原点に戻る日 シャバット | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ルツ記の続きを書く前に、すでにシャバットがやって来ました。

イスラエル以外の日本や海外に居ると、よほど意識していないと周りはシャバットの雰囲気が無いので、シャバットを巡り

一週間を過ごす、プランすると言う意識が流されていく感じがしてしまいます。一人で生きてるのでは無い。一人でシャバットを

祝うのでは無い。周りの環境は大きな影響を与えると感じます。

 

シャバットを迎えると言う環境、雰囲気がまるで無いからです。週の最後の日に止まる。シャバットは週の最初の日では無い。

神のデザイン通り、安息に全世界に入るのは最後。

全部繋がっています。もし週の初めの日に止まることに変更されたなら、神の創造の順序を変えなくてはならないことになります。それはありえないことです。

 

昇天以降はどの日も安息日と言うのを聞いたことがありますが、聖書とは異なります。なぜなら、神はそんな変更を一度も宣言していない。もしどの日もシャバットなら労働日ゼロと言うことです。人の教えは聖書とは辻褄が合わない矛盾だらけなのです。

神の言葉を勝手に変えて見てもダメなのです。神の真実、言葉は変わらないから。

 

友達と話していて、同じ”イエス”さま、イエシュア を信じているはずなのに、信じている内容が異なるので話が通じない部分がたくさんある事を実感します。

 

今は何でもありの恵時代=契約は終わり、変えられた神の言葉=新しい契約を生きるのが今の時代と信じているのと、神の言葉は永遠に変わらない、だからイエシュア が生きていた通りを生きることがトーヴと信じるのとずれが生じるのです。

 

それは、イエシュアが人種により別物の中身であるのではなく、

神の言葉が人種により別種の内容ではなく、それぞれが信じている内容が聖書に基づかないのに、聖書なのだと信じているのか?

それとも聖書に書いてあるそのままを信じているのか、

全部人間の側の問題であるのです。

 

神の言葉が人種により違うなど、聖書のどの箇所にも書かれていないことが事実なのです。書いてある通りに読んでみれば分かるはずです。自分でじっくり読んで確かめないとならない。

 

その人それぞれ信じる内容が違う。それは、別の聖書が存在する結果では無い。

聖書をそのままの意味通り知っているのか、

それとも誰かの教えを通して聞いた教えを聖書だと信じているのかその違いなのです。

 

シャバットは創造主が造られた記念日です。創造の初めからある。永遠から神がプラン、創造した日。これは途中で変わると

決めたのは、異邦人=人間。325年に人間が勝手に神の言葉を取り消した行為を議会でした。ニカイヤ会議。人が決めただけなのに、世界はその後、神が変更したと言う教えを信じたわけです。

 

神御自身が創造されて、その日を特別な日として取り分けた=

それが聖別の意味。

וַיְקַדֵּ֖שׁ   ”そして聖別された”と書かれています。

ただの普通の日、週の1〜6日ではなく、第7日目を聖別した事実が書かれています。それは永遠普遍。今日も同じ。

ヴァイ カデーシュ。

 

創世記 2:2 

神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。

 

2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

 

シャバットが造られた創造の記録は、シナイ山の婚姻契約書が

与えられた前、創造の初めです。

2日分のマナが天から降る日。出エジプト16章。

働けないシャバットの日の分まで天から命の糧が与えられる。

シャバットは、”シナイ山”の婚姻契約が永遠の契りである

”印”の日であるとも書かれています。

皆で生きて再確認する印の記念日。出エジプト31:14

 

イエシュアが言われた通り、この日は創造と繋がり、創造の時から引き続き同じ真実、聖別された日です。

イエシュア は、こう言われたでしょう。

”人のためにシャバットが造られた。シャバットのために

人が居るのでは無い”と。マルコ2:27

 

この箇所なんて書いてあるのでしょう?

”人のため”にシャバットがある。ユダヤ人だけのためにあると

書いてありますか?全ての人類のため。動物も含めて。

アブラハムは、全てのこの地の表に造られた人類の祝福の源、

父となると言われた事と同じ、繋がっています。

人のためにシャバットがある。それを神学は”ユダヤ人だけ”が

やってれば良い、縛りの日、呪いと教えるのです。

 

なんでかわかります。エデンの園の出来事と同じ。

人が皆神の意図=言葉を生き始めたら、生き返るから。

天からのマナ=命のパンをそのまま食べて生きたら、人は

喜びで溢れ出すから、邪魔したい存在がいるんだな〜て事。

 

悲しいのは同じイスラエルの神を信じながら、神の言われる事の

意図に反する事を、復唱し、本気で信じて真実が伝わる邪魔を

しているかもと考えない事です。

それは、自分自身が痛感する事です。熱心に唱えやっていたあの数々、実は神の目からは、汚れたこと、邪魔なこと、不真実な事だった。でも知らなかったから仕方ない。でも悲しい、

嘆き悲しむしかない。でも人は真実に目覚めたら、嘘には再び戻れ無い。

 

熱心に神の言葉を否定することなどに、賛同したり、別物の姿を表す様なこと、神の言葉とは別の教えに生きれない。生きたくない。神の真実の顔を覆い隠すことになるから。どんなに主流な教えでも、神の言葉とは違う人の教えに迎合できなくなるから。

分かったら出来ない。分からなかったからそうだと思ってた。

 

神の言葉がこの様に人間の教え=デスペンセーション神学の様な

時代ごとに変化すると言う教えで塗り替えられ、人に伝えられてしまい、神の言葉が今目の前に書かれていても、これは終わった教えと頭脳が認識するのです。

人間の神学に基づいて神の言葉を変形し続けて、聖書に書かれていない読み込みをするから聖書に書かれているのに、別の教えを

信じてしまうのです。

 

福音の中心であるシャバット=神の業から生きる事をイエシュア が教えていたのですから。その事実だけに注目、信じる。

 

イエシュア がシャバットを破棄する様、捨てる様、破るなどと

一度も教えていません。イエシュア は父の言葉=トラーをその通りに伝えに来た、教えに来た、人の間で生きるために来たと言われた。シャバットを捨てる様に教えるなら、それは父から

出たものではなくなります。

 

誤解しているのは、シャバットを人間のルールを作り出し、

厳しい規則で人を縛り付けるその人の教えに対して、

イエシュアが戒めていたことが書かれているだけです。

それをシャバットがいかに悪い古い律法なのだ、捨てる様にイエシュア が教えているのだと解説する人の教えが、神の言葉を変形したのです。

 

続く