出エジプト31:15
六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で、主のために聖である。すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう。
31:16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。
31:17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。
神の言葉は永遠です。途中で変わらないし、意味、実態も
同じなのです。どの時代でも同じ。
ダービーと言う人が、それを七つの時代に七つの別の基準を、
神が与え、人間に対して、別々の対応をしたと言う思想、哲学、人造神学を生み出し、世界がそれを神の真実だと誤解し、
聖書とは異なる教えが、浸透しましたが、その仮説は聖書とは
全く異なる事が聖書だけに戻ると分かります。その神はイスラエルの神では無い。
なぜなら永遠に変わらない神、約束を翻さず、契約を破らない
神の言葉は永遠の礎と神自らの口で天と地を証人として
語られたからです。神は一旦結んだ約束を変えないと言われた。
書いてある通りを曲げないで読めば理解出来るのです。
七日目に止まる。神の家に住まう人の”印”である日。
婚姻関係に入っている印である事を捨てると言うのは
どう言う意味があるのだろう?と考えてみるのです。
人が何をして、何を生きているかで、自分の内側で何を信じて
何を大事にして生きているのかは、行動を通して見える形で
現れるものです。神の言われた事に対してどの様に取り扱うか、
それは日々の生き方で現れて来るものです。
この日を汚す人は殺される。強い言葉で書かれています。
これを読むとき、”イスラエルの神はどんなに恐ろしい神なんだ!”と捉えて、考えるのならばそれは、自分の考えや基準や肉の目から見ている事が理由でしょう。
ここで分かるのは、どれほど神がこの日を重要な日であると
人間に伝えているのかと言う事が書かれています。
それほど重要な事だから、死に値する危険=ないがしろにするなら、あなたは命を損ないながら生きて、周りも同等に汚染するから、その生き方は死に値すると神が言われたのでしょう。
”命の木”から以外=知識の木から食べてはならない。それを
食べる時”死ぬ”と言われた事と全く重なります。
そんな食べ物くらいで死ぬの?と考えるのが人間的な考え。
それと全く同じなのです。
そんな事くらい大した事ではないと思う事。
人の頭脳、目には不思議な事に響きますよね。
どうでもいいじゃんそんな事って世界に聞こえる。
でも神が言われたら、それほど重要な事を語っているのだと受け止めないと危ないと言う事なのです。
人間は神が造られた世界に生み出されただけの存在だから、
神が言う事が100%真実と認めないと真実が見えないままになります。人間が神の造られた世界を定義なんか出来ないし、
神に意義を申し立てるのは本当にナンセンス。
神が造られたと言う事実を認めるだけ。
人が生きる上でシャバットをガードすることは自分の命をガードする事に匹敵する事なのだと、シャバットを生き続けて行くうちに益々気がつく性質の日です。生きてみれば分かる。
生きてみて初めて気がつく、分かると言う世界。
食べたらどんな味かわかる。見ただけでは味が分からない、
それと同じ性質です。自分で確認すれば分かる世界。
確認しないなら分からない。単純な理由です。
シャバットは人の子のため、シャバットの中心がイエシュア そのものだからです。
今回のイスラエル滞在で、再びもっと深く分かった事がありました。
神の言葉は鎧兜。神の言葉は私たちの全存在を守るものです。
神の言葉を無視したら、代償を払うのは自分の命で払う。
損なわれるのは、神の造られた人の本物の生き方。
本来の自分のエッセンスからずれて生きたら、喜び奪われる。
偽物の生き方に閉じ込められる。狭い、悲しい、辛い、苦しい=エジプトの意味を表す言葉で表される奴隷=偽の奴隷となって縛られたまま生きて行く。
そして自分を人を損なって行くものなのだと言う事。
今、今日、この時の生き方が永遠に繋がるものだと言う
自覚があれば、サラサラ適当におざなりに、いい加減に
生きれないと気がつく。
考えないまま、たやすく人を傷つける、人を生かさない言葉を語り続け、行動し続け。。。。立ち止まり自分の思索、行動を
吟味しない、考えない状態。
どれだけ、神の言葉をないがしろにして、いい加減に適当に
聞き流しているのかと言う事が分かる。
自分の命が損なわれて行く。
本当の生き方。神が与えてくれた”生き生き生きる命”を
本当に味わう事が出来ないまま、宗教の教え=嘘=偽の生き方に
縛られて生きていても、尚も気がつかないまま一生が終わるなんて、本当に悲しく残念だと思う。その事も聖書に書いてある。
年取るまで気がつかない。年取ってもなおも気がつかないまま
約束の地に入れなかった世代の人々。
そして、本当の自分を神の前に生きて、人に豊かな命、
生ける水を放ち、潤しながら生きる選択をしないなら、
関係が破壊され1日中争いや批判やすれ違いの関係の中を
生きて、悲しく虚しく生きてしまう。
これを”シャバット”止める事が出来ることが書いてある。
それには、連続の選択をし続ける訓練が必要なのだと言う事。
自動的では無い。自分の選択、生き方にかかっている。
神の救い、贖い、義は神からのもの。それをどう生きるのかは
人間の選択にかかっているのです。
誰の言葉を信じて生きるのか?神の言葉を永遠の言葉として
信じ続け受け取り続け生き続けるのか?
ヨシュアとカレブ二人の様に、神の言葉を、約束を、
神の目から見る通りを見続ける訓練をクリアーした結末が
必ずあるのだと言う事です。
今の選択、神の言葉をそのまま受け留めて信じる事。
嘘を食べ続けない事。嘘と真実を見分ける事。
嘘に耳を傾けない事。神の言葉だけを聞く事。
これらは、日々のリマインダーの中でクリアーに教えられている事。又々深く考えさせられる時を過ごしました。
シャバット。止まる。イエシュア が祝っていたのは、生きていたのは第七日目のシャバットだと言うシンプルな事実に気がつけたら、主の言葉、み足の後を辿っているのか、人の言葉、伝統を生き続けているだけなのかどうか、気がつけるはずなのです。
最後のシャバットだからと、友人が特別なテーブルセッテイング
をしてくれました
この布は二つのパン=二日分のパンを表す、二つのハーラーの
上にかけるものです。
シャバットのテーブルでの祈りは全て互いを、全家族を
友人を祝福する祈りなのです。その中心に”神”を祝福する
祈りがあるのです。とても幸いな祈りです。
ほんわかします。互いの存在が神からのギフトである事
忘れない様に。
金曜日の午前中はシャバットの買い物で賑わいます。
土曜日の日没まで、お店が皆閉まるからです。
イスラエルの人は子沢山。子供達は、お揃いのお洋服など
着ていてとてもとても可愛らしい。
塩の海=ヤム メラフと言います。
このメラフと言う言葉のルート文字は、王、治める、塩と
言う言葉と共有します。言葉が何か共通の意味をなしている
からです。
全部繋がっています。塩の契約とは、神の契約が永遠に保存されている性質を表しています。
物理的な事、塩の性質、目に見えない実態は繋がっています。
きよめ、保存。
神の言葉で世界が造られ、神の言葉と神の創造物は
相反するものではなくぴったり一体です。
これは、探れば探るほど、どこも矛盾が無いです。
神の創造物は神の言葉=神の性質の実態を表しているものでも
あるからです。
塩の海を背に向かい側にはホテル街。
ここの山あたりが、エン ボゲック。歩いて行くと湧き水があります。エン ゲデイも同じ荒野に湧く湧き水の場所です。
毎年開発が進んで色々な建物や、ビーチの施設が造られ続けています。ビーチと言っても、土は硬い塩を含んだ土です。
海の底は塩の結晶です。
塩の海の中に屋根がある場所があり、その下は日陰なので
陽に当たらずちょうど良い感じです。
私は、温泉同様、40度位の温度の水に入りたいです。
海の中には20分以上浸からない様にしてねと言われました。
後、耳の中に水が入ったらきれいに水で洗わないとならないです。初めて来た時、水が耳に入りその後外耳炎になってしまって
帰りの飛行機でとても痛かった経験があります。
この水を飲み込んだ人が救急車で運ばれると言う事も
あったそうです。それほど塩の濃度が強いです。
TGI Fridaysと言うアメリカのレストランがあります。
Thank God It's Fridaysと言うもの。
漫画のガーフィールドと言う猫が”フライデーのために生きている”と言うセリフを言いますが、フライデー=シャバットが
始まる日。
Thank God It's Shabbatですね。
その下にここではいつもFridayとありますが、
シャバットは週の第七日目だけです。
でもシャバットの状態を生きる、神の約束、言葉を生きる
これをしっかり思い出して残りの6日を生きると言う意味では
トーヴですね。
考えると気が付いて行きます。
シャバットは、週の始めでは無い、週の真ん中でもない、
週の最後の日に来るのです。
そして、イエシュア が再び来られるのも最後、この世
このオラームが終了する時です!神の言葉と神の創造、
神の暦はぴったりマッチしている事に気がつきます。これは
神の記念日も同じです。仮庵もそれです。
これは又の時に。