使徒15:20 異教の神々の要素に侵入する境界線を見極める | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

15:20 ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい

 

この箇所を見ると分かりますが、全て”異教の神々の神殿”へ

詣でる事に関しての内容なのです。

 

異邦人信者は、異教の神々の寺でする汚らわしい行いに参加し、汚れを引きずり、継続しながら、我々の仲間には入れないのですよ!と言う事を、ちゃんと認識してもらおうとしたのが、エルサレム会議で決議で決まった、交わる上でのやってはならない最低限の4つのルールです。

 

最低限をまず知れば、交わりに入る時に、ユダヤ人に対して無礼ではない、ドン引きされない、誰をも不愉快にさせない、

心地よく交わり出来ることは大事だから守ってくださいと言う事を決めて、話しているのです。

 

この様な箇所を、トラーが終わったので、異邦人は4つのことだけ守れば、後はなんでもやっていい、なんでもありなんて言う

教えにされてしまった事に、クリスチャンの世界の教えではなっていますが、聖書に出て来る信者の誰一人ともトラーが終わりだと語るわけない世界であると言う事を知った上で読めば、ちゃんと何が書いてあるのか見えてきます。

 

私たちの文化に当てはめても、分かるのではないでしょうか?

日本人の宗教はヤオロズの神。日本人は何でも受け入れるのが

美徳と言う意識がありますよね。

救い主を信じていても、それがどう良くない事なのか、はっきり

分からない、言えない、汚れを取り込んでも余り気にしない、

いや神の目から見て、何が汚れなのか、トラーを知らない場合には分かり得ない。トラーに汚れの詳細が全部書かれているから

です。そこを知らなければ、分かり得ないからです。

汚れの詳細は、福音書以降で、事細かな詳細はリピートされて

書かれていません。なぜなら、トラーを知っていることを前提に、モーセ五書以降の聖書は書かれているからです。

 

なんでも、寛容に全てを受け入れるのが良い事、それが愛、美徳だと混同している意識が有ると思います。

そして誤解してはならないのは、私たちは、同時にこの世で生きていますし、諸外国では異教の文化に生きています。社会と

私生活は、切っても切り離せないものがある。

 

でもイエシュアを信じるものは、はっきり知らないとならない事があると書かれているのです。使徒15の様に。異教の神々を

信じる異教徒の信仰の人達を、とやかく批判などすることは、

面と向かってしてはなら無いのは当然でしょう。失礼でしょう。

 

分からないから、本気で偽物の神を信じている。自分だってその場所に以前居たことを思い出すのです。分かる人の間だけでは、何がどう違うのかは話せる。信仰とは個人個人の問題、選択の

領域の話だからです。人にとやかく生活の細部の指示する事は

しない。してはならない。

 

でも同時に、自分達もイスラエルの神以外は、別の霊=悪霊であると言う認識は絶対に必要なことなのです。

だから、どんな異教の宗教要素も、イスラエルの神以外は、

悪霊が出どころである事を知って、自分の中に決して取り込んではならないと、神が私たちへ警告されたことを知ると、はっきり見えると思います。だから、パリサイ派のイエシュア 信者達は、神の前に、自分の中に汚れを取り込むことが断固としてあってはならない事と知っていたから、異邦人達をプロセライト=異教の世界から完全断ち切る事を、させようと考えたのでしょう。

 

特に見分けられないもの。冷たい<異教の神>か熱い<本物 

イスラエルの神>か、中間の”生ぬるい”とは、混ぜ物=汚れを取り込み、生ぬるい状態です。異教の神々の教えと混ざる、同化、迎合=生ぬるい=混ぜ物の教え、異教神の要素を取り入れる事=グレーゾーンの領域を生きる事です。

 

しかも、それらの異物は知らない間に、自分の意識の中、生活の中に簡単に忍び込むと言うこと、サタンは盗人の様に忍び込むと書いてあるでしょう。だから注意が必要なのです。

 

どの行事、祝い事をとっても、その裏には異教の神々の存在が

あり、その神々へ祈願、お恵み、祝福を懇願しているでしょう。

全ての記念日などもそうでしょう。繁栄、祝福、長寿、幸せを

願う。誰に願うの?て事でしょう。

 

盆暮れ正月。ひな祭りに、子供の無事な成長を祈る。誰に祈っているのかはそれぞれの空想の神々にですけれど。お宮参り、

様々な記念日、お祝い事、五月の節句、七五三、節分、冬至、

お彼岸 etc etc etc

冠婚葬祭の行事には、必ず異教の神々への祈願と、祝福、ご利益厄払いを願いますし、会社の行事だって商売繁盛は、何がしかの神々に向かって祈願しているのです。それぞれが、祝い事の時、

葬儀の時、何かの存在に対して祈っているわけです。

 

その時に、イスラエルの神を信じるものは、どの程度まで一緒に

参加する事が許されることで、これ以上先は完全に偶像礼拝に

参加する事になってしまうのか?と言う判断は、必ず迫られる事、誰でも日本や諸外国でも経験しているでしょう。だからと

言って、別の信仰を持つ、親戚の結婚式や、葬儀には一切出ませんと言えば、完全に世捨て人になりますよね。この世を出て行かなくてはならないとパウロが言ったみたいになってしまいます。

 

もし冠婚葬祭に参加しなければ、非礼、冷たい人だと誤解されてしまう。職場で、異教の神々を信奉する上司や社長の下で働いている人だっているはずです。会社自体が宗教団体が母体で、創設されて、宗教に繋がりがあるかもしれない。

完全にクリーンな団体、会社なんて無いでしょう。異教の神々に繋がる誰かがその中に必ず居るからです。

 

町内会の祭り行事のお手伝いなども、悩みのタネ。裏方の仕事は良いけど、神々に祈ったり、自分が自らお神輿担いで、

ワッシショイなんて言いたくない。神々の名や神社や寺の名や

異教の神の祭りの名が入っている法被やTシャツ着せられたくない。

でも、屋台で売っているお菓子は、子供達は買って食べても

いいでしょうと。それが後にパウロが偶像に捧げた肉=それは

偽の神=人間の手で創作したただの作品=偶像だから、気にしない人の間では、いいでしょうと言う事を語っているのです。

でも、気にする人の中では、やっちゃダメ!

弱い人=信仰の浅い人は、あれこれ気にするかもしれないから=悪霊を内側に取り込むと思うかも知れないから、罪を犯しているかもと考えるかも知れないから、その人達にはつまずきを与えないために、配慮してと言うことです。

 

その要素も混ざって使徒15では語られているのです。つまり、異教の神々の寺へ親戚の行事で行った時に、偶像にいけにえを

自ら捧げる事なんてご法度ですよね。

でもその神殿の、外の庭で皆と食事するのは、いいでしょうと言う事。でも血がついたレビ記21にある汚れた動物は食さないでと言うことは必須。その線引き、状況による判断が、自分の生活の中でも常に問われるのでしょう。でも迎合、汚れとは交わりたくない、交われないと知っている。

イスラエルの神の子らとして。神の名を否定する、汚す、

人に迎合、同調するために、神の実態を偽って表す事は出来ない。

 

日本人だって、寺でお葬式があり、そのお寺の付属の施設で

葬式の後の振る舞いの食事があったら、招かれている手前、

参加しますよね。

お寺のお坊さんが読経した後に、お寺関係の人が作ったご馳走を

食べる。日本では、生贄など捧げないし、たとえ異教徒である誰が調理しても一緒に食事すれば良いでしょう。そう言うことです。寺に行ったとしても、自分はそのお寺の神々やらに祈りはしませんと言うことです。異教の神々の神殿、雰囲気に入るのは

嫌ですが、個人として香典は親族に渡す。

ユダヤ人は、この異教徒達の神殿の忌まわしさを取り込まれたくない、だから”プロセライト”して欲しいと最初に提案したのです。

本当は一切そんな異教徒の要素を持ち込む人達が出入りする場所とは、関わりたくない。異教の要素を間接的にも持ち込まれたくない!でもそれは無理でしょう。彼ら異邦人の家族、親族の世界と切り離すのは、異邦人には残酷すぎる事です。

 

自分に当てはめて、もしイエシュアを信じたら、あなたの家族は

仏教徒だから、偶像に満ちたその家を出なさい。又は家にある

偶像をあなたが全部処分、捨てて、破棄しなさいねと言われたら、そんな事出来ませんよね。おばあちゃん、おじいちゃんの

大事な物を、勝手に捨てて、処分出来ない。当然の事です。

そんなことしたら、逆の立場で考えたら分かるでしょう。

家に帰ったら、我が家の宗教では無い、まがい物だ〜と自分の聖書が捨てられていたら悲しいでしょう。ひどい事するって思いますよね。同じです。そして大事な関係にヒビが入るでしょう。

本末転倒。トラーに基づく生活の中での様々な状況に対しての

対処、適用、知恵が必要になる訳なのです。

でも絶対超えてはならない、境界線を知っておく事は外せない。

これらが、”エルサレム会議”の中身と繋がる事です。

 

 

続く