神の言葉を作り変える教え 神ではないものへの信仰 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

トラーの中にある神の教えや、デザイン、しきたり儀式が、

色々なものに変身させられています。

 

聖体秘跡。プロテスタントは、聖餐式と名付けました。

この儀式は、実は聖書では、種無しパンとぶどう酒を

頂く、過越の祭りのセーダーの晩餐の中で行うものなのです。

その日から、ずっと1週間、種無しパンを食べる週を、

神の記念日のデザインでは祝うのだけど、それも端折って

削除されています。

 

でも、古代のローマ宗教の教えにならってされる儀式では、

毎月最初の日曜日に行う。種ありパンと、ブドウジュース、

もしくは、ワインで。過越の祭りとの関連は何も無い。

イエシュアがこの儀式を行う様に言われたのは、いつ?

過越の祭りを祝うたびにと、言われたのです。

 

神父が祈れば、その瞬間に種ありパンと、ぶどう酒は、実際に

イエシュアの肉、血に変化すると言う教え。神父はエジプト

で訓練されたマジシャン?

味はただのパンで、葡萄酒なのに、そう信じる信仰。

嘘でしょう。味も姿もただのパンや葡萄酒なのに

実際に”イエシュアの血と肉に変身”すると言う教え。

 

聖書が無い暗黒時代、司教たちの教えだけを通して教えられる

人達は、それが本当であると信じ込まされる。でもクリアーな

頭脳で考える人は、内心<嘘だろププッ!>と思っても、

疑問を口には出してはならない暗黙の了解がある。

ありがたい振りをしてそれに従ったのでしょう。偉い先生の

教えに反発すれば、自分がまずい立場になる。長いものには

巻かれろ。普通に考えたら分かるでしょう。嘘か誠か。

裸の王様の世界は、いつでも、どこでもある。もう嘘は止めて。

 

三位一体の太陽神の名が入れられている”種ありパン”

プロテスタントもカトリックも、過越の祭りの一連の祝い日は

祝わないで、種ありパンを使う儀式毎月第一サンデーにする。

ローマ教の教えを引き継いでいるからです。トラーではなくて。

1世紀の使徒たち、パウロ、イエシュア信者は、100%

トラーだけを生きていたのです。彼らは毎月第一のサンデーに

聖餐式はしないで、過越の祭りの晩餐でこの儀式を行ったの

です。この違いが見えてくるとドンドン真実の扉が開いて、

謎が解けてきます。

 

この儀式は、過越の晩餐の中で行うものなのです。

しかも、種無しパンで行うから意味がある。変えてはダメだと

神が言われた理由が見えます。本当の意味が消えて見えない、

消えて無くなるから。月の最初の太陽の日=サンデーに

やると制定したのは、ローマ教。ダニエル7:25。

時=神の記念日とトラーを変える力に、関してはっきりと

預言されている通り現実にその事が起こりました。4世紀に。

I H Sのマークがはいる種入りパン。

又割礼は、幼児洗礼と言うものに変身。しかも男女共。

これも意味が消えてしまう。アダムが最初に造られた。

メシアがカハールを愛した様に、夫たちよ、妻を愛せよと

言う教えに繋がってもいるのです。又無条件で義とされて

いる印が代々に渡り子孫にも無条件に義とされた事実が

与えられている証拠でもある。だから、義とされるために

神の言葉を生きるのは、的外れな発想なのです。

義とされた人達が生きる姿、それがトラーに書かれて

いるのです。その違いがはっきり見えれば何がどう違う

のかクリアーになります。

男性に与えられた繁殖臓器に印した証拠。

そして、重大な責任を男性は負っているのです。

それを忘れさせてしまう。

 

洗礼儀式は、もっと広く神殿に入ることに関わる事、そして、

立場が変わる、結婚で、産後で、色々な時に行われるものです。

だから、それは信じたから受けると言う意味だけであれば、

イエシュアが洗礼で川に入ったことが辻褄合わない教えに

なります。

 

しかも、水に浸かるのではなく、滴礼を編み出した。水を頭に

ふりかける。水に潜る意味が消えてしまいます。

”古い自分は死に、新しく生まれ変わる”新しい命を

表すものです。ミクバは子宮に繋がっている。

水、新しい命、希望と全部繋がっている。

 

コンスタンチヌスがヘブライの神を信じたと言いますが

本当でしょうか?ローマ皇帝の最大の目的はローマが繁栄、

国が長きに渡り安定して存続すること。自分が長きにわたり

王の座を占めて君臨する事。神同等に祭り上げられる事。

自分を神の様に崇め祭る偶像まで作る皇帝。

 

神の言葉を切り貼り、いや捨てるように命ずるその頭脳は、

エジプト在住=偽の主人に繋がれた割礼の無い頭脳そのまま

です。そんなことをしてはならないと言う、神の言葉など屁の

河童。無視。自分教、自分をローマ帝国全体で崇めるたの

宗教を作ったからです。

これは、ずっと深く探って行くとますます見えてきます。

 

聖母信仰も、聖書になどありません。聖書の中のどこに

イエシュアの母、ミリアムを神と同等のレベルに祭り上げ、

拝む様な指示が書かれているのでしょうか?

ローマ皇帝が、ミリアムを、神と同等の位置に置き、崇拝の

対象にしたのです。聖書では無い、神の仰せでは無いものが

世界に浸透しました。

 

ここら辺、神では無いもの、只の人間を拝むことに対して、

プロテスタントも聖書に基づき抵抗を感じるから、その教え

を拒絶しているポイントでは無いのでしょうか?でもリーダー

を神同等と祭り上げる〜直接は言いませんが、絶対的権限と

して崇める様教えられたりする場合もある。だから世界に浸透

した人間の神学に疑問視しない、してはならない圧力もある。

人の教えなのに、イコール、神の真理、言葉だと崇め奉られる。

ゆえ、それに対して、聖書に基づき異議を唱えることに、

冒涜だと言う雰囲気まである。

 

母子信仰は、古代からあります。バビロン、エジプトに

繋がっています。

 

ローマは異教の神々、太陽神信仰の要素をふんだんに取り入れ、

混ぜてしまったのです。白いご飯に、様々なものが入れられ、

五目ご飯、混ぜご飯の色に着色されたものに変身。

 

ミトラ教の様に。全ては太陽神信仰に繋がるもの。

タンムズ イースター。この母子信仰は、様々な異教の

宗教の中にあります。見た目には麗しい、母と子の姿です

が、その内容が異教の神々のものですから、マズイのです。

 

 

 

だからその結果出現した”新しい新宗教”の教えが、全く

聖書に書いてある1世紀の使徒、パウロ、イエシュア信者=

ヘブライ人がほとんど、又異邦人が少数、彼らの信仰内容とは

大分異なるものになったのです。