普通の世界の普通の常識で考えてみても分かる事があります。
フランス文学を学ぶのに、大学に行き、その教授がフランス語
の言葉も知らなければ、フランス語で書かれた書も読んだ事も
なければ、フランスの文化も知らないなら、その教授から
フランスに関する何を一体学べるのだろう?と考えるのは普通
の常識があれば分かることです。多分その様な大学にも、
その様な教授の授業も選択しないはずです。普通に考えれば。
出来れば、最高峰、その分野に熟知、長けているプロに
習いたい。聞いても答えを得ることが出来ないなら
質問する意味がない。世間一般の人にも分かることなのに、
不思議な世界がある。
カトリック教の教義は、1世紀に出現した、トラーを終わり、
トラーを生きる事を禁じたローマ帝国の教えが土台です。
イスラエルの神を信じているのに、永遠普遍のイスラエルの
神の言葉は否定する。1世紀にトラーを捨てた、終わったと
言う土台の教え、もちろんヘブライ語聖書も学ぶこともしない、
捨てたから。
だから、修道院で、トラーや福音書以降のヘブライ語の聖書の
ユダヤ人達から没収した書が眠っていてもそれらが何の書で、
何が書いてあるのかさえ、主教も、教父も読めないから
分からなかったのです。
ヘブライの世界なのに、その大元=ルーツを捨てたら、何が
神の言葉に書かれているのか詳細が分からない。
ルーツ、本物からどれだけ遠くに追いやられてしまったのか
と言うことは一目瞭然の事実なのです。神の言葉を捨てたから。
神がヘブライ語と言う言語を選び、イスラエルと言う民族を
世界の大家族の長として、トラーを教える責任を負わせる
役割に選び、家族全体を導き教える役割を与えたのに、
神のオリジナルのヘブライ語の聖書が今までほとんど、
異邦人の世界には伝えらて来なかった。なぜ?伝えられて
いないのかと言う謎が解ける。
世界に広く伝えられたのは、誰かが作った教えや神学であって
も、オリジナルのヘブライ語聖書に書かれた内容ではなかった。
もちろん言語を学ぶことは至難の業ですが、聖書を学ぶのに
言語=ヘブライ語の辞書も無い、手がかりが無かったと言う
状態は、本当に不思議だと考えた方がいいのです。
フランス語、英語、日本語、どの言語でも専門家として教える
のなら、その言語を学ぶ、知っていることは当然のことなのに。
どうして聖書の世界は、ヘブライ語なのに、ヘブライ語聖書を
教える人が、全く居なかったのか?謎が解けます。
ローマ政府に、禁じられ、ユダヤ人達=お家元はヘブライ語
聖書を語る事、教える事、生きる事を禁じられ、完全に黙らせ
られたからです。それが答えです。アメリカでも、ヨーロッパ
でも、全くヘブライ語聖書から語る解説を聞いたことなど
ただの一度もありませんでした。その事に関して、不思議だと
も思わなかった。その頃、アメリカナイズされた
チャーチアニテイが真実だとルーツだと勘違いしていたから。
聖書は英語では書かれていないのです。元は全部ヘブライ語。
他の言語は全て”翻訳”ギリシャ語を含めて翻訳です。
この疑問に対する答えがクリアーに見えます。
トラーを捨てよと命令した時のローマ帝国政府の法令が
あったからです。ヘブライ語の聖書が学ばれない、聞かれない
のは、ユダヤ人がトラーを教える事を禁じられたからです。
ユダヤ人の中だけでは、確実に語り継がれているヘブライ語
聖書は、異邦人の世界には実は伝わってはいなかったと言う
ことです。イエシュアはユダヤ人であり、救い主の伝えた教え
は、父の言葉=モーセを通して与えられたトラーなのに。
普通に考えられている教え。トラーは律法=仮の教えで、
命無しの死んだ教えなので、破棄。それはローマ政府の言い分
です。今まで聞いてきた教えを、そっくりそのままローマ帝国
の法令の中に見ることができます。
ローマの教え=ローマ皇帝の憲法=トラーを捨てよ、
ユダヤ人を奴隷、殺戮、国外追放。憲法の中に書いてある
続きです。
”トラーはヘブライ語で読むことを絶対に禁じる。
そして、ユダヤ人たちは、ある種の与えられた聖書しか
集会で読んではならない。ユダヤ人たちは、反トリニタリアン
的なヘブライ語の祈りをする事を禁じる。
シャバット、祭りと割礼を施すことを禁じる。そしてユダヤ人
の不動産、所有物、財産は全部没収する。”
<神が禁じたのではなく、ローマ政府がシャバット、祭り
割礼、トラーに書かれた全てを生きる事を禁じたのです。
これが真実。>
パウロが割礼を、トラーを禁じたと教えられていますが、
全くの誤解です。パウロが禁じていたのは、”義”を得るために、
そんな的外れな目的のために、ユダヤ人に改宗する儀式=
当時その儀式を割礼と読んでいた。その儀式を経なければ
神の家の一員とはならないとした、ラビ達の教えに対して、
パウロが反論しているのです。
救い、義を得るために、当時のユダヤ教の儀式=割礼をする
必要など無いとパウロが言っているのです。違いが見えますか?
パウロは、アブラハムの割礼が無意味、終わったなんて
話などしていないのです。割礼は永遠に継続されている契約が
存在する証拠に男の子=子孫に無償で受け継がれている事実を
表す”印”を施す事だからです。
そんな人間の行いで義とされる、神の子にされるとするなら、
神の完了の業が全く無意味、恵を無駄にすると言っているの
です。しかも、救い、贖い、義とされていることは、人の
行いで得られる類のものではないからです。
クリスチャンの世界で言うなら、神の子になるために、
救いを得るために洗礼を受けるのでは無いでしょう。
イエシュアを信じたからその表明として儀式をするのでしょう。
救われるために、義とされるために洗礼を受ける、地獄に
行かないために洗礼を受けるなんて言う前提ならば、それは、
とんでもなく外れた意識、行為だと普通に理解できるはずです。
永遠普遍と言われた神の言葉を疑うなかれ。人間の教えが神の
言葉と違うなら人間の言葉の方を疑い、聖書に戻って事実確認
をすべきなのに、余りにも長きに渡る浸透している教え=
世間一般に流通している伝統、常識に対して、誰も疑いを
持たないものです。進化論や500年前に出てきた様々なニセ
科学仮説と同じです。誰も疑問にも思わない。
”ラビ的司法権は縮小される、以前の宗教の主要な特権は全て
取り除かれる。ユダヤ人はクリスチャンに対して意義を絶対に
申し立てることは許されない。クリスチャン化した東西にある
ローマ帝国は、4、5、6世紀に渡り、ユダヤヘート、反ユダヤ
思想に益々拍車がかかり、法と教育に於いて、ユダヤ的な教え
は最小限に縮小、又は劣っているものと位置付けた。”
”全ての点に於いて、ユダヤ人はクリスチャンに対して服従、
言いなりにならければならない立場を位置づけられた。
そして、キリスト教は、ユダヤ=神のトラーの教えより
優れているとし、その優遇性をエンジョイし始め、
これが、ユダヤ人にとって深刻な結末をたどるものとなった。”
パウロが4〜6世紀にもし居たら、同じ様に、トラーを教える
こと、生きることを禁じられ、迫害されて殺されていたの
でしょう。いや事実、パウロや使徒たちは、トラーを毛嫌い
する同じく1世紀のローマ政府に殺害されたのですから。