ヨム キプールを生きて 仮庵の祭りの準備の日々 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書を読んで行くと、気が付く事がたくさん出てきます。

神の言葉を通して、神が人に対して数々の質問を投げかけて

来るからです。

 

そして、記述の中にも、神が直接人に質問している箇所も

たくさんあります。

 

そして、聖書を読んで行けば、当然質問、疑問が湧き上がります。

 

なぜ神が人にこの様な質問して来るのか?何でこんな事が

書いてあるのか?

 

それは、神が語られている本当の意図、中身を考え始めるきっかけを与える事になるからです。

 

神の言葉に基づいて考えて行けば、神の言葉の路線、神の意図

的=トラーに当たる路線にちゃんと乗れば、神の意図通りの回答に辿り着く=発見するからでしょう。

 

だから、聖書を読んでいて、どうしてこんな事書いてあるのだろう?と疑問に思い、考える事は大事な事なのです。

たくさんの問いかけが置かれている。

 

永遠普遍の神の言葉、真実が書かれているのに、それを、

人間の教えでは、もうこれは終わった教え、面倒臭い、

ややこしい教えさと教えられて、聖書の古いと称されてしまった箇所を読む事さえしなければ、神からの問いかけを考えるきっかけさえも、奪われてしまうのです。

 

”クリスチャンは、トラーなんて<旧約聖書と名付け>古い、

今は関係ない、特に異邦人には今は関係の無いややこしい、

難しい教え位に思っているんですよ。”と以前、ヘブライ語聖書の教師でもある友人に言ったら、目を丸くして驚きの

リアクションをしました。”神の言葉が面倒臭い?と言うの?

それを聞いた時、今まで主流に教えられて来たその教えの根底にある意識が、どこか神の意図とは全然かけ離れた、ずれている

場所にある意識である事に気がつきました。

 

そうですね。何で神がそんな事を言われるのか、面倒臭い教えと一くくりにして、読まない、調べない、考えないなら、それ以上奥へは決して入って行けないでしょう。奥の親しい茶の間での会見に至らない。神の口から直接語られて、永遠普遍である、

変わらない神の言葉、約束、保証であるのに。

 

大贖罪日、最後の裁き、審判と言う、その言葉から想像するのはとてつもなく恐ろしい〜現場。

 

神の前で申し開きして、裁かれる〜と恐ろしい場面だと思う。

 

でも”裁き”とは実はそんな意味ではない。その意図、中心は、

”解放”です。

 

呪縛から、騙しから、苦しみから、理不尽から、不正、不当な

扱い、状態からの解放です。会社や学校、社会で言えば、

いじめ、モラハラ、セクハラ、パワハラ、無理な要求や、自分らしくない人の価値観を押し付けられて生きさせられる事を正しく解体して終わらせてくれたら、やられている人には、素晴らしい解放ではないでしょうか?

 

正しく審判、判断してくれるお方が居て、解放をもたらす。

出エジプトと同じです。

 

偽の神々=偽の基準、偽の価値観、偽の生き方からの解放が

必要。

来るべき新しい世界は、この世の基準や不正、歪み、神の創造のデザインを変形して生きる事などがない、神のデザインした通りの、オリジナルの状態の世界になる事は大きな希望であるはずなのです。

 

神に叱られる。ちこちゃんに叱られるでは無いけれど、

恐ろしい顔して、雷落とされるのか〜?て思いますが、

そうではない。自分の想像の中の”神像”では無い創造主が

おられる。

 

大贖罪日は、一番”創造主”と近くなれる場を全員に、公に与えられている日。顔と顔を合わせて直に神に対面する。

それが、至聖所での儀式で表されているでしょう。

会見の天幕の中、代表の大祭司が入っていく。

カポーレット=会見の蓋の上のに臨在として現れる雲と、祭司が差し出す煙が一緒に交わる。実際に神の臨在がそこに在った。

 

シャドーコピー=影=イエシュアがされた実態を目で見える形で、行動=儀式を通して教えてくれている。

 

人間の法廷では、裁判官が居て、無表情の無味乾燥の、なんだかが冷たい無慈悲な感じで、緊迫した現場に立たされて、様々な

罪状を突きつけられるて、責め立てられる場面を想像します。

 

そして、わたしと言う人物を個人的に何も知らないその裁判官があれこれ、自分に対して厳しい判定を下して来る。

 

でもアバ父は違うでしょう。

そんな仁王立ちしていきりたった顔で、にらめつけるお方が

前に居るのではなく、自分を限りない理解、慈愛、憐れみ、

許しで包もうとしてくださる、一番近い場所に来てと引き寄せてくれる。自分を何より裏も面も腹の中身も全て全て知っていてくれるお方が居る。

 

その時に自分の側で何がずれて、何がひずみで何が邪魔なのか

気が付いてないと始まらない。一番近い場所に引き寄せられるために、要らないものが削がれないとならないから。

責め立てるのではない。自分を生きる邪魔をしている妨害、

障害物を指摘してくれる。

 

それに気が付く意識を10日の間、全員でしてくださいと

神が言われた日が、この昨日の大贖罪日の醍醐味です。

 

互いの生き方で、互いを傷つける、貧しい人がいる、虐げられている人がいるのはどうして?と言う質問を神が投げかけている。

そして、互いにズレを神の前に修復する、関係を取り戻す

チャンスを与えられている。神に対して、そして人に対しての壊れた関係を修復。

 

これを、少なくとも自分が、夫婦が家族全員が同じ場所に来て、

一致した気持ち、思索で神の前に出てやったら

その家庭は全く違う意識を持つでしょうね。

 

神の前に立ったら、神は何と言ってくるのか?

どうしてそんな事になってしまったのか、どうしてそう言う

行動、反応するのか、過去に遡ってその原因を教えてくれる。

それは、自分のせいではない、先祖代々受けてきた”ゴミ”

だったものがたくさん潜んでいるからです。

 

そう言う風に教えられ、取り扱われ、偽の生き方を学習して育ったと言う事。

 

憐れみ深いアバ父は、わたしの全部を知っていてくれるお方でしょう。自分が気がつかない深い腹の中=内臓に潜んでいる

原因さえ知っているでしょう。誰かから受けた悪影響も

あるかもしれない事を知っているでしょう。

神の前には何も隠されるものがないから。

自分の責任ではない不可抗力の状態、それを、責め立てる

お方ではない。憐れみ深く諭してくださるお方。

 

ズレた場所に居たら究極の親しい関係を結ぶ状態から

ズレてしまうから、ズレを指摘されるだけ。

 

続く