義とされた事は無償、無条件 婚姻契約に参加する事は100%条件付き | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

人と人が婚姻関係を結ぶ時、様々な誓いや約束を相互に交わしますが、それらをどちらかが違反する、又は破棄する可能性も

あります。

相手に忠実に、婚姻関係を継続する上での様々な事を

ガードして生きないとする場合は、関係が壊れます。

相手の言う事を真実だとして聞かない、受け取らない場合

関係にヒビが入りますし、本当の信頼関係など築けない。

 

イスラエルでは、結婚する時様々な約束を書い渡すのです。

”Ketubah" ケトウバと言います。

それらは、全て”花嫁”の命、生活を守るためのもの。

 

あなたを花嫁として選びました。

染みも汚れもない元の状態に戻してあなたを偽の主人から

”買取”奴隷として繋がれていた鎖を完全に切り取り、

わたし=本物の主人=王の王=イスラエルの神の元に取り戻しました。

 

これが聖書にある”贖い”です。神からの一方的な無条件ギフトです。自分が何かをしたために、その結果”贖い”を得たものではない。受け取るに値する何もしていないのに只与えられたから受け取る=それがヘブライ語の恵みの意味でもあるのです。無条件、無償、無代価で与えられたもの=恵み。

 

贖い、買取には代価が伴います。それは、自分では出来ない事

なのです。自分で自分を持ち上げられないのと同じです。

誰か買い取る人が100%代価を払い、贖い出さない限り自分では

出来ないものなのです。神が一方的にして下さった。

だから義とされるために、トラーを生きると言う思索が

全く神の目からずれているのです。何も出来ない。義とされるために人は何も出来ない。神からのギフト。

義とされた後、”義人”として生きる事が出来る、でも義人らしく無い死んだ生き方続ける選択も出来る、やる。

その違いが分かればと見えるのです。

 

そして、100%常にずれないとは言い切れない。よちよち歩きの

赤子は転ぶ。鍛錬不足、経験不足だからです。だから注意して

1歩1歩を歩みなさいとちゃんと忠告されている。

偽の自分でボ〜と生きてたらだめ!と。

 

買取=贖いの言葉のほとんどが”ルツ記”に出てくるのです。

夫失い、生きていけない、乞食同然の生活から、贖い出された

ストーリー。そして異邦人ルツが産んだ子供の家系から救い主が誕生するわけです。

 

聖書に書かれているヘブライ語は、同じ言葉は、同じ意味で

ずっと最初から最後まで貫かれています。途中で変わらない。

贖いの実態も変わらない。

 

偽の主人=偽の神=悪霊の支配から贖い出された後に与えられた”婚姻契約”は、無条件ではありません。

花嫁として生きると言う事自体も選択です。花嫁として選んでくれましたが、あなたの提示した内容での、婚姻関係を結びたくありませんと言う人もいるでしょう。

 

あなたはわたしにぴったり向き合い生きる事を選択しますか?

わたしの言葉を信じて、それを生きますか?わたしが提示した

婚姻生活の詳細に同意して生きますか?

わたしは、あなたに言います。あなたは命を選びなさい。

命=神の言葉=トラーの実態の中に留まり生きる事を言っているのです。

 

でも贖われた後、代価を払って買い取ってくれた主人にぴったり繋がって生きることは、100% それぞれ、人の選択にかかってるいるのです。

リモコンで私たちは神に操作されているわけでは無いからです。

 

神の言葉を信じないことも出来る。神の言葉を拒絶、否定する事もできる。無視する事もできる。神の言葉など真面目に真摯に

知る、学ぶ事もしない。又は、神の言葉を、永遠普遍の神の言葉として認めず、取り扱わず、部分的にバラバラにしてしまう事もできる。どんな態度も神に対して取れるわけです。

神が言われる事を神の言う通りに受け取らないように教えられる

それが大元の問題。エデンの園の出来事と全く同じ内容、同質の

問題である事に気がつければ見えます。

 

お金必要な時、助け、奇跡が必要な時だけ叫び求める、神を便利な存在として必要なだけ。ATMごときの取り扱い。神との本来の深い関係など本当は心底求めてなどない。神がどんな事を教えてくれるのか、語ってくれるのか、神を知ることに対して

何の興味も湧かない。自分は神にどのようなエッセンスを

搭載して造られたのか、どう生きるのかの詳細を読まなければ

どう生きたらいいのかの手がかりは無いのです。自分の思い込みをして行く。

 

魅力的な相手=神をもっともっと知って行きたいあの願望は消えた。

自分の願望、目標叶えるため、駄々こねるように粘り強く、

神に懇願、主張する一生懸命の祈りの努力。

祈ったら神が気を変えて、自分の願い通りに動いてくれるかもと信じる。

 

これが”偶像礼拝”=異教の神々と同じく、お恵みちょうだい。

そのためになんでもやります。

罪悪感からずっと許しを乞い続ける。恐れの中にある関係。

 

別の神々の教えも神の言葉の中に混入、色々混ぜて自分教を作り出し、神が言われている事では無い事を、あたかも神が言われた事として作り変えて生きる事もする。できる。

 

”主人”に対して不貞を働くことも出来る。どうして異教の神々の要素、混ぜ物がダメなのか、それをしてはダメなのか、明らかに神が警告し続けています。

 

トラーで、特に預言書は丸ごと偽の教え=異教の神々の

教えに生きたイスラエルへの”警告”=預言=トラーに戻れとの

神からの託宣を書いた預言です。

 

本来の姿が壊れる、汚染される。神との顔と顔を合わせる

神本来のデザインの関係に幕、壁が作られてしまう。

自分が誰か分からなくなり異教の神々の姿に膨れ上がって生きる。神に属さないもので染まってしまう。

 

神のものと、神のものでないものの区別がつかなくなる。

そして、人の命=本質が破壊されるからです。知識の木=神の言葉以外神に属さないものを取り入れて生きたら=死ぬ!と神が

言われた通りに。それくらいいいじゃない?すぐ死なないし、

なんとも感じないけれど、神の目には100%危険であると

する様々な事があるのです。それが聖書にある禁止されている

思索、行動、生き方。

 

デザインに反したら、関係が壊れ喜び奪われ、偽の主人の奴隷に逆戻りしていることに気がつかないまま縛られて生きて行くからです。

 

預言書は未来の占い、出来事を語る目的で書かれているのでは無いのです。未来に何があるかは、ほんの一部分、極少です。

 

預言書、預言者の神から遣わされた目的は、”トラー”から外れて生きる事を選び、異教の神々の要素を取り入れて”姦淫”の罪を犯しつづける人達=人類の代表長子達に対して、そんな生き方を続けていると、これこれこの様な破滅、破壊が訪れますよ、国を追い出され、祝福奪われ、異教の神々の地で奴隷のようになってしまいますよと言う、その意味の預言=神からの託宣が書かれているのです。

 

預言書の目的は”トラー”の生き方に戻れ!混ぜ物の教え、なまるぬい気持ち悪い他の主人=異教の神々の要素を混ぜる事をやめて、捨ててピュアにイスラエルの神の中に戻れ!の警告なのです。

 

 

続く