ダニエル書の預言=黙示録の預言は ハヌカの事件の中の型と同じ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

話が前後左右しますが、イエシュアが来られて、山上の垂訓など

又は弟子達に道すがらトラーを解説していたその所に、群衆が集まって来て、皆イエシュアの話に聞き入った事が福音書に書かれています。あれは、路傍伝道しているわけではないのです。

なぜなら当時のユダヤ人は皆トラーを知っているのです。

イスラエルの神を知っている。トラーが街中で語られるのは普通の日常なのです。

 

移動中の道すがらイエシュアが弟子達に教えていたら、関係無い人達も周りにどんどん集まって来てしまったと言う事です。

道端で紙芝居を子供にしていたら、みんなが集まったみたいな。同時に地元で聞きなれない名前のラビ、新参者が居るぞと聞いたら、その教師は一体どんなトラー解説をするのか、他の人達も

その教えやトラーの解釈をチェックしに来たのが1世紀の世界なのです。ましてや、トラー以外の関係ない作り話や、トラーを

終わった事にした教えなどしない。

 

だから、当時のユダヤ人の世界では、教師達がトラーとはズレ

た解釈をしていたら”破棄した”と言う、トラー通りなら”成就”

=トラーに書かれた意図通りと言う当時の慣用句で書かれているのに、トラーは終わりと現代の西洋神学を信奉する翻訳者や、教師は解説しますが、聖書の中では全く違う意味であるのです。

 

消せない事実=”神の言葉は永遠” トラーは廃れないと言う事が

大前提で聖書は書かれている、これを”破棄”=神の言葉の意図とは違う解釈をすれば、それこそ人間製造の聖書解説、コメンタリーは自由自在に編み出せると言う事です。

 

そして、聖書に出てくる人で、聖書記者で聖書学者の中で

誰一人として、”トラー”を否定する人など存在しない世界が

聖書に書かれていて、全てはモーセの五書=父の言葉が全ての教えの基準、唯一絶対のテキストとして語られているのです。

 

西洋神学の世界では、神の絶対的権威である言葉=トラーではなく、始めに人間の教え〜神学ありきが土台で、神の言葉が呪い、

律法、廃れた、一時的の仮の教え、恵を無駄にする生き方の教えは、イエシュアが来られたから終わった事として語られるてしまうから、そこからボタンの掛け違いが起きると言う事が起こってしまったのです。

 

よく考えたら見えて来ます。

イエシュアは、トラー=古い、恵なし、呪いの律法を捨てた

新しい教えを語っていると教えられて来たと思います。

でもイエシュアは、わたし=トラー、預言書と言っています。

ヨハネが、トラーが肉体を取って来られたと言ったその事と

同じ意味の事です。

イエシュアがサタンの大御所と戦った時、弟子達に、群衆に、

又は個人個人に話された時、全て、申命記や、レビ記などなど

モーセの五書から”父の言葉”をそのまま宣言、そしてトラーの

内容を天的に解説し、諭しているのです。聖書の事実だけを繋げていくと、ジグゾーパズルのピースが繋がる様に、神の言葉の真実の絵柄が浮き出て見えて来ます。

 

トラーを、神の目から見た通りの、ヘブンリー=天的解説をしていたのです。だから皆が驚いたのでしょう。神が直接語るトラーの真意は、人が解説する人の教えで塗り替えられたものとはダントツに違う!と。命の息吹きが吹き荒れる、血の通ったほんま物解説、生き方。イエシュアがトラーを否定すれば、ただのまやかしの教えだと識別出来る、トラーを知っていた当時の1世紀の

ユダヤ人達に向かってイエシュアが話しているのです。

 

マルタとマリヤの家で、マリヤが足元でイエシュアの話に聞き入っていた下り。何をイエシュアから聞いていたのですか?

あれは全部”トラー”の解説です。

パウロの書簡も全て、日常生活、諸外国で生きる様々な問題が

起きているその対処を、トラーからの解決方、適用、解釈を話しているのです。パウロがトラーを捨てた教えなど、イエシュア 同様してなんぞいないのです。

ナジル人の誓いを神殿で動物の捧げ物をして、トラーを捨てていると言う疑いをはらす証明していたと書いてあるでしょう

それだけで理解出来るでしょう。パウロはその場その場で、

カメレオンのごとく、適当な事言ったり、やったりしていたら

それこそ本物の偽預言者です。

 

そしてもしイエシュア又はパウロ、弟子達がトラーを否定する

別の教えをして生きていたならば、どうなると思いますか?

当時の人はイエシュアが、トラー、預言書に書かれた救い主では無いと認識してしまった事でしょうね。

そして、トラーを塗り替える、父の言葉を再定義し直し、違う事を教える人が居たら、神に対す冒涜罪、石打の刑。偽預言者と認定される。だから、自分を神と宣言したイエシュアはローマの

最高刑で、”木にかけられた”イスラエルの最高刑は、”石打”です。古い呪いの仮の教えをイエシュアが一掃し、新しい教えを

イエシュアが語り、生きたと人間が作った間違った教えを聖書の言葉だと信じ込んでいるから、聖書の記述と辻褄が合わないのです。

神の言葉はどの場所の一点一画を取り出しても、永遠にどこも

変わらない。それは、自分が継承したDNAのどこかの部分を、

後から変える事が出来ると言っているのと同じ事、ありえない

事を、本気で信じて言っているのです。

 

これらはハヌカの事件=荒らす忌むべき物の内容に繋がるのです。神の言葉、トラーとトラーを生きる人、神の国、神の言葉、神の言葉を生きる人達を抹消せよ!そのギリシャ帝国の弾圧に

抵抗し、マカバイ戦争に立ち上がったユダヤ人の動機です。

その中に居たのは、残りの民でしょう。アブラハムやダビデの様に、これから来る救い主を待ち、同時に未だ見ぬ同じイエシュア =救い主の実態を見ずに信じて、同じ贖い、救いの事実を内側に得て生きていた人達。そうでなければ、こんなパワーは出ないでしょう。命がけで、神の言葉を生きる事をガードする、聖霊に導かれて生きていたユダヤ人達。

 

この反骨精神どこまでも異教の神々の教えに同化しない、命をかけても迎合しないぞと言う意識がなければ、ユダヤ人は今存在しないし、救い主の誕生もなかった事になるのです。ユダヤ人は

絶滅。

 

ダニエルの預言と最後の章、最後の啓示である黙示録の書。

”荒らす忌むべきもの”とは、ハヌカの事件と同じ内容で、

ハヌカがその最初の現れ。それが歴史の中に何度も起きている

事がダニエル書の中に預言として書かれているのです。

 

荒らす忌むべきものが何であるのか、聖書に書いてあります。

”神の言葉=婚姻契約=トラーと、神と人が婚姻契約の中に

結ばれている事実を表す印、神のトラーと神の時を破壊する、

荒らす忌むべきものとクリアーに書かれています。

エデンの園の出来事と同じ。イエシュアが最後に潰すのは、

神の言葉と神の子らを消そうとする”反キリスト”の正体そのもの

です。その反キリストは神の言葉、時を変えるものと書いてあるのです。

 

イスラエルの神、神の契約=言葉、神の民、神の国を滅ぼす。

 

この出来事は、歴史の中で何度も起きています。4世紀、ローマによる神の言葉の塗り替えもありました。トラーは終わりと

人間会議で決めた。人が神の座に座った。ニカイア会議。

そしてそれが世界に浸透し、皆が受け入れて行った。

 

抵抗する人達ももちろん大勢いました。新しい教えに迎合し、

同化するようにユダヤ人、異邦人イエシュア信者も、重税、

そして死と言う迫害をもって、強いられた。

異邦人イエシュア信者も今のような教えではなく、トラーを生きて、神の記念日を生きていた事実があるのです。でも弾圧に耐えられないから、異邦人イエシュア信者はローマの教えに迎合して行った、全て政治的理由です。神の言葉を捨てて、長いものに

巻かれるのは異邦人は簡単にできる。マカバイの様に、死を覚悟して神の命を生きようなんて思わないから。

 

ローマの教えを生きたくないユダヤ人は深く静かに地下に潜行、散って行ったのです。ユダヤ人イエシュア信者も、トラーを

ガードして生きていたのです。でも、こうやって世界からトラーを生きる事を弾圧されて行く、そしてローマが神の言葉に手を

加え、荒らし忌むべきことをし、シャバット、神の記念日も捨てさせ、割礼も禁じることをしていけば、そのうちユダヤ人は、

その”ローマの教え”が眉唾ものであると後の世代のものに伝え、西洋宗教の語る救い主=偽預言者像である事に対して抵抗するようになって行ったのでしょう。

 

そして、その後、ハヌカと同じ事が起きます。

ギリシャ帝国で成功しなかった”ユダヤ人全部殺戮”を

又繰り返し行ったのです。

1948年5月14日にイスラエルの国が再び復興します。

世界に散っていたユダヤ人が神の国、イスラエルに集められ、

イスラエルの国が国として再建された後、ホロコーストが起き

ました。ユダヤ人絶滅。ワンワールド目指し、ヒットラーが

現れました。

 

続く