神の命のサイクルの暦 季節が巡る シャヴオートの週末 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

旅から無事に家に辿り着き、今はもう6月第二週に入るところです。ついでに観光なども楽しんで、色々な事に遭遇し、たくさんの貴重なレッスンを教えられて帰って来ました。

 

そして、今週の週末は、シャヴオートのウイークエンドです。

 

三大都上りの”神の造られた記念日、祭り”の一つです。

クリスチャンの世界では”ペンテコステ”と言いますが、

私自身は以前、これを都上りの祭りだと言う認識もなければ、

実際に祝うと言う事はしたこともありませんでした。

 

シャヴオートに関しての意味さえも聞いたこと、学んだことも

なかったです。聖霊が初めて降って来た日だと言う程度の事を

教えられました。

 

使徒2章で初めて神が人の中に住まう様になったと言うのは、聖書の事実では無いのです。聖書には、初めの初めから神は”インマヌエル”=神が人の中に共に住まう事実が書いてある。

神が創造された人の中に、神が息=霊を吹き入れられて、

人は生きる存在になった事がちゃんと書かれています。

 

そして聖書の初めから神は人の中に共に住まうことが書かれています。人が神と直接対話しているのを読めば分かります。

翻訳でも覆われて見えないことも、ヘブライ語ではクリアーに

事実が記されています。でも翻訳でも読めば分かるはずです。

神が最初から人と関わり、人の中に住まい、人も神の中に存在している事がちゃんと書かれていますから。

 

過越からスタートし、7週の7回のシャバットを経て、

迎えるのがシャヴオートです。

シャヴオートを祝うと言う事は、一年の暦の中で、週に一度の

シャバットを祝い続け、春の過越から一連の記念日を祝って

初めて意味のある”記念日”になるのです。そして秋の祭りで

一年の祭りの締めくりになるのです。そして秋から春の間は

新月と、シャバットだけです。ハヌカとプリムはありますが、

これは、カテゴリーがちょっと違う記念日です。

 

ハヌカもイエシュアは祝われていましたし、プリムもエステル記で皆が祝っていた記録も書かれています。でもレビ記23章の神の記念日のカテゴリーには属さない祝い日です。

 

一つの曲の数小節を奏でても、それは完全な1つの曲とは

聞こえない、意味が分からない。

神は神の子らに壮大なるシンフォニーの全楽章=神の実態を皆で

生きて表す記念日の全てを奏でる様に伝えているのです。

 

神の記念日の全てを永遠に祝う様にと書いてあります。それが道=イエシュアそのものを表している。世界の1大家族全員で

皆で実際にその意味を祝う、合奏する様にデザインされているから。しかも、イエシュアが再び戻られたら、全世界がこの神の記念日を祝うようになる事がちゃんと預言されて書かれています。

 

預言者、1世紀のイエシュア、使徒たち、パウロたちは、

このレビ記23章に書いてある神の記念日と祭りを

祝っていた事に着眼、注目して考えてみれば良いのです。

途中で神の言葉が約束が、契約が保証が変わる、終わると言うのは異邦人=異教徒が編み出した教えです。

異邦人=異教の神々に仕える人たち、国民、本当のイスラエルの神を知らない人と言う意味で書かれています。

 

イエシュア昇天後も変わりなくトラーを生きて、神の記念日を

祝っていた事実だけが聖書には書かれているからです。

 

シャヴオートは、8日土曜日に日没から始まり、10日の日没まで。そうすると、7日日没にスタートするシャバット、そして8日も祭りのスタートでシャバットになるのです。

 

2日間に渡りシャバットです。

 

人々は普段は忙しい毎日を送っているものです。

6日間は普通の日。労働の日。

息つく暇も無い位の忙しさに追われています。

夜中近くに帰り、朝早く出ていくと言う東京の生活や、

韓国の人も同じ様なライフスタイルをしている事を

聞きました。子供は夜中まで勉強とか、本当に大変な

ライフスタイルを生きさせられて居ます。

 

第一日目から第6日目までが、神の暦では労働日です。

人がどう唱えようと、神がそう言われたらそれが真実です。

そしてイエシュアが昇天されたことで、神の記念日レビ記23章は永遠に変わりません。

 

神の記念日を、生きて行くと色々な発見を続けて行きます。

第一に、神が言われる事は何も複雑ではない。

複雑ではないから、大した意味が無いと思うのはエデンの

園で犯した過ちと同じです。

何も難しくなどない忠告。でもその神の注意、忠告、警告を無視したら、どうなるか?命を失う重大な忠告、警告なのです。

 

そして、神の言われた通りを生きると言う事は、神の言葉

命の木からだけ食べる選択を続けると言う絶え間ない訓練

選択の練習です。世の中色々な教え、声で満ちていますから、

神の言葉か、人の作り出した教え、基準なのか見分ける訓練。

それが食べ物の教えと繋がっているのです。

 

何を取り入れて生きるのか?誰の言葉を信じて生きるのか?

何を食べて生きるのか? 神の指定したものだけを選択し続ける

訓練、日々のリマインダーです。

 

そして、それは常に神に繋がる、神の言葉の周波数の下に

留まり、イエシュアがしていた様に、神の言葉をその意味の通り

キャッチして生きる秘訣でもあるのです。

 

意識が常に”アバ父”の言葉に繋がっている、”絶えず祈る”

状態、モードに入っている事に気が付きます。

 

全てを”シャバット”中心に生きる。神の言われた通りに、

大事な事にフォーカスし続ける。仕事、行事、雑用をプランする。仕事、家事、なんでも、神の子、光の子として生きる。

トラーにその詳細が書かれている。

 

神の記念日を心待ちに過ごす。本当にこの日は大事です。

その日、この地上で、この世の”オラーム”に居ても、

実は、神の契約に加えられた人達は、”天の現実”=エデンの中に

戻っている事を、はっきり皆で再確認する日でもあります。

 

永遠の中に住まう意識を皆でフォーカスする。互いに大事な事を、大事な時間を共有し、取り戻す。

関係の修復、熟成。人は顔と顔を合わせて生きる様に

デザインされているから、それが欠けると不具合が来るから

ちゃんと大事な事、関係を軌道修正する、取り戻す、修復、

リペアするためでもあります。

 

1週間の中、それぞれは忙しく過ごしますから、会話も自ずから事務内容だけだったり、寝る直前まで会わなかったり、現代ではそれが普通の事になっています。

実のある会話や、互いの発見、神の言葉について語る時間など

殆ど無い。家庭で一緒に夕食をする事が殆ど無い人だって居る

でしょう。仕事、行事、お付き合い、塾、などなどで。

 

でもシャバット=神の定めた決めたこの第七日目の記念日を

ガードする事、それはすなわち私たちの命、命を生み出す関係をガードし続けて行く秘訣でもある事に気がつけるのです。

 

異教の国々では、イスラエルに居る様にフルにシャバットを

満喫出来ないです。イスラエルでは、国全体がシャバット、祭りで止まるからです。これは本当に見事、そしてその雰囲気を実際に体感します。

聖書の通りを生きようとする国など、もちろん他に無い。

異教の神々の国々はそんな事しないからです。

 

でもそれも神はご存知ですし、イスラエルも異教の地では同じ

体験をしていた。でもその中で、敢えて神がシャバットを記念日をガードせよと言われた意味が見えてくるのです。命を保護するために。関係を取り戻し続けるために。

大事なものを見失わないために。

 

何を大事にして生きているの?と問われたら、神の言われた事を

選択し、生きる事。命の木からだけ食べなさいと言われた通りを

生きる。それが”命を保護するもの” ヘブライ語では、

神の言葉は人をプロテクトするガード=鎧兜であると書かれているのです。

 

それを捨てたら無防備状態になるのは明らかです。

 

 

 

シャバット シャローム