イエシュアが地上に来られる前の出来事ですが、
マカバイ戦争=荒らす忌むべきことを、ギリシャ帝国が行い、
エルサレムの神の宮を乗っ取りました。
神の聖なる家=エルサレムの神殿の中に、神の家にフィット
しない、”タメー”な動物=汚れたと訳されていますが、
神の宮、人間の食べ物では無い動物=神が祭壇に捧げること、
食する事を禁じた動物を持ち込み、神と人との一番親しく交わる場所=お茶の間=祭壇の上で汚れた豚を生贄として捧げる茶番劇をしていました。ダニエル書に預言されている、”荒らす忌むべき”ものその行為を、神の宮で行ったのです。
異邦人には、豚を祭壇で捧げる事がどうして冒涜なの?と
思うのです。神の語られている言葉の意味を捨てれば、
今は恵の時代ですから、汚れた動物でもなんでも感謝して
受け取り、神に捧げれば良いのですと考えるのでしょうけれど、
今この時も、神が創造の最初から作られた”タメー”な動物は、
永遠にタメーであり、タホー=きよい動物に進化、変化しないのです。
この出来事は、黙示録の箇所の、神殿に再び荒らす忌むべきものの行為がなされる預言と同じ内容、性質の冒涜が行われるのです。とすると、トラーが呪いで終わりなら、この黙示録の預言の
意味、内容が全く無効になる事に気がつくでしょうか?
今はなんでもありです。汚れも、きよいも区別がありませんと
言う教えだと、全く意味不明なダニエルに託された預言、
黙示録の預言に繋がる事になってしまいます。
しかも、聖書で福音書以降書かれている、”聖別”の意味も
トラーが終わりならその定義は消え去るのです。
神の言葉が語る聖別の定義は、トラーに書かれていますから。
聖書で使われている言葉は、最初から最後まで同じ意味で、語られているのです。
創世記から黙示録までの”聖別” 聖なるの意味は、同じことを
話しているのに、矛盾してしまいます。
ダニエル書で語られる、トラーに語られている神の目から見た、
冒涜、汚れをする事が書かれているのに、トラーが終わりなら、
ダニエル書の預言も黙示録に繋がる預言も意味不明な中途半端に
分からないものになります。
ギリシャ帝国は、ユダヤ人達にも同じ様に、ゼウスの神を拝み、汚れた儀式、汚れた動物の生贄を食べる様に強要し、これに抵抗したユダヤ人達が起こした事件が”マカバイ戦争”でした。
汚れたこと=使徒15章に書いてある異邦人がイエシュアを信じた後も、変わらずに異教の神々の世界に足を突っ込んでいた事から、足を洗う様にパリサイ派の長老達がはっきりと提示した事が”エルサレム会議”の内容です。それと同じ事=異教の神々の
教え、儀式に参加することが、ギリシャ帝国下で、アンテイオコス皇帝が、ユダヤ人に死刑を持って強要したことなのです。
荒らす忌むべきものの行為。
その事に抵抗した、ユダヤ人達。神がユダヤ人に大帝国ギリシャ相手に勝利させてくださった記念の日が、”ハヌカ”の祭りです。
異邦人意識なら、豚でもへびでもわにでも食べて、仲良く交り和を保って、エキュメニカルに同和、同化すればいいじゃんと
思うのでしょうけれど、契約の民である、トラーを知る人たちにはそれが神の目にどんなに汚れで冒涜なのか分かっているから
出来ない。死を覚悟で抵抗したのです。
ギリシャローマヘレニズム思索は、ヘブライ思索と異なります。
ヘレニズム哲学は一言で表すのは難しいですが、
バラバラ、分割、線上に物事を見る、体は悪く、魂は崇高など、
全くヘブライ思索と異なるのです。
エハッド=1つの神と言うコンセプトが無い。
だからそのヘレニズム思索が土台にある人が作る神学は、
時代ごとに神の顔が七変化すると、神の言葉、契約、約束が途中で変わると言う考え、その様な思索で聖書を読み取り、眺めているのです。
その神学の土台には、ヘブライ思索のヘブライ語聖書から
読む、エハッドの神と永遠に変わらないエハッドの神の言葉、
契約と言う思索が抜け落ちているからです。
人間の哲学思想から、ヘブライ思索の聖書を読むと、純粋な
ピュアの生粋の神の言葉から人間思想に塗られた教えに変身して
しまいます。
ギリシャ語=ヘレニズム文化が入り込むと、聖書翻訳にも、
ヘブライ思索とは異なる、ギリシャ思想の別のコンセプトが
混ぜられてしまいました。イエシュアが地上に来られる前に
入り込んだ思想です。それがギリシャ語翻訳の中にしっかり
反映されてしまっているのです。ギリシャ語の翻訳の英語、
そして日本語翻訳は、翻訳の又翻訳です。しかも、ギリシャ語
ヘレニズム思索が盛り込まれてしまったのです。
私達が翻訳で読んでいる、霊、魂、心<体>と別々の言葉で書かれている言葉も、元のヘブライ語では実は1つの言葉なのです。それらは翻訳なのでバラバラに書かれているだけで実は
ヘブライ語では1つの言葉なのです。
生きる存在=ネフィッシュと書かれています。
そのヘレニズム思索を土台にすると、エハッドであるイスラエルの神はバラバラの神、聖霊様と、イエスさまと父と分かれて
しまうのです。
以前、聖霊様を無視しないで、聖霊様に向かって、積極的に
語りかけましょう、聖霊様が悲しがりますと言う教え本で読んだ事がありますが、ヘブライの思索の世界には、バラバラの3人の神という思索がありません。
だから、”わたしを見た者は父を見たのです”とイエシュアが言われたのです。しかも、神の名は3つだけではなく、たくさんの名があります。神の性質を表す、神の実態、評判、特徴=名だからです。
神の性質と神の言葉は一体です。だから1つ以上で全く1つ。
人も心、体、感情、体も手や足だけ取り出してその人と言えないのと言う事と同じなのです。丸ごと=シャローム=欠けの無い
存在で1つの存在=ネフィッシュだからです。
そして変わらない。人間の知恵では解説不可能、不可思議、
理解を超えた内容なので、信仰で受け取る以外無い世界です。
誰か人間の知恵、言葉でそれが全て言い表せると言う人がいたならぜひ教えて欲しいくらいです。人間の頭脳を超えた世界の神と
言う存在を神が人間の言葉で表しているから、分からなくても
そうだと受け取るだけしか無いのです。
そして、神が永遠普遍と言っているのにも関わらず、その神の
言葉を退けて、人間の定義で、神は契約を、口から出した言葉、約束を途中で翻したとなってしまっていますが、聖書の事実と異なります。
だからユダヤ人に取っては、西洋ローマキリスト宗教の神は、
3人バラバラの神だと言っていると思っています。
中世西洋宗教画でも、描かれている絵は、父が居て、子が居て、鳩が上を飛んでいて、太陽神のマークのへーロー=輪っかまで
頭の上に乗っていて、しかも女の神まで居ると思っています。
ユダヤ人が見たら、トラー、預言書に書かれているエハッドの
神では無いと確信するのは無理ないのです。
人間の編み出した思想、宗教が実はユダヤ人が2000年前に
地上に来られたあの”イエシュア”が、トラー、預言書の救い主であると言うことを知ることを妨害しているのです。残念ながら。
イスラエルが救い主を知るために祈ろうと言うなら、聖書をまずちゃんと曲げないで、語る必要があるのです。
トラー、預言書に書かれた救い主が、2000年前に地上に来られたイエシュアが、その方であると認識していに、知らないだけで、ユダヤ人、彼らの方が、はるか彼方の差ほどに、よっぽど
聖書を知っています。
西洋宗教が語る教えが、作り物に聞こえるのは無理ないのです。
その様なバラバラの神、ユダヤ人と結んだ婚姻契約を解除して、ユダヤ人を見捨て、異邦人に乗り換えて別の契約書を2000年以降に与えましたと言う神なら、それってなんの神?
とトラー、預言書から考えるからです。
その様なイスラエルの神像は、不真実であり、作り物の都市伝説、ローマ皇帝が作りだした、ユダヤ人を迫害する教祖様の
新宗教だと本気で彼らが考えていることを、ちゃんと考えた方が良いと思います。
聖書とは異なる思想で塗り替えられた神像をなぜ世界へ
伝達してはならないのか?は明らかです。
神が禁じている。神の真実が曲げられて誤解されてしまい、
神の語る真実、本来の喜び、解放の事実に繋がる出来なく
なるからです。
続く