事実は明るみに出る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マタイ7:21ー23

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国

にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを

行う者がはいるのです。 その日には、大ぜいの者がわたしに

言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって

預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名に

よって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』 しかし、

その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがた

を全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

 

不法者とは、トラー<神の言葉>無し<不>、トラー

から外れて、神の言葉を捨てて色々やる、それが元のヘブライ

語の意味です。>

 

知らない。この知るとは、婚姻契約の中にある関係、究極の

密な関係での知ると言う言葉なのです。私との婚姻関係の中に

あなたは居ない=知らないと言っているのです。つまり、自分

=神に属していないと言う意味です。

 

使徒たち、パウロ達亡き後、お家元、ナザレ派のユダヤ人

信者達とは、一線を引き、1世紀の後半からローマ教は、

聖書に書いてある神のことば、神の仰せを文字通りの意味で

捉えないように教えて行きました。

 

神の言葉は全部霊的。今までは影=終わり〜廃止〜。

シャバット、割礼、食物〜=馬鹿馬鹿しい。全部霊的適用で、

実際には何でも良い。トラー=神の言葉はノン センスとする、

ギリシャローマ思索哲学者が、神の言葉=トラーは意味ないと

定義しただけなのです。神の言葉を否定する事がどんな事

あるのか気が付けない異邦人達の教え。

 

<これ聞いた事があります。今は恵の時代なので何でも感謝

して食べて良い事になった。聖書のどこにそんなことが

書いてあるのか?根拠なしです。誤解しているだけです。

パウロ達の解説、論点を。神の記念日もどの日も同じ、何でも

自分の判断で任されている。霊に導かれているから、もう聖書

なんて読まなくて良いとまで言う教え。>

 

トウトリアン

肉的割礼と古い律法はある時期までで使い果たされ、終了。

古い律法が明らかに示しているように、一定時期までで、

終わったものである。そしてシャバットも、同等に一時的に、

テンポラリー、に行われるものであったのだ。”

 

ちょちょちょっと待ってです。神の言葉ではそこの所を、

なんと言っているか?そこで、ちゃんと聖書に戻り確認するの

です。確認しないから、人の言葉なのに神が言ったと誤解して

しまうのです。

 

1世紀後半2世紀は、個人個人が聖書など持たない、ましてや、

ヘブライ語聖書を読んでないのです。ヘブライ人のトラーを

知る人達、ナザレ派のイエシュア信者達、お家元を退けたら、

本当は聖書になんと書いてあるのか、普通の異邦人など、

調べる術さえ、無い時代、1世紀後半です。

 

シャバットも割礼も”永遠に、代々契約が有効である

印”と書いてあるではないのでしょうか?神の言葉が終わりと

すると、全て本当に辻褄が合わない。預言書も意味が無くなる

のです。この矛盾点にいち早く気がつく必要があるのです。

 

こられらの教父、主教達は、パウロの様なヘブライの

トラー教師では無いことは明らかです。

勝手に色々神の言葉を塗り替えているから。

 

2世紀にユステイノ=置換神学発案者=により書かれたで

あろうと思われるダイアグニテイスへの書簡に

こう書かれています。

 

”肉に関しての細かい規定、そしてシャバットに関する迷信

そして、ご自慢の割礼、見え張った祭りと新月、全ては

ノンセンス、意味なし、討論する意味さえない。”

 

もちろん、神の仰せでも、命令でも、言葉でも無いです。

 

ローマ政府からの承認を得るためには、ますますヘブライの書

トラーと、そのライフスタイルを否定することにローマ教父、

主教達は、邁進して行ったのです。もちろんその中には、

ナザレ派に属する、ユダヤ人、異邦人は居ない。政治的理由。

 

”イエスキリストを告白しながら、ユダヤの習わしをする事は、

不条理、全く馬鹿らしい事だ。しかし、ユダヤ人達が

クリスチャアニテイを見上げるべきなのだ。”

マグネシアの人々へのイグネチウスによる書簡 115CE

 

ユダヤ人がどうしてこの様な教えに抵抗するのか、今は

はっきり理解出来ます。神により、トラーをガードし生きよと

言われているのに、こんな人間の教え=トラーを捨てよと

言う教えに、命を張っても抵抗するのは当然です。

 

巷に長年流通して浸透している聖書=神の言葉=トラーを

捨てよ、終わり、律法で、呪いと言う教えは、人間の唱えた

教えであり、神の言葉、神の宣言では無いことは100%

クリアーに明らかです。聖書に戻れば。聖書を学ばないから

聖書に根拠を置かなければ、それこそ何でもありの教えが

続出しているのです。

 

パウロや使徒達がローマに処刑された後、聖書とは異なる、

ローマの教え=トラーを捨てよと言うスローガンを土台と

する新しい教えがどんどん出現してしまった。

 

結局最後には、異邦人教父、主教たちにより、イエシュアが

教えていたら、使徒、パウロたちが教えて生きた

ユダヤ的トラーの中身のライフスタイル、教えをほとんど

破棄、排除するように教えて行ったのです。

 

イエシュア、神、パウロ、使徒が別の宗教を作ったのでは

なくて、1世紀後半のローマの教えを信奉する異邦人主教

たちが新しい教えを編み出したと言うのが歴史の事実、

聖書の事実です。

 

ある感覚、以前の自分の中に、はっきりと自覚して、

身に染み付いていたので分かります。

ユダヤと聞くだけで、とっさに悪い=古い=律法=廃れた、

廃止すべきもの、意味無いものと、条件反射的拒絶反応が

頭の中を駆け巡って居ました。ユダヤ人は古い廃れた教えを

信じて生きている呪われた人達であると。

ユダヤ=劣化した教え。旧約聖書=神に逆らう教えを生きて

いる真実を知らない、無知な人達=ユダヤ人と。これらの

ローマ教、主教、教父達の教えが刷り込まれ続けていたのです。

 

ここで、考えれば分かる事があります。1世紀、聖書に記載

され、登場している、イエシュア信者達も100%トラーを

生きていた。トラーを否定して、終わったとする人は誰も

いない。これは、変だと気が付けたら、答えが見えてきます。

 

1世紀のパウロ達に習ったイエシュア信者=ナザレ派は、

変わらずに、第七日目にシャバットを祝い、過越、仮庵の祭り

をしていた。ローマが作った別の記念日を祝った人など

一人もいなかった事実がある。いや、1世紀、ローマ

カトリック=新教はまだ形として形成されず、今現代の様な

祭り事や、祝い日、習わし、教えなどなかったのです。

 

神のレビ記23章の記念日をすり替えた人はパウロ、使徒を

含めて一人も居ない。新月を祝い、普通にレビ記11章の神の

食物を食べ、偶像も家に飾らず、ローマの教えを取り入れる

人達も居ない。

 

 

 

続く