イエシュアが来られるのを待望していたでしょう。アブラハムも同じく、未来に来るイエシュア楽しみ、喜び
見ていたと書いてあります。
そして同じイエシュアを通して、同じ福音を通して、
ユダヤ人の側の意識も変わり、分裂が無くなる、異邦人も同じ
イスラエルの神のイスラエルのトラーを生きる家族として加えら
1つになると書かれています。同じテーマが貫かれていますから、聖書の至る処に同じ事が書かれています。
イスラエルの神を信じる人達は、人種に関わりなく、イエシュアを通して贖われ、救われ、きよめられた、同じイスラエルの神の子らである存在なのだと、ペテロも幻を見せられて気が付いたくだりがあります。ユダヤ人がまず贖われ、救われた。
その中には異邦人も少数だけど、居たのです。
その様な意識=異邦人=汚れた人=神の国に属さない人
と言う考えをユダヤ人は持っていたからです。
同時に、異邦人も使徒15章にある様に、汚れた儀式をし
異教の神々に捧げた血みどろの生贄に手を染めて汚れ、
又は神の禁じる汚れた=タメーな動物を食する様な事をしない、血を食する様な汚れた行為はしないと言う前提はあります。
神の言葉=トラーの中に軌道修正し、神の言葉を生きる生活に変えられると言う状態が、この隔ての壁は壊れた状態になると言う事が書かれているのです。
滅ぼした=無くした、永遠にお払い箱で処分したと書いてある。
これほどはっきり2つに分裂していたイスラエルと異邦人は
1つ体として=1つ家族として元どおりに神と和解させ、
互いの間に在るセパレーション、分離=敵意を十字架にかけてイエシュアと共に死に葬られ滅ぼしてしまったと書いてあります。
神学の主張する2グループ制度、時代により互いの間に溝、
隔たりがあると教える教えとは、全く逆の事が聖書には書いて
あります。
2:17 それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。<遠く離れていた=イスラエルの神、トラーの
生き方から遠く離れた異邦人>そして近く=<イスラエルの神の
中、トラーの生き方に先に引き寄せられたユダヤ人>
遠く離れている=神のトラー=婚姻契約の中で語られる
福音=トラーを生まれつき聞いたこともなかった異邦人、
神の言葉=契約の命の姿を生きる事から遠く離れていた異邦人、そしてトラーを生まれた時から聞いていたユダヤ人両方
の人達に同じ”シャローム”修復の業を宣べ伝えられた。
2:18 というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。
書いてある通りに読んだら、1つと書いてある。2つとは違う
ことが書いてあります。
パウロは完全にデイペンセーション神学とは真っ向から反する
違うことをエペソの人達、異邦人に書き送り、教え、福音の真髄、真実を語っています。
2つのグループ=異邦人とユダヤ人は同じ1つの御霊=
イスラエルの神の中に今存在していると書いてあります。
今神の中に存在して、天の現実の中に居る状態に在って、
1つ家族として父の身元にコバーン=引き寄せられ
近づくことが出来るようになったとはっきりクリアーに記されています。
2:19 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者=イスラエルであり、神の家族なのである。<将来の話ではないでしょう。今でしょう今の世界を
聖書は話しているのです。不思議です。感覚的に何も感じないけど、それが事実だからです。>
同じ神の国の国籍と書いてあります。これほどはっきり書かれていても、人の教えの色眼鏡を通してこれを読めば、1つなのに
2つと書いてあると考えるのです。7が1と書いてあると信じる、又は7が1に変わったと、本気で聖書に書いてない事を
信じるのと同じ現象です。4世紀に神ではなく、ローマが神の
言葉と神の記念日を変えたと言う事実に目が開かれれば、
どうして、聖書には”永遠普遍に変わらない神の言葉”と書いてあるのに、”変わる”と言う人間の教えの方を神の言葉を差し置いて世界に広く浸透して信じられているのか?そのからくり、方法
要素はエデンの園の地をはう動物のトリックに騙される図式と
同じです。
もちろん、地上の今のイスラエルの政府に、これを伝えても
即座に永住権は貰えませんが、神の側では、天の事実、現実では
誰でも同じ福音=トラー=契約に加えられるならば、神の子ら、
神の前には、同じイスラエルの神の家の一員であるのです。
クリアーにクリアー、疑いの余地もなく2つグループ、2つの
ファミリー制度が聖書の真実では無いことが記されています。
続く