シャバットはイエシュアそのもの | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の造られた暦があります。創造の世界とぴったりマッチして

います。

天のイルミネーション。月、星、太陽です。神のアポイントメントの日を司るために造られたと書かれています。そして其の通りです。新月、シャバット、春と秋の祭り。これらは全て、

イエシュアを表しているものなのです。命のサイクル。

人の生きる姿。詩篇23にある義の道とはこの命のサイクルを生きる道なのです。

 

そして、神の創造されたデザインは、6日迄に全ての業をし、

完了した。神が第七日目に止まったように、人もその様に生きるように、初めから神が人の生活のサイクルを第七日目に止まる、その様に神がデザインされている事が、聖書にはっきりと書かれています。人間が変化進化する様に造られていない、創造物も

変化進化しないので、神の暦も同等に変化しない事がはっきりと書かれています。永遠に変わらない。

 

2000年以降は、呪いが消えたので、どの日でも同じになったのだと言う教えを聞いた事があると思います。神の言葉、婚姻契約が呪い?と言う発想からして始めからずれた人間の考え出した教えなのです。夫が妻を呪いで何千年も縛り付けるなんて言う

考えをするのは、それは”破綻した関係”だからです。表向きだけの冷たい関係にあるからそう言う発想をするのです。

しかも婚姻関係の記念の祝い日を捨てるとは、どんな関係にあるのかを意味するかも明らかです。夫の言うことなんて大事じゃ無い。

 

もし、パウロが”神の造られた記念日”レビ記23章を丸潰しにし、

壊し、否定し、無意味だと宣言するなら、神の言葉の権威と主権を否定し、人間の自由意思で記念日を独自にその人の考える良しとするものして良いなどとする教えを人々に教えたとするなら、パウロはダニエル7:25に書いてある様に、時の偽教師、偽預言者となってしまいます。

神の時とトラーを変えようとする”悪の力”だからです。

 

そんな事100%無いのです。パウロにとって本当に侮辱的なこと

神の言葉を否定する偽預言者だと世界はパウロに関して発言しているのです。それを言うなら”ローマ皇帝” ”ローマ政府”が変えた教えによりと正しい情報に直して発言するべきです。

パウロは神のトラーを100%教えていたのですから。神の使者預言者として。。

 

パウロは、ローマ14:5で神の記念日以外の、普通の日、神が聖別して分かたれた日以外の話をしているのです。これを全く読み違えればどこまでも聖書は、別物に変身して行き、様々な人造神学で変形して行く良い証拠です。

 

イエシュア、使徒、パウロ達が教えていた教科書は100%

トラー、預言書、諸書です。それ以外の聖書など1世紀には存在していないのです。一体イエシュアは何を教えていたのでしょう?その事実に着眼するだけで、何が神の言葉なのか、それとも人の教えなのかはっきり見分けが付きます。

 

あとは、聖書を完全に読み違えている事に気がつけば見えます。

世の中は、人間の教えに基づく創作の教えに満ちています。

神の言葉を一点一画でも変えれば、どの様にも変形してしまうからだから、神が神の言葉に手を加える、差し引くことを禁じているのです。

 

第七日目と言うその日には、深い意味があります。

神は、7と言う数字を造られたのです。その数字にも意味があるのです。7は完結したと言う意味なのです。

 

第七日目がシャバットである意味。神が7と言う完結した数字の中に意味を込められています。

”あなたはcomplete."と言われたのです。世の中は、神の目が

見た通りが見えませんから、あなたは”ダメな人”と教えます。

 

完全にされている事実でも、いつも行動、思索できないから、

感じない、信じられないけど神がそう言ったら誰も否定する事は、出来ないのです。

 

信仰とは、神の言葉に基づく事実を信じて生きる事です。

しかも、信じがたきを信じる世界が書いてある。

人の肉の目では、到底そうは考えられない事が書いてあるからです。

 

神の取り戻して下さった”本当の自分=新しい人=神の似姿の本物の自分”を救われた後、どう生きるか?

救われたらトラーは生きない。これは聖書ではないです。

人は神の口から出た一つ一つの言葉により生きると

イエシュアはトラーから引用してサタンに言い放った事が

嘘になるのでしょうか?神の言葉=トラーを生きる。

 

神に贖われた人はトラーを生きるとイエシュアも言われた通り

だから。申命記に書かれている通り。

申命記30:11ー14

 

トラー以外の書、神の契約書、神のインストラクションは

この世に存在しないのです。預言書、諸書、福音書以降

全てトラーに関するコメンタリーなのです。人の教えを通さないで、自分で聖書をそのまま読めば分かります。

そこに神の造られた人間の生き様時代を越えようと同じ

神のインストラクションが綴られているのです。

 

失敗、こけても、また罪人に後戻りでは無いのです。

神の子なのに、別の実態、ずれた実態を生きることを選んび

続けている、ずれているよと言う事です。

 

世界は、あなたはどんなに欠けがあるのか、どんなに情けなく、

どんなにダメなのか、出来ないのか、そんな事で自分と言う存在を評価して来ます。世界ではなく、信じる者の口から強烈に、

熱烈に性悪説を語り続けられているのです。それが謙遜な考えとまで言います。謙遜とは、神の目から見る通り、それ以上それ以下でも無いその通りを見る事です。

 

でも気がつけば良いのです。其の声の発信元は神では無い、

蛇です。神は私たちに”ずれている!”と指摘しますが、

あなたは、”罪まみれの性質に造られた人”なんて言いません。

神の似姿そっくりなのに、ずれた生き方考えてかたしていれば、それが”ずれ”ハターだ、元=トラーの生き方に戻れと言われているのです。違いが見えますか?

 

もし自分が本当に罪人のままであると信じるならば、

それは神が語られている言葉が頭上を通り過ぎている、

神の言葉を完全に否定しているのです。

神の言葉を本気で信じないから、神が語られている真実を

考え始めることさえしないからです。

 

人の教えではなく、純粋な神の言葉だけを考え、思い巡らすと

言うことをする事に徹底すればいいのです。人の言葉などを買って信じれば、エデンの園の出来事と同じことを日常続けて行きます。それはなんでしょう。

 

1 神の言われたことに対する疑い。

2 自分の知恵に頼る。詰まりエバは自分が神の立場で自分の

人生の主権を握る事ができる。神に頼らなくても自分で全部出来る知恵が欲しいと考えてしまった。

ゆえに神の言葉=神が言われた事では無い蛇の言われた言葉を信じた。

 

神の言葉を否定するとは全くこれと同じことを繰り返すことなのです。

 

そして、偽の自己像で考え、生きれば、自分が本当は誰であるのかを知る事が出来ないまま生きてしまう。自分が誰か分からないから、ずっと本当の自分探しを続けるのです。

宗教の世界は、コンスタントに偽の自己像を言い続けて来ます。

でもその中で、細く絶えず常に響く”神の言葉”だけに聞き続けるように、神は私たちに言われています。

 

救い主であるイエシュアが私たちのために全ての業を永遠の中から完了していると言われました。

神の完了の業の実態からだけ生きなさいと言われました。

それがシャバットの醍醐味なのです。だから止まる。

人の努力何も付け足す余地がない、神の完了の業と言う意味だから。

 

神の言葉は飾り物では無いのです。100%神の言葉を生きる事

私たちを生かす命の源=神の言葉=神ご自身の実態なのです。

全ては、言葉で造られている。

それは、私たちは神の言葉を食べて、神の言葉=神の

デザインした人間の命を生きられると書かれているのです。

宗教、修行の世界の話などでは無いからです。

 

こんな生き方嫌だと、どれだけの人が考えているのでしょう。

 

出エジプト31:16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、

永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。

31:17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるし

である。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。

 

神が人との関係に入っている証拠としての印がシャバットと書いてあります。今もこの事実は変わらない。誰も夫の婚姻契約を捨てる人は居ないでしょう。婚姻届を解消する。それをする場合は、夫と離縁する時と言うことは誰でも分かるでしょう。

 

何を信じて生きているのか、聖書に戻り確認する必要があるのです。

 

Shabbat Shalom