天と地が廃れないなら永遠に神の言葉も廃れない シャバット | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

相手が語っている事を誤解して受け取れば、相手の言葉の真意が見えないどころか、相手との関係が壊れる、果ては敵意を持ってしまうと言う結末を産みます。

 

その良い例が、子供が感じる親や先生に言われる事に対する反発。子供の頃は、いつも8時前には就寝と決められていて、早く大人になって夜更かししたいな〜と思っていました。:)

 

どうしてあれこれ色々な事を禁じられるのだろう。

よちよち歩きの子供は、どこにでも突進して行きたい。

自由に一人で行動してみたい。

ああしなさいこうしなさいと指示されるのだろうと言う、親の教えの意図が分からないければ、ただのうっとうしい、面倒臭い、煩わしい、厳しい規則で縛り付けられていると言う受け取り方をします。

 

面倒な規則なんて無い方が楽!なんでも自分で勝手にやりたい!

 

子供の命、健康を守ろう、保護しようとする親の深い真意、

意図、目的など幼い子には到底理解出来ないものです。

 

神の言葉は、どの箇所の一点一画も永遠に変わらない。

モーセの五書は、神の口から直接語られた言葉をモーセが

その通りに綴ったものなのです。それが聖書の全ての土台です。聖書のどの部分も、どこを取ってみても100%全て、

モーセの五書を語っているのです。ローマ神学ではその様な

教えをしていないですが、聖書に基づけばそれが真実です。

 

もし、人の教えによるように、聖書の最初の70%は呪いで終わった教えだと本気で信じ込む場合、神は不完全な教えを人にしたと言う事になるのです。

 

不完全な教えなら、モーセの五書に語られている真理を本気で

学ぶことも、知ることも、又神が今日もそこから語られている事にさえ気がつかず、70%は頭上を通り過ぎて行くと言うことになってしまうのです。

 

1世紀の世界のヘブライの世界。2000年の時を超えて、現代の

私たちの異教徒の文化の異教徒の思索背景で聖書を読んでも

不明な点だらけです。

 

日本語の文化、現代の日本と古代の日本語とも違うし、

日本語でのことわざ=慣用句的表現をそのまま英語や外国語に

訳してみても、なんの意味もなさないのと同じです。元の意味が消えて見えないし、元の意味が出てこないのです。

”ミイラ取りがミイラになった”とアメリカ人に言っても通じない。”鬼が笑う”と言われても、鬼と言うもの自体が分からない

人に向かって言っても意味が通じないので分かる訳がない。

 

そんな事がヘブライ語聖書の表現の中にたくさんあるのです。

それ以外にも、翻訳そのもの自体が不適切なために、元の本来の意味が消されて見えなくなってしまうこともあります。

 

それ以外、聖書に書いてない事実を本気で聖書なのだと

信じ込んでいる事が山ほどあります。

 

シャバットが昇天以降別の日に変更になったと言う教えも一番のミス=神話=人の作り出した教えなのです。ローマ教が変更したとカトリックが文書で宣言している通り、彼らが変えた。神ではない。聖書に戻り確かめればちゃんと分かります。

 

しかも、オラーム=永遠 天と地が廃れないならとある通り

これもヘブライ的慣用句表現です。詰まり、天と地は廃れない

神の創造物は永遠に廃れないから、それゆえ、神の言葉も

神の記念日も変わらないとヘブライ語聖書にはっきりと

書かれているのです。信じるのはそれぞれの自由意志ですが、神の言葉を曲げると言う行動は神の前にそれこそ罪=ずれです。

そのずれた地点から修正すれば、正しい位置に神の言葉を戻して考え直す事が出来ます。

 

シャバットはイエシュアそのものです。福音の中心そのものです。人の子のためにシャバットがある。神の完了の業そのもの。神は、全てを終えて7日目に止まった。

神が止まられたから人も止まりなさい。神の似姿に造られた人間は、神の実態通りを生きるとちゃんと始めから言われているのです。

 

その一言の中に神の完了の業=人に必要な全てが全て備わって造られ完成されている事実が書かれています。だから歴史の途中から神の助け、許し、愛、解放が出てきた、歴史の途中まで神が人の内側に住まわなかったと言う教えが聖書ではない事が書かれています。

 

しかも、四文字で表される神の特有名=性質=ありてあるお方=世の終わりまであなた方と共にに居ると言われたあの言葉がその中に入っています。そしてインマニュエルと言う名もそれです。

あなたがたと共に住まう神の性質がちゃんと始めから紹介されています。

 

トラーに書かれた全ては、イエシュアそのものです。イエシュアに連なる人は、イエシュア=トラーを生きるとヘブライ語聖書に書かれているのです。

トラーには人間の生き方そのものが綴られているのです。

 

私たちはエデンから出て直接神と顔と顔を合わせて生きる場所に

いまいません。神の中に居る。でも肉眼では今見えないです。

 

神の家=神殿の中で行われていた一連の儀式とそれを通しての

教えは、”肉眼で見えない”現実を、五感で体感するためのものです。

 

自分の大事にしていた最上の子羊を自分の手で屠ってみる。

そんな事出来ますか?それがどんな意味をもたらすのか、

実際やってみれば体感すると思います。

子羊イエシュアが流された血の意味。

2000年前の彼らも未だ見ぬ救い主の完了の業をずっと神の家の中で教えられて来たのです。同じイエシュアの実態。

 

自分の手で屠ると言うことによって、尊い命が自分のために

死ぬ。直接自分が手を下し、動物が泣き叫び、血を流したら。

それは一生忘れることの出来ない体験になります。

もう2度とずれたくないと思うはずでしょう。

自分のずれが周りにどんな影響を与えるか、その結末を知るからです。その一連の儀式をしただけで、ずれた事が生み出す愚かな結末と、又代価の価値を体感するわけです。

最後はその肉をバーベキューで食べたら。

自分が食する。祭司も共に食する。和解。神との隔たりを

人との隔たりを修復する。元に戻る。安堵する。

皆でそそがれ神の前に汚れない存在である確認をする。

義とされている人である状態に戻る。

 

もちろん動物の血は代償にはならないと書かれている通りです。

でも神の家の中の一連の儀式は福音丸ごと。目に見えない現実を五感で体感するシステムを神が造られたからです。

いかに修復するか、いかに代価が重たいか、そして神の家に集う人の姿そのものが天の国の姿。神の家の全貌を網羅しているものです。それがトラーに書かれているのです。

 

シャバットは神が造られた記念日です。人が作って決めた記念日ではないのです。人は神の記念日を作り出す立場に無いのです。

人は被造物で創造者では無いからです。わたしの記念日と神が言われた通り、神の記念日の日程はレビ記23章に書いてあります。

 

どの日に何をしようともそれは道徳的悪でもなんでも無いですが、レビ記23章以外の記念日は同時に、神の記念日では無いのです。

 

神の真実と人の教えの違いを見分ける、区別する必要があります。

神が言われたら神の権威に於いて”シャマー”聞くと言う事を選択する態度。神の言われる事が100%絶対と受止めること。

そして神の言葉の通りを生きれば、神の造られた記念日の

意味、醍醐味が分かってきます。福音そのものを生きる

義の道だからです。

 

目には見えない現実=エデン=天の中に今いる事実に皆で戻り

確認する日。関係を修復する。止まる。全ての思い煩いを止める。自分と家族と仲間の修復のために時間を取り分ける。

聖別する。聖別=神の目的、意図通りに取り分ける、区別すると言う意味です。

 

そうして命を保護して行く秘訣が神により教えられている。

それをないがしろにすれば、結末は神が言われた意図とは違う方向へ行ってしまうのです。

 

Shabbat Shalom