どの聖書箇所の解説をしたとしても、土台にある思想が
ヘブライ思索、ヘブライ語の聖書の内容とは違う、異なる、
神の言葉は途中で変化した教えである、今は無効な聖書箇所が
あるのだと信じる場所から考える場合には、神の言葉に対する
解説、解釈は、どの様にでも変化球、変身してしまいます。
なぜなら、神の言葉が途中でコロコロと”変わる”ものなら、
どの様にも自由自在に人間の考えで変わってしまうからです。
その根本にある思想=神学が何を語って教えているのか?を、
聖書に照らし合わせて考えてみる必要があります。
世間に浸透、流通、長い年月伝統的に教えられて来た教え、
しかも、その神学を教える神学校から排出された数々の有名な
メガチャーチの説教者達が語る教えに反する事を言う、
書く場合には、それはまるで進化論を疑いもなく信じる世間の
中で、創造論を語る事と同じ。500年前に出てきた新説=地動説に対して、古代から500年前まで世界中が当然のごとく信じていた、存在していた天動説を語る様なものと同じで、
気は確か?と疑われ、風あたり、逆風は強いですが、
世界は今確実に動いています。真剣に聖書だけに基づき
検証し、学ぶ人たちがいるのです。
何が大事なのか?聖書が何を本当は語っているのかだけが
大事な事なのです。人の作り出した教えではなくて、純粋な神の言葉を求める意識、追求をすれば、それはどうしてもぶつかる
壁なのです。しかも、神が神の言葉をどこまでも追求し学び
知る様に人に伝えているのです。神の真実に出会うためです。
そして、人の教えに色塗られた神の言葉をリセットする、
いや聖書と、人の神学は違う事に気が付くまでに、相当時間が
かかります。始めに教えられた教えが頭を占領しているから。
私は、ヘブライ語聖書の学びから、2年経った後も、全部は
気が付いておらずこんな質問をしたのを覚えています。
”どこが違うの?”と。
同じ救い主を信じている。でもどこがどう違うのか?
その時の答えは、”トラー”だと言われました。それでもまだその時は、何がどうなのか、はっきり分かってはいませんでした。
つまり聖書を本当に知らないからです。自分がトラーを捨てた教え、いやトラーの中身さえ教えられたことがない事に
気が付きもしなかったからです。
私の思索の土台は、結局イエスさまが登場した後は、
神の言葉の大部分は終わりだと言う教えだったのだと気が付くのですが、それも一気に、一度に気がつく、分かるのではなく、徐々に徐々に真相が見えて来る、何が違うのか気がつく。
目から鱗がどんどん次々剥がれる、又は覆われていたその覆いの布が外れていくと、神の言葉の真実が見えて来る。
そして、聖書の中にある誤解されて解説されている箇所や
全くの誤訳、翻訳の中で創作された付け足された人間創作の
文章や言葉、元の言葉が違う意味に変えられてしまった
翻訳用語、言葉など。
そして、歴史の途中で様々な人達が神の言葉に手を付けて、
神の言葉を変えてしまった。理解の仕方を曲げた、その西洋宗教歴史の詳細を学ぶ事も、大きな発見、理解の飛躍の一つであったわけです。
プラス、直接ヘブライ語の言葉の中で語られている事、
聖書の最初から最後まで、同じ言葉が、同じ意味で同じ
メッセージの内容で貫かれている事実など。
そして、考古学や、古代イスラエルの文化、地形、地理、
様々な情報を得て聖書を読むと理解にぐんと手助けが来る。
世界は今正しい情報にアクセス出来る環境になりました。
同時に、正しく無い情報も山ほどありアクセスしてしまいますが、聖書に書いてある事を知れば、どこがどうずれているのか、ブレているのか、聖書の事実に照らし合わせる事が出来ます。
識別する事の出来る正しい聖書の真実を掴む事、基本的な聖書のコンセプトを知る事。
神の言葉だけに戻り検証する人達が世界には大勢います。
大きなうねりの様に、神の言葉を渇望する、求める人たち。
同じ様に疑問に思うからでしょう。書いてある事=神の言葉と、人の解説、主張、神学が相反する、矛盾する、違う。
そうすると、どうしても聖書とは異なる人の思想、哲学、神学が矛盾である事は、聖書を探れば、もう否定出来ない所まで来ます。聖書にだけ戻り、ちゃんと確かめれば証拠があるから、
否定のしようが無いのです。神の言葉を否定する意味は
何かあるのか?と考えたら無いです。いや損失だけがあります。
ヨハネ14章、それ以外にも使徒が書いた書簡=福音書から黙示録の中に書かれている内容は、トラー=婚姻契約を終わらせた
教えではなく、永遠から永遠に有効、変わらない、普遍な教え、
全人類に同等の契約書であり、インストラクションであるのです。
イエシュア、使徒達は書簡の中で語っている、教えている、
生きている内容は100%トラーである事の証拠が聖書には書いてあるのです。
聖書全体の辞書は”トラー”=モーセの五書です。
これを終わらせたら、聖書を読み解く事、解説は不可能になります。だから聖書に根拠も証拠もない、人の創作の教えが浮遊してしまうのです。
聖書を読んでいるのですが、聖書を直に教えられたのではなく、人の教え〜神学を教えらてしまった事の弊害は、
”聖書に書いてある”普遍性、変わらない、同じ言葉が綴られている事実と、神から頂いた多くの約束、恵、体験、祝福、希望、喜び、力が剥奪されてしまった事。
なので、なぜ西洋ヘレニズム思索神学=デスペンセーション
神学が聖書とは、相反する思想なのか、その根拠を先に
考察したいと思います。
この神学には、エラーがたくさんあるので、どんどん手直しされ続けていますし、聖書を取り出して検証すると実に聖書の事実とは異なる事を、多くの人が発見しています。
人間の神学から聖書を読まないで、人の教えを介さないで直に聖書を読むことは本当に必要です。先入観で、聖書とは反する思想で事実が覆われてしまうので、真実が見えなくなるからです。
その神学とは何を主張しているのか、ちょっと検証してみようと
思います。
1 この神学は聖書とは、食い違いがある、矛盾している
2 神の様々な教え、約束、保証を人から剥奪している
3 我らの救い主イエシュアの教えから人々を遠ざけてしまう
4 純粋な神の言葉=福音の事実を破壊、腐敗させる手助けに貢献している
デスペンセーション=七変化の神、時代ごとに約束も、人への
対応も違うものを提供したと教えます。聖書の言葉=神とは
全く相容れない、矛盾、反発し合う思想であります。
3つざっくりと、デスペンセーションの説教は、聖書とダイレクトに反していることがあります。
その神学を証明するために、結局神の言葉が邪魔になるので
神の永遠普遍の言葉の真実を、人の教えで塗り替えるのです。
1)神の民を2つのグループに分けてしまう。ユダヤ人
信者と異邦人と言う別々のグループ。ユダヤ=イスラエルと異邦人=キリストの体と言う2グループに分解、解剖。
これは、1体と語る聖書の言葉の意味、内容と全く矛盾し、相反する思想です。エハッド=一体の神は、人を一体に造られた事が最初に書かれています。書簡で、ひとつ体とパウロが語るのは、
それなのです。1つ、エハッド=1つの家族=体。
それを2つバラバラに分けると言う時点で、反聖書的思索なのです。敵意=人の作り出した神学や教え=聖書とは異なる口頭トラー=”律法”を壊したと書かれていますが、
この律法とは、シナイ山の婚姻契約=”トラー”では無い事に
修正しないとなりません。そして、エペソ2:16 では、なんと書いてあるのでしょう?
<十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。>
と書いてあります。
二つのものを1つに、ユダヤ人も異邦人も同じ契約に加えられ、
1つからだとなったと書いてあるのに、デスペンセーションは
それでも2つの分断したものに、分解、解剖しているのです。
2)そして分解した2グループが主張するのは、それぞれのグループには別々の救いや贖いの方法があると言う教え。完全に創作の教えです。反聖書的思索です。1つ1体エハッド、永遠普遍のイスラエルの神の性質と全く異なる教えです。ヘブライ思索とは異なる異教のヘレニズム、グレコローマ思索が土台です。
3)その二つのグループのたどる目的、運命、道を分ける。
続く