今日の晩から、ハヌカの祭り8日間が始まります。
この記録は聖書にたった一箇所、ヨハネ10:22にあるだけ。
しかも”救い主”自らが、ハヌカを祝うためにエルサレムの宮の中に居た記録が書かれているだけです。この事には大きな意味があります。救い主が、ご自分の宮を、宮の機能通りを取り戻し、
再奉献した祭りを祝っていたのです。
冬至の時期、冬の時と書かれています。
これはなぜ冬なのか?異教の神々の祭りが行われる日と重なる
日なのは、神の宮が異教の神々の祭り、儀式で汚された事を取り戻した記念の日だからです。
そしてクリスマスと同じ日程にかぶるのは、クリスマスの日が
冬至の時期と同じなのは、異教の神々の祭り、冬の太陽神の祭典の時期に、救い主が生まれた事に決めようと4世紀にローマ皇帝
コンスタンチヌスが、ニカイア会議で国の宗教として、
アレンジ新宗教を作った際に、記念日も、もともとある地場宗教、当時の大衆宗教=太陽神の記念日と同じ日に、聖書にある
意味ある日を記念日として定めた事が由来です。
人間”が設定した日がその25日だからです。冬至=クリスマス 春分の後の最初の日曜日=イースター。もともとあったローマ
帝国皇帝、太陽神の日=サンデー、サンデー礼拝日と決めた。
神のトラーは終わり、ヘブライ色ある一切は終わり、ヘレニズム化、シャバットは終わり、神の祭りは終わりとしたのは
ローマ皇帝であり、神の言葉では無い事、聖書の事実にだけに
目を留め、聖書だけに戻れば書いてあります。ダニエル書7:25に預言された通り、神のトラーと、神の時=祭りを変える、
荒らす忌むべきものの預言にある通りがここでも行われて
しまったのです。
サンタクロースの神話の様に、クリスマスも12月25日と
言うのは、人間が架空に設定した日なのです。事実にまず目を留めないと見えてきません。救い主の誕生は事実です。でも生まれた時期は12月では絶対無いです。神の記念日に神は全ての
預言的事柄をなしている事実と照らし合わせても分かります。
イスラエルに居れば分かりますが、今冬です。ダニエル書の預言、黙示録の預言にぴったり繋がっています。聖書の事実ではない事を事実としてしまう警告が書かれています。
トラーを消し、神の言葉を人間の教えで再定義する事に
ユダヤ人がずっと抵抗している事、違う神像を世界に伝えてはならない責任を考える必要があるのです。事実通りだけを伝える。
寒暖の差が激しくて、イスラエルは夜なんぞ、気温がぐっと下がってダウンジャケット着ていても、寒いです。5度以下なんて
そんな時期に羊を外で放牧させて野宿なんてしない時期なのです。新潟の冬、12月の寒さの中、素足で田んぼの水に入って田植えするって言うのと同じ事です。
ハヌカも、クリスマスも両方、冬至の太陽神の記念日、
これから、日照時間が長くなる日、異教の神々の記念日の時期に来ると言うのがその本当の理由なのです。
ハヌカの祭りは、異教神ゼウスの神を拝むギリシャ帝国から、
イスラエルの神の聖なる神殿を取り戻した日、ゼウス神の
神の祭りを冬至の時期に、エルサレムの神殿を乗っ取ってやっていたからです。
そして、クリスマスも同じく異教神の記念日が裏にあるのです。
両方同じ時期に異教の神々の祭りが背景にあるから、だから両方とも同じ日程に重なるのです。
ハヌカの祭りが始まったのは、紀元前”マカバイ戦争”の勝利で
異教徒が異教の神々の汚れを持ち込んで、神の神殿とその祭壇を汚された事から、神殿の中の全てを建て直し、清め、取り戻した事を記念する祭りとして祝われるようになりました。
だからタナック、<トラー、預言書、諸書>の中には記されていないものです。レビ記23章以外のイスラエルで祝われる祭りで
タナックに記されているのは、”プリム”のみです。その他の
国の記念日などは、色々ありますが。
エステル書に、あります。プリムがその後ずっと祝われる様になったと言う記録が書いてあります。
クリスマスはずっとずっと後、今の様に祝われる様に定着したのは、本当に近代になってからです。クリスマスに関するクリスマスリースやクリスマスツリーや飾り物の数々なども、キリスト
教が取り入れて定着したのも近代です。それ以前は、異教神の冬至の祭りで使われた異教の神々に関わるシンボルとして存在していたのです。それをキリスト教が取り入れて、キリスト教風に
意味付けてアレンジしなおしたと言う事です。
ハヌカの本当のヘブライ語の意味は、”捧げる” 再び神殿を
再奉納したので、”ハヌカ”と呼ばれます。ひかりの祭典とか、
宮きよめの祭りと訳されていますが、本当は”ハヌカ”です。
神殿と聞くと、以前の私は、”神殿”に関わる人が、反キリスト。
だから、救い主を待ち望み、第三神殿建設を計画するイスラエルは反キリストの仲間と言うのも聞きました。でも、神殿は
イスラエルの神の家なんですよね。神の家が強盗に、荒らす忌むべきものに乗っ取られてると言う事です。
自分は神の宮ですと呼びながら、神殿は、トラー同様不必要、
要らないもの、悪いものと言う印象でした。
今はキリストが来られたから、神殿は不必要、神殿での様々な
儀式、教えも不必要、神の祭りも全て仮の教えだったから、
今は不必要と教えられました。人の中に神が住まうから。
だったら聖書の最初の人類から、神は人の中に住まう、インマニュエルの神です。しかも、イエシュアが怒られたでしょう。神殿を荒らす人達に対して。そして、再びイエシュアが来られたら
神殿でまず仮庵の祭りがあると書いてある。と言う事は全世界が
シャバットを祝い、神殿でコバーンも捧げられる。そうすると
意味不明になります。トラーが終わりなら。
それは、その教えをした人が、西洋神学を信じていて、
ヘブライ語のトラー=聖書に書かれている本当の意味を知らなかったからだと思います。
使徒15章にも繋がりますが、神が語るダニエル書の預言
”荒らす忌むべき”ものの定義は一体なんなのか?
どんな事が神の目に、過去も、今も未来も”荒らす忌むべき”ものなのか、まずその点をはっきり知れば、次々と繋がり見えてきます。もしトラーが終わりなら預言書は意味が無いです。
なぜなら、預言書、預言者は、”トラーを捨てた生き方”をする
人達への警告が中心。悔い改めと言う翻訳用語を聞いていますが、悔い改めとは、神のトラー=言葉=婚姻契約の生き方に戻ると言う事を、聖書では言っている事に気がつけば、西洋神学の教えが聖書とは辻褄合わない事に気がつけると思います。
あなたははじめの愛=トラーを忘れたと黙示録にも、はっきり書いてあります。でも異邦人の場合、トラーさえ始めから知らないから、何を忘れたと言われているのかも分からないと言う事になります。忘れた=以前は知っていたと言う事、それが無いまま。トラー=婚姻契約=モーセの五書を教えられなかったからです。
戻る場所、定義が無い。神の中に戻るとは、人は神の与えた婚姻契約の生き方に戻ると言う事が創世記から黙示録まで一貫して
書かれているテーマだからです。
トラーが終われば、ビルは崩壊。柱を倒したら、建物を支える
重要な根拠が全て無くなるからです。
トラーがなければ、罪の定義も無いし、荒らす者の定義も、
忌み嫌うべきものと言う意味の定義も、跡形もなく木っ端微塵に
空中分解するからです。何を根拠に、元に、中心に語っているのか意味不明になります。聖書は全て100%トラーが語られているのに、それが見えないのは、人間の教えの覆いが邪魔しているからです。トラーは廃れた、呪いの教えと教えられてしまったから
そう考えるだけ。聖書に根拠の無い人間の教えを聖書と取り違えているからです。
マカバイ戦争が起きたきっかけですが、これは、”神の宮”
私たちは天の祭司、神の宮と宣言するなら、聖書にある神の宮、
神の宮の祭司が何かの定義をまず知る必要があります。
目に見える世界と目に見えない世界。あえて使う言葉にしますが、霊的と物理的はぴったり一枚岩でマッチしています。
なぜなら、天の見えない現実を地上で物理的に見せて、
五感で体感させたのが”神の家”エルサレムの神の神殿だからです。天にある神の神殿を地上のレプリカで見せて、その中で
神の子らの生き方の全てのエッセンスを儀式を通して、
シャバットを通して、祭りを通して、体感し学習させる機能があるからです。これは別のトピックなので書きませんが、神の宮の定義を知らないと見えてきません。
それが分からなければ、何が荒らす忌むべき事なのか、
見えてこないからです。特に使徒15章にあった異邦人イエシュア 信者と同じく、イエシュア =イスラエルの神を信じ、神の子らになった後も、汚れを取り込み続けている事が分からず、無感覚なままだった事が書かれています。
なぜ?忌むべきものが分からない。神の目から見てご法度な事が分からない、トラーを知らないからと15章に書かれています。
でも、毎週シャバットにトラーを聞いて行けば、何が神の目から
忌み嫌うべき事なのか、自分達の習慣の中に根付いている事
でも汚れである事に気が付いて行く、又神の家に暮らすイスラエルの神の子らの生き方が分かるとパリサイ派の長老が言った
事に繋がるのです。これはダニエル書、黙示録で書かれている、
”荒らす忌むべき”ものの定義にぴったり同一な内容なのです。
続く