永遠に変わらない神の国に生きる神が造られた人間の生き方  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

世界中のsaints=聖徒たちが、今神の言葉を二つのものではなく神の言葉は分断の無い、一つのものと言う事実、本来の、本当の真実に実態に神の言葉を戻して取り扱う、知りたいと言う願望を与えられて目覚め始めています。

 

世界の四隅から、群衆が呼び出されて、それが起こっているのです。預言された通りの神の時が来たからです。

歪められた神の言葉を、本来の状態を神が伝えている、

取り戻す。世界が一つ神の中、一つの神の言葉、契約、

一つの家族として引き戻される、引き寄せられて行く。

これはすごいうねりです。様々な方角からそれが起きています。

 

人が作り出した宗教のムーブメントではなくて。

純粋な神の言葉に戻ろう!と、神に呼び出され応答する世界中の残りの民が目覚め始めている。1つの原因は、本当の”真実な情報” 神の言葉のオリジナルのヘブライ語に書かれた本当の意味に触れ始めているからです。

 

これは、世界の様子を覗けば分かります。

神の実態=”言葉”=トラーに真っ向から反対する勢力とは違う、

異なる、神の真実の中に引き寄せられて来る人達。

 

神の言葉に反対する勢力、神の言葉を部分的にも否定する

その実態は聖書にちゃんと書かれています。神のトラーを捨てる=不法=その暗号数字まで書かれている

でしょう。

 

世界中が、本当の神の言葉=イエシュア=実態に戻りたいと

願望しているからです。神が呼び出しているからです。

神に造られた人は、神の真実に引き寄せられて来るからです。

 

 

クリスチャン達は、神は”新訳聖書”からだけ語ると言う教えを

聞いて、信じて、その教えを唱えて来ました。

 

それは神がそう言われたからではなく、その教えの出所は、実は

ローマ、西洋人、西洋教父達が編み出した教えです。

聖書はローマがルーツでは無いのです。神がイスラエルを捨ててローマに乗り換えられた訳でも無いのです。始めから

”ヘブライ”です。私たちは、”同じ木、同じ羊の囲い”同じイスラエルの神の同じ1つの婚姻契約の中に加えられたのです。

神は七変化の神では無いからです。聖書にちゃんと書いてある、永遠普遍の神であることが。

 

人間が発想し、作り出したその様な教えを、それが神の真実だと

教えられて、それが世界に浸透してしまっただけなのです。

 

本当かいな?嘘でしょうと思うなら、人の教えを鵜呑みにしないで、自分でとことん調べて見ればいいのです。偉い著名な先生がそう言うから真実なのだと考える、その思考回路を捨てて、

聖書の事実だけに戻ることをすれば良いのです。

 

そして、聖書を偏見なく、人の教えを通さずに、ちゃんと書いてある通りに、自分で読んでみれば良いのです。自分の頭でしっかりと考える。神の前に問い続ける。

 

神に神の言葉に基づいた事実を必ず、神に求める者には、

教えてもらえるのです。

求めよ、そうすれば与えられるとある通りに。

 

1世紀以降、神の言葉に対するどの様な違反が起きて、どの様に神の言葉に手を付けられてしまい、人間の教え=宗教に塗り替えられて行ったのか。調べれば、ちゃんと見えてきます。

 

そして聖書だけが真実であると言う、その”絶対曲がらない

まっすぐな棒=”基準=神の言葉を絶対として読めば、ちゃんと

真実が書いてありますから気がつけます。

聖書は永遠に変わらない。同じことが最初から最後まで書いてあることに気がつけます。

 

神の言葉全体からではなく最後の30%だけで十分であると人は唱えます。

確かに福音書以降に書いてある、様々な短い解説は全てトラーの中身を語っている訳なのですから、部分的に読んでもたくさんの麗しい真実、教訓、生き方が書かれています。

 

例えば、1コリント13章は愛の章として知られていますね。

パウロが語る内容は、トラー=モーセの五書です。

”愛”と言う言葉の定義、ヘブライ語の聖書の愛の定義は、実は

”婚姻契約”の愛=トラーの中に書かれた愛の姿なのです。

 

1コリント13章のパウロの短い解説は、トラーに書かれた

愛の実態なのです。

その詳細は、婚姻契約フォーマット=申命記が完全形。

そして出エジプトの中にも書いてある。レビ記、又は民数記の中にも書かれているのです。

ほとんどの場合それらの内容の詳細を学んでいないと思うのです。

 

神の国の憲法の全てがトラーには書かれている。

だからその細かい詳細、お互いの命を保護する生き方の詳細=愛の生き方はトラーに書かれているのです。その短い形態をパウロが1コリント13章の中に書いているのです。

 

日本国憲法も、他の国の憲法も、人間のあらゆる生活のおいての側面を網羅して作られています。

 

それは、人を規則で縛り上げる目的のためにそれを作ったのでは無いです。人が住まう地域、場所でも様々なルールがあります。又は同じマンション内に住む場合でもルールがありますね。

何が目的で様々な決め事が敷かれているのでしょう?

お互いがヴァイオレートされない、破壊されない、保護されるためのものです。平和で安全で喜びが死滅しないためです。

 

この道路を時速120キロで走ってはダメですと言われて、

”いいえ、私はアレジや鈴木亜久里の様に200キロで走りたいのだから、そんな律法言わないでよ。人を規則、ルール、律法で

しばりあげるな!”などと言えない事は誰でも普通に理解出来るはずです。

 

人が生きる上で、様々なルールがなければならないのは、

互いの命を安全に保護するため。神が人間の生きる全ての領域に対してのインストラクションは、人の命を保護する目的のためです。

 

それは永遠に変わらないインストラクションです。

神の造られた創造物は進化変化しないからです。

それを、律法であると言う捉え方をしているスタート地点から

まずずれた考え方をしている、歪んでいるのです。

しかも、トラーを捨てたら、イスラエルの”神”=イエシュアがどんな方か、又は人は誰であるのか知る事が出来ません。

 

聖霊=神が共に住まわれることを知ったのは、聖書を読んだからではないのでしょうか?インスピレーションで思い浮かんだからではない。神が全ての詳細をトラーで語っているから

神の言葉を通して、私たちはそれを知る事が出来たのです。

 

神の言葉は”部分”として存在しないのです。体と同じ。

人の体が心臓だけで機能できない、生きれないのと同じ。

神の言葉は創世記から黙示録まで1つ。同じことを一貫して

語っている。それを捨てて、分断させるのがこの世の教えです。

 

しかも、ヘブライの書聖書の慣用句、意味を知れば分かります。

知らなくても神が神の言葉は永遠普遍と言われたのです。

今この天と地が存在するなら=つまり永遠に神の造られた天と地は消えずに存在するから、神の言葉は変わらないと神が

強調している語っているイデオムで書かれているのです。

 

人が生きれない規則、縛り付け呪いの一時的なテンポラリーな

律法を与える冷たく厳しい神?その神像自体が歪んでいるのです。発想のスタート地点からしてずれている。

異教徒の肉の目から眺める空想、想像上のイスラエルの神像、

その発想からイスラエルの神を歪めて解説し、自分たちに取って

受け取りがたい、不都合な神の言葉を抹消するための言い訳、教えを編み出したのがローマです。

彼らの太陽神信仰に沿って、新しい宗教を作りたかったからです。

 

 

続く