聖書とは婚姻契約に関する全てが書かれている契約書  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

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イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

霊の戦いとか、神とサタンの最後のバトル、最後の審判、

姦淫の罪、全部何を巡って聖書に書かれているのでしょうか?

 

聖書は”婚姻契約”を巡る全てに関して書かれているのです。

テーマは婚姻契約=婚姻関係。偽の旦那=サタンから、

花嫁を奪われないように、本当の主人が守る。

”All about the Marriage Covenant"

婚姻契約に関する全てが聖書なのです。

 

その前に聖書に書かれている、”罪”の定義はなんと書いてある

と考えていますか?

不道徳とか、殺人、盗み、悪い事全てを考えるとか〜。

それも罪の定義の中にもちろん入っていますが、”罪”ハターに

関する、全部の全貌を網羅する意味、定義が、聖書の中に

ちゃんと書かれています。

 

聖書では、罪とは全て”トラーに対する違反”とはっきりと

書かれています。罪の定義は、神のトラーに対する、反抗、

違反、トラーに書かれている事を、簡単に言えば、破る、

違反する、反則する、無視する、ないがしろにする、捨てる事。

それが聖書で言うところの”罪”の定義です。

 

この聖書が語る罪の定義は、”トラー”が終わったとするなら、

この世に罪と言うものは存在しないので、なんでもあり、

やり放題言う事を言っていることと全く同じことになって

しまいます。

 

罪=トラーに対する違反の定義の中には、家の屋上に”柵”を

付けない事、神の言う通りにしないこと全て、それらは全部

”罪”です。親鳥とひなを同時に巣から取る事、それも罪です。

人が考えること、感覚、基準とは全く違う世界の”罪”の定義。

 

なぜこんな? トラーは人とそして創造物が生きる全てに

関しての内容だからです。罪が許されて、負債が消えたと

言う、ある一部の小さい、狭い世界の事を語っているのでは

無いからです。もっと広く、深い領域の全貌なのです。

 

アダムとエバ=神の言う事を無視して、違う事をした。

罪が入り込んだ原因、要因がちゃんとはっきり書かれている。

新しくされた人でも、パン種取り入れ続け別の姿に膨れ上がる。

足に付くちりを落としてと、全部同じ事を語っています。

罪の定義は、トラー=神の言葉に対する反抗、違反。

 

では、トラーは終わりだ〜聖書の三分の2の箇所は終了と言う

置換神学や、デスペンセーション神学の教えを元にすると、

罪と言うのは現在存在しませんと言う、全く矛盾だらけの

教えになってしまいます。それだけでは、ありません。

聖書は”婚姻契約”を巡る全てに関してだけ書かれているのに、

トラーが無くなったら、一体なんの話をしているのか、

テーマが消えて、意味がゼロ。最後の審判も意味無し。

 

聖書が途中で変わったと言う教えの先入観、偏見が無い人でも

聖書をその通りに読めば、最初の70%の箇所と、最後の30%

の箇所が違う教えであると言う解説が、全くめちゃくちゃに

辻褄の合わない教えであることに気がつけます。

 

婚姻契約の全貌は、エデンの園から、アダムとエバにも

口頭で伝えられていた、同じトラーの内容です。

その一つ一つのポイント、重要な要素は、ある時点ではっきりと

ある個人と結ばれた契約として出てきますが、それは一部です。

それ以外のトラーの内容の全てはそこでは話していないからです。

 

読めば分かりますが、なぜモーセはパロに、出エジプトのあの

一連の出来事が起る前に、”カナンの地”に行き、捧げ物をさせて

下さいと請願しているのでしょう?なんの脈略も解説も無いで

しょう。特別な神の定めの時に、カナンの地に行き捧げ物を

したい。なんで?です。まだシナイ山で婚姻契約が書かれた

全貌が無い。”み〜んな口頭で神のトラーを神から代々伝授

されているからです。”

 

神が造られた人間のデザインする全ての詳細は、イエシュアが

昇天した時点で終わりと解説する異邦人哲学神学。

そして今は、なんでもやり放題の時代。そして、再び救い主が

地上に戻ったら、今度は皆全世界の民族がトラーを生きる世界に

なる。全くおかしな解説なのです。一人一人の頭脳に書かれた

トラーがある。イエシュアが統治する世界が来る。皆が

トラーを生きる、でも今はそれは終わり?停止?一体

それってなんの教え?書かれてもいない、この世に物理的にも

存在もしない、新しい契約書を受けたのだと言う教え、

それ自体も変な教え。

 

トラーが終わりと言う解説に基づいたら、罪を定義する基準が

消えたと言うことになります。だから、なんでもあり?の世界

なのでしょう。なんでも許される。イエシュアが

トラー否定し、終わらせたと言う解説。

サタンの手品トリックは実に見事です。

 

ちゃんと翻訳聖書を読んでも分かります。

いや、トラーを知らないからイエシュアが引用されている

教えの全ては”トラー”100%であることにさえ、気がつかない

ほど、盲目になってしまっているのです。

 

これはどうでしょう?イエスさまは何を教えて、何を解説して

いるのでしょう?

 

マタイ22:35 そして彼らの中のひとりのトラー学者が、イエスを

ためそうとして質問した、

22:36 「先生、トラーの中で、どのいましめがいちばん大切

なのですか」。

22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、

思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

22:38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。

22:39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなた

隣り人を愛せよ』。

 22:40 これらの二つのいましめに、トラー全体と預言者とが、

かかっている」。

 

ここで、イエシュアは何を引用して語っていますか?

申命記6章です。その箇所に書かれている事を皆知っているから

たった一言、37節〜39節を言っているだけなのです。

 

トラーを生きよとイエシュアが語っているのが、聞こえるで

しょうか?贖われ、救われた人はトラーを生きると書いてある。

神を愛する人は、神の仰せをガードし生きるとも書いてある。

生きることはキリスト=メシア=トラーを生きると書いてある。

花嫁にされた人は、神のトラーを生きる人たち。

 

なんで、イエシュアが昇天したら、イエシュアが地上で人々に

教えたトラーの”天直送の解説”=生き方が終了になるので

しょうか?

 

ギリシャ語で”成就”と言う意味を表す言葉は、”プリロ”充ち

満ちた姿に完全になる事、溢れるまでに満ちる事、コップが

あれば淵までギリギリに水が注がれている様子です。

どうして、それがトラーが”終わり”終了と解説されるのか?

しかも、なぜ神の言葉=呪い?などと考えるのか?

神の言葉=呪い〜変わると言う発想自体が、完全に異教徒の

異邦人思索そのものです。

 

それは人間の神学、トラーを知らない、ヘブライ語聖書に

何が書かれているのかも、じっくり学ばない人たちが作り

出した神学=デスペンセーション神学の哲学から解説して

成就=終わりと解説しているだけで、本当の意味は全然

違います。しかも、それに基づいて、切りはり、付け足し

翻訳聖書なども作り出すほどの違反をしてしまった。

 

天から直接解説される、イエシュアがされたトラーの中身の

解説に、人々が驚愕したのは、人間の解説する中身とは、

領域も、広さ、深さ、高さが半端なく、比べる事も出来ない位、

余りにも今まで聞いてきた人間の解説とは違いすぎている、

まさに知恵深く、素晴らしかったからでしょう。

 

”婚姻契約” 花嫁を偽の花婿=サタンから奪い返すその最後の

プロセスが書かれているのです。

 

続く