創世記2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。
2:2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、
そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。
神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれた
からである。
出エジプト
31:16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の
契約として、代々安息日を守らなければならない。
<イスラエル=世界1大家族の代表=兄貴、家族の代表=
この中には共に出エジプトして来た異邦人達=弟妹もちゃんと
混ざっているそれらの全ての人に神が語っている事実。>
31:17 これは永遠にわたしと
<婚姻契約の中に安全に守られている印=生きて表す印>
である。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、
かつ、いこわれたからである』」。
31:18 主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの
板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに
授けられた。
神の口から直接語られた言葉は、永遠普遍であり、神が完全で
あるので、神の言葉も完全と書いてある通りを信じる人には、
神の言葉=声=コル<カハール=呼び出された人々の群の
ルート文字と同じ意味、性質>神の言葉、声に応答して
呼び出された人=カハール<教会は造語で本当はカハール、
呼び出された人たち>は、神の言われた通りを生きるでしょう。
神と神の言葉とが永遠普遍であることは、信仰の揺るぎない
土台なのです。
コロコロ七変化の異教の神々の様な神では、怖い、不安定、
落ち着けない、信頼できない、不安、不明、何を根拠に
次は約束を翻すの?と言う、猜疑心を伴う、疑い。
自分が7変化に揺らいでしまいます。
シャバットはイエシュアがたとえ何曜日に昇天しようとも
日程に変更が無い、昇天日とシャバットとは全く関係無い
からなのです。この神の言葉の事実に目を留める。
イエシュアが昇天した日が記念日ではなく、永遠の中から
神の業が全部完成していて、それが地上で現れて完了した
事実が第七日目だからです。7は1では無い。神の言葉、
デザインでは、1は労働日、普通の日なのです。
1〜6日=労働日。7日目=止まる=シャバット。
そんなに難しいでしょうか?1と7の違いは一目瞭然。
前回の記事の続きで書いていますが、シャバットを最初に
廃止せよと命令、勅令した人は、アンテオケの異邦人教祖。
1世紀時に出現した新宗教、イグネチア異邦人教祖が作って、
アンテオケ地方のトラーに根付かない、知らない異邦人信者達
に命令を下したと言う事が歴史の事実であり、神の言葉では、
無いと言うのが歴史の、神の言葉の事実なのです。
証拠は神の言葉だけで100%十分。代々=オラーム=永遠=
この天地が滅びないなら、人間が動物が、創造物が存在する
限り、神の言葉も変わらないと神が言ったから。
それだけで、100%十分な証拠なのです。それともエデンの園
を這う動物の様に、神の言葉だけでは十分では無いと疑いを
持ち続けるのでしょうか?
さて、この神の記念日が、なぜそこまで重要なのかは、
聖書を学べば、神の記念日のサイクルを生きれば、分かって
くるし、同時に実際に神の言われた内容を体験します。
この神の記念日こそ福音の全てを凝縮して生きる様に、神が
デザインしているからです。神の定めた日にあなたと特別な
出会いをしようと言った、デザインしたのは神だから。
これこそまさにイエシュアのエッセンスそのもの。
一番大事な事から目をそらす。何が問題だったの?と
ちゃんと書いてあります。
1 神の言葉を信用しないで、へびの言うことを聞いた
2 その結果、思索に疑いが入り込んだ。神の言葉に対する
疑い、自分が神の性質に造られている事への自己像への疑い
3アダムとエバは、お互いの関係にヒビが入り、
本来あるべき向き合う関係に幕がかかり、
色眼鏡を通してお互いを眺める様になった
3 お互いの本来の姿が分からなくなり、自分が誰か、
神の似姿に造られた人であることを忘れ、
4 その結果、お互いを批判、なじる、自分の行動を人<神>
のせいに責任転嫁し恥じる、隠れる、飛び出す、隔ての領域へ
出て、体も朽ちる、命を生み出さない状態に陥ってしまった。
神の子らしからぬ要素を、生きる様に学習してしまった。
コミュニケーションブレークダウン。お互いがお互いの事を
聞けない、理解できない世界に飛び出した。
プラス、神との関係も外側に飛び出てしまった。
喜び=エデンに幕がかかってしまった。
元はシンプル。神の言葉を否定した、それをずっとずっと
続けていけば、迷路にハマったまま、ぐるぐるぐるぐる
同じ場所を行ったり来たりしてしまうのです。
大事なのは、自分の命。傷、破壊、破損、壊す
その様な思索、行動に気が付いてと、神は責める言葉では無い
危ないよ!戻って=神の言葉の中、神の言う通りの生き方に
戻ってとそれが預言者の託宣なのです。
そして、お互いに相手を相手の性質通り知ろうとしないで、
色眼鏡、先入観、誤解で関わり続けたら、これはもう
神のデザイン通りの関係〜喜びは得られない。
人が望むのは人の変わらぬ愛と書いてある通り、
人は神のエッセンスで綴られて造られているから、
神のデザインした通りの関係、向き合う関係を求める。
だから、その状態に欠けたら、ありとあらゆる方法で欠けを
埋めるための、何か?を探し求める、又は傷付き、落胆、
失望、悲しみの中に沈んだままなんとか生きていくのです。
シンプルに、神の言葉を聞いてみて、死んだ自分の何が
今の自分を生きることを妨害しているのか、神がシャバット、
一年の神の記念日、モアデイムを通して教え続けてくれている
のです。それを捨てたら分からなくなる。
嘘だと思っても、神の言葉が真実だと信じるなら、実際やって
みる。ヘブライの聖書の世界は、哲学ではなく、思想だけでは
なく、その考えていること、信じていることを実際に”やる”
行動の世界なのです。
やってみたら分かる。不思議です。人にはなんと愚かしいと
聞こえようが、神の知恵は人を生かす力そのものです。
しかも、全て100%人のために神が教えてくれている。
見張ったり、頑張らせたり、神を喜ばせるために子供達に
あくせく努力させる、そんなこと、するわけない、
全然関係無い。異教の神々を想像しているからそう言う
神像を思い浮かべるだけ。100%神が全て用意、与えてくれ
ている事実だけに目を留める。恵とは、受けるに値する
事を何もやっていないで受け取るものと言う意味の
ヘブライ語なのです。
親は子のために100%注意を払い、その子が健やかに
安全に生きられる様に、色々教える。それと同じです。
さあ、やってみる。止まれと言われたから、素直に止まる。
バカみたい?意味ない?と考えるのか?それとも神が言われる
なら意味あるとするのか?100人隊長のように、神の”お言葉”
を頂けるだけで、それがどれだけ意味があるのか知っている人
はその通りにする。マタイ8:5ー13 異邦人だけれど、神の
言葉が何を意味するか、その実態を現実を知っていた!
仕事も、家計の計算も、様々な行事のプランも
全部やめて、自分を修復。自分を痛めつける言葉や
考えをしてないか神の言葉に照らし合わせて
点検。お金の心配していたら、”全ての必要を神の
無尽蔵の蔵から与えてくれる”と言う言葉だけ聞く。
自分がどんなにダメかと言う声を聴き続けたら、
”神の似姿に造られた”と言う言葉を神の前で
一緒に復唱する。人の言葉など聞かないで。
神の前で、一緒に考える。神の言葉を読んでみる。
そして、大事な家族とすれ違っていたら、
自分から歩み寄ってみる軌道修正は必要。
皆が同じ意識でシャバットを過ごす家族は
幸い。
アバが第七日目に止まったから、子供達よ、あなたも
同じ様に止まってこの日を祝いなさいと言われたから
今日もそう言ってくれてるから、シャバット。
シャバット シャローム
今日も世界中で、太古から語り継がれた神の
言葉、記念日が祝われている。
楽しい、嬉しい、神が永遠に一度された約束を
決して破らないお方だから。だから信頼、
安心して止まる。
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二日分のマナが天から降る




