神の言葉 デザイン通りの状態が喜びの源泉 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

20世紀は、神の言葉を知ること、神の言葉より、現象、奇跡、お恵み、ご利益、繁栄、成功、不思議、活動を求める

時代だった。

 

じっくり聖書に何が書いてあるのか、神との関係、神の言葉を学び、知り、神の言葉に深く根付き神が完了の業により、

取り戻して下さった本物の自分を生きる事、本来のデザイン通りの神との究極の親しい麗しい関係、人との関係、夫婦、家庭を

神の言葉通りしっかりガードし、関係を築くより、違うこと、宗教活動が重視された。家庭を二の次にしてでも、犠牲を払ってでも宗教活動が第一、それが神を愛することと教えられた。

 

私個人としては、どこで神の本当の言葉を聞いたらいいのか、

み言葉を聞けない、学べない飢饉、飢餓状態だった。

もちろん、英語の聖書に関する解説は聞いても、それは、

ヘブライ語=オリジナル聖書に書かれている内容の解説ではなかった。私の聞いていたものは、人の作った神学を通した

教えだったから。

 

聖書ではなく、人の編み出した神学を学んでいたと言う事、

もちろんそれに気が付けなかった。海外で学んだ先生が間違う事を言うはずないと完全に信じていたから。でもその先生も誰に

学んだかで、その信仰内容が全く別の物になる。ずっとどうして聖書に書いてある事を曲げて、2000年以降はこうなったと言う必ず変化球が入るのか、それがずっと疑問だった。

所々は真実もあるけれど、不真実な教えが混ざると、迷路の様に行き止まりになり、それ以上先へは広がらない。狭い。

 

人が作り出した教えを、イコール神の言葉の真実だと疑いもなく

信じ込んだまま、あれこれ混乱していました。

 

何が真実なのか、聖書だけに戻り、棚卸しをしないまま、1700年の長きに渡る、ローマ皇帝、ローマ政府が作った宗教、神学が制定した古い人間の伝統の教えを、今もそのまま保存してしまっているのです。それが本当のパン種ではないでしょうか?別物に膨れ上がってしまった。その時代はもう終わるのです。

 

イエシュアが再び来られたら、誰も”主”を知ろうと言う人は居ないと預言されています。なぜなら、皆神の言葉=トラーを知り、トラーを生きる世界に移行する事が聖書には書かれているから。

人間の教えに基づけば、全く辻褄が合わない教えが聖書に書かれています。。

トラーは2000年前で、神が終わらせたと言うローマが作った教えだから、聖書とはずれている。

イエシュアが再び地上に戻る、来るべきオラームでは、

全ての人がトラーを生き、全ての国民が神の記念日=レビ記23章を祝うと書かれているから。

 

真実と不真実は融合出来ない。隔ての壁が壊れる条件は只一つ。

神の永遠の言葉の真実のなかだけ、人は陰りなく、壁なく、

障害物なく1つに繋がれることが出来る。

 

主を知ろうとはどう意味で書かれているのでしょう?

トラーに書かれた神の言葉です。どうやって主を知る方法を

神は与えてくださったのか。神の造られた創造物を観察して、

神の言葉を覗き込めば、神がどんなお方か分かると書かれている。

 

トラー、預言書はわたしそのもの。”トラー、預言書を読めば

わたしが分かるとイエシュアが言われた通りです。”

 

モーセに与えられた、エデンの園の初めから口頭で伝えられていたトラーが、文字として永遠の契約である証拠として記された神の言葉、あの契約の板が入った箱の蓋。カポーレット。

これは、贖いと言う言葉と繋がっっている。

響きを聞いただけでも分かる。ルート文字が同じ。

ヨム キプールのキプール。絵を見ても分かる。

 

あそこに主の臨在が有った。地上での臨在。イエシュアが地上に来られたのと同じ。ある時期、神の選んだ場所=エルサレム、

イエシュアが地上に居られた。神殿の存在している時、神の臨在が神殿に存在していた。それまでは、移動式のミシュカン。

その中に神の臨在が在った。

神が人の中に、人の間に住まわれる、永遠から永遠にインマニュエルの神である性質、事実を、肉眼で見える形で、

人に表したのでしょう。

 

あの箱の蓋の上からアバ父が語られたでしょう。

何を意味しているのかクリアーです。

 

あのチェラビム。エデンの園に戻れと、命をガードするために。

神の言葉をガードして生きれば、それは喜びが溢れる源泉で

ある事、ちゃんとこのピクチャーラングエッジで物体で

現している。

箱の上のチャラビム。命の生み出される場所=神の言葉。

神=言葉と書かれている。あなたの命を安全にガード

するために、喜びが死なないために、神の言葉をガードして生きなさいと神が言われる意味がクリアーに見える。

 

チェラビムも見れば分かる。”向き合う”

顔=御前にと言う言葉と同じ。パニン=顔と顔を合わせ、

ベールが無い状態で、人と神は人と人は向き合い

関係を結ぶ様に造られた。それが、究極の喜びが

存在する状態、溢れる状態。隔ての壁、疎遠な関係、それは何故

寂しい、悲しい、辛いのか。私たちの造られたデザイン、

エッセンスから外れるから。単純な理由。

 

 

神の言葉で全世界の命が生み出された。何1つ神の言葉以外で

生み出されたものは世界には存在しない。私たちは神の言葉で出来ている。全部繋がっているでしょう。神の言葉で人と神が繋がっている。臍帯と同じ。

命につながる。神の口から出る言葉=トラーを食べて生きる。

天から直接降るマナを食べて生きる。

全部同じ事を神が私達に伝えているのです。

腹に書かれたトラーをみんなが生きる。とすると、トラーが

終わりと言う教えが全く辻褄が合わないことになります。

 

事実と不真実を混同してはならないのです。

誰がなんの教えと交じり合おうと、何を信じようと、どう行動しようと、それはその人の自由選択、問題で、誰もコントロール

不可能です。イスラエルの神を信じると言う人達は、何が神の

言葉の真実で、何が人の作り事の教えなのかを、はっきり聖書に

基づき見分けないとならない。知らないとならない。責任が

重い。地の塩世の光して。

 

昔よく言いました。”どれにしようかな かみさまのいうとおり”

と。神の言う通りではない事を選ぶ、人の教えや人の伝統や言い伝えや習わしを選ぶ選択もあるのです。

自分はどれを選ぶのか?神の言葉?分からないなら仕方ないけれど、分かった上で、知った上で、敢えて、尚も人が作り出した伝統の教え、神学?を選ぶ?とするなら、それはどうして?それは神の前に神の差し出すものを選ぶ一人一人の決断にかかっているだけです。

神の目にどちらが、トーヴなのか、真剣に考える必要がある。

人の事を思って、神を思わないなんて事があってはならないから。

 

そして、神が仰せになった事では無い事を、神が変えていないに、神が2000年前に神の言葉を、終わらせた、変えたと言う

事にされてしまっていることが大問題なのです。ローマ皇帝が

やった事なのに、神が、パウロがしたのだとされてしまっている

最大の誤解、誤り。

 

そして、一つ気がつかないとならない事があります。

自分の行動、言動が、もしかして、イスラエルの神に反する、

トラーに違反する事を知らない間にしていたら、必ず周りを偽りに導く事。知らない間に、トラーに反して、神に対する偽証を

している事。本当は聖書になんと書かれているのか知らないのに伝えてしまっている数々。これは避けられない結末なのです。

だから、一旦はっきりと気が付いた人はもう二度と嘘を生きれないとも分かると思います。

 

クリスチャンも神が世界を創造された事を知った後、

人間は猿から進化した、動物、生物は進化し続けている、痕跡は証拠は無いけどなどと、もう二度と嘘でも考えないと思うのです。

 

それと同じです。真実の点と点だけを繋げていけば、

神の造られた世界、神の語る目に見えない世界が見えてくるからです。でも不真実な点と真実な点は繋がらない。だから、それ以上奥へは繋がって行けないのです。

 

テストの回答に進化論を書かないとならないけど、それが真実ではないと疑いもなく分かる、それと同じ。聖書に基づき確認しないまま、

真実が分からない場合、もしかして偽、嘘を真実だと考えているかもしれないのです。そんなこと実は山ほど世の中にあるのです。世の中にある、考えたら分かる、嘘のような仮説、定説は実は嘘。

嘘も言い続ければ、人々の間に真実だとして浸透していくのです。神の言葉をちゃんと検証して、調べないから。人の教えなのに、イコール神の言葉の真実だと思い込んでいるからです。

 

どうしてでしょう?人の教えが、神の真実を知ることを妨げてしまうからです。神は永遠普遍と言われたお方、それが神の性質

なのに途中でコロコロ7時代に7変化する変わる神と不真実を人に伝えたら、それだけで、全く信頼に値しない神になり、

不安を与えてしまいます。

 

神の言葉=永遠普遍のヘブライのトラーなのか、それとも人の教え、トラーを終わり、廃れた、捨てよとした、ローマの教えのどちらを信仰の土台として信じているのか?が最大の分かれ目、

問題点なのです。